第18話 死
自由落下というのは人間が死を最も意識する体験だと思う。痛みや飢え渇きはその苦痛のために、意識そのものが薄れてしまう。
その点落下に苦しさはなく、体の中身が無重力になる嘔吐感にも似た境地が、否応なく消失を思い知らせる。生身で空を飛ぶのは何週間かぶりだ。理不尽というのはなんでこうも理不尽なのか。
体にびしばしあたる砂粒のようなものはむろん業。炭素で構成された二次元の結晶体は、単体で見れば雪の様にはかない。
だが高度が下がるにつれ幾何級数的に抵抗が上がる。横合いの密度の薄い地点から奇襲をかけたはずだが、流石軽量なだけあって機敏な対処だ。紙の人型のおかげで無力化できるものの、この分だと地面に衝突する前に擦り切れてしまう。
まだ白い部分のある人型を食いちぎり、分解できる分量の情報を脳に浸す。瞳孔の奥から泡のように浮上する奇観に反応し、眼球が痙攣。脳幹が破裂するような痛み。堪えることなく叫ぶ。
炎の印が霞む世界を鮮烈に彩り、ナトリウムのように爆ぜて墨色の風を焼いた。上昇気流を捉えた服がひるがえり、紙きれの様に熱風にもてあそばれる。脳みそが遠心力に押しつぶされる中でも目は閉じない。黄金の檻が見えた。荘厳で、しかしどこか素朴な郷愁を誘う竹細工の箱。それを覆う浄土の徒花。重油のような粘ついたスペクトルの放ち、無常の響きに身を震わせる。
風、抵抗、蟲、不随意な反射、重力、モーメント。それらの合力が恣意的なまでに噛み合い、僕を敵の中心へ運ぶ。
懐かしの大地が僕を迎えた。まともな地面すら愛おしい。だが感謝の心を思い出す暇もなく、ありとあらゆる敵性体が、僕の寝転ぶ一畳の間隙を埋め尽くさんとなだれ込んできた。
ここまでの乱戦になれば技もクソもない。伝孔丸を振り回し、人型をばらまき、神経を枯らして打ち出す呪文で開いた断絶の奥へと体をねじ込んでいく。
痛い苦しいと感じる前に、次から次へ迫る死の暴雨を振り払うことにニューロンの一滴までもそそぐ。時間も上下も見失い、ただより暗い深淵へと猛進する
運がいいのか悪いのか。どうも怪物たちの動きが一拍遅れている気がする。皮膚は削がれ、肉を切られてもまだ走れるのはそのおかげか。しだいに地面が揺れ動いていく。脚の震えからではない。ふと見上げれば毒々しい七色の黒い蓮がこちらに花弁を向けていた。
花びらの一枚、そして中心の花柱に座した枯れ木のような躯の教団。気が付けば周囲から敵の影が消えていた。
そして目の前で嵐が産み落とされる。黒鉛の泥と化した文字たちが曼陀羅の文様を引き、大気に凍り付いたような緊張が走る。ひとりでに歯が割れて唇を濡らした。
あれは、あの塔は攻撃では無かった。彼等のいた時空の、ほんの一つの小枝への通路を開けただけ。全ての業たちを詰め込むにはあまりに細く、しかし打ち抜いた者をその根源から塗り替えるに十分な、流れゆく世界そのもの。
恐らくはあれで僕の存在そのものを書き換えるつもりだろう。本能が危険と任じたものを、最も確実に破壊する為に。
だが無量の軍勢を持つお前たちにも分からぬことはある。門がつながるということは、僕もまた入れるということなのだ。
塔は射出されることはない。初めからそこに有り、また無かったのだ。事象の地平線を超えて現れた塔に、僕は消えた。
暗い部屋にいた。僕がよく昼寝していた部屋。畳の匂いが好きだった。今は彩の無い黒とも茶色ともつかない影に塗りつぶされている。いつだったか、来たことがような気がする。夢に違いない。夢ならばまだ死んでいないことになるのか?
夢といっても僕の自由になるわけではない。むしろ一歩も動けない。案山子のように立っているだけだ。
そういえば立っている。そうだ、塔の中に突っ込んだんだった。やっぱり死んだのかな。ではここがあの世として、このまま立っているだけなのか?いやいくら何でもそんな苦行を科されるほど悪いことは
「無い。俺が説明する」
誰だ?
「俺だ」
だから誰?
「だから俺だ。他にない」
輝度の低い部屋の中で、世界の果てのような白衣の男だった。顔はなんて事の無い、悪いとは言えない程度のもの。無論見覚えは全く無い。
「当然だ。まるで関係ないからな。ここに来たのはいわば、慈善事業に近い」
それは、なんとなくありがたいけれど、しかしなんのために。
「特に理由も無いが、まあ俺だからということと、あんまりに説明が無いのも哀れだからな。無常といっても限度がある。最低限の理解は必要だ」
そう言いながら部屋の中を飛び回り始める男。突然の奇行に信頼性は急転直下だ。
「ああ気にするな。俺だからな。フェムト体とはいえ現象内で活動するにはある程度の無意味領域が必要だ。お前は大丈夫だが俺は俺だからな」
だから誰だよ。いや疑問に答えてくれるならなんで僕はこんなところに
「意味は特にない。偶然だ。そこそこ素質のある奴を適当に選んだだけだな」
なんとなく分かってはいた。分かってはいたがこうはっきり断言されると物悲しいものがある。
「塔が問題だとは解るだろう。あれがどこかで重なり合ったんだ。めったにないが、時間の無い地平ではそこらじゅうで起きていると言ってもいい。ともかく早急にずらさなければ枝が一つ組み替えられてしまうからな。別の枝としてお前が呼ばれた訳だ」
え、でもちょっとこう、召喚されたからにはチート能力とかそんなものは
「無意味だ。平然と星をぶち砕ける連中だぞ。多少の現象内のエネルギーではどうこう出来ん。枝だからいつかはたどり着く。それだけでいいだろう。呼ばれている感覚はあったはずだ」
ああ、あれか。まああんな無茶な作戦で生き残れるのはチートといえばそうか。じゃあ死ぬことはないと
「いや死ぬ時は死ぬ。向こうだって総体としては枝だからな。変質すればまた別の奴が来るだけだ」
だめじゃん!
男の動きはだんだん激しくなり、関節がいけない方向に曲がったりしている。そろそろ空中分解を起こしそうだ。
「まあ適当にやってればいつかは着く。何万年後かは知らんが。意志を強くもつことだ。あと仲間を大事にな。仲間は大事だ。そろそろ戻る」
あ、そういえばさっきまでの戦いはどうなって
「門は1最小時間単位後に閉じた。向こうの塔もこちらの目的を認識したんだろう。あと下手すると死ぬから頑張れ」
いや死ぬの!?いきなり!?
「戦争でいきなりでないことなどない。強く意志を持て。友達は大事だ。肉の記憶には残らんが覚えておけ。以上俺だ」
だから誰なんだ。そう思うより早く男は白衣の内側に飛び込んで消え、僕の認識も断たれてしまった。
目が見ていることに気づく。僕は泥の上で棒立ちになっていた。先ほどまで上空にのさばっていた極彩色の花弁は肉の一片も残っていない。青空が戻っていた。
体が痛い。初めからそうだったが、ようやく認識が追い付いてきたようだ。膝をつく。泥に頭から倒れるのは意地で回避した。伝孔丸を杖代わりにしてどうにか姿勢を整える。鍔におでこを置いて頭の台にした。こいつには随分助けられた。開発者には感謝しよう。
生き残ったのか?敵は皆消えうせたのだろうか。そう思って首を傾げる。脇の下から後ろが見え。
牛の頭が映った。
パイプを切っただけの竹槍以下の武装。しかし体の大部分が無事だ。牛の前足が上がり、四本の腕がそれぞれに槍を構える。いきなりこれか。もう動けない、なんて泣き言は言えない。脚が動かないなら背骨でもなんでも使って跳ぶしかないのだ。
いちいち走り寄ってはいられない。右方に槍を避けざまに左側の足を全部斬り落とす。六足の昆虫じみた上下動のない走法で突貫してくる。丹田に力を込め、満身で脚を伸ばして立つ。そのまま力尽きたように、いや実際力尽きて倒れこみ、その運動の力で刀を抜く。
息が苦しい。だが泥に埋まってはいない。斬り落とした腕が握った槍に、胸を貫かれていた。血痰が零れる。吐く力もない。周りにはまだ躯や獣らがいた。どうせなら一掃してくれればよかったのに。
爆竹が束ごと破裂する音。飛来した剣が躯の頭を砕いた。赤く濁ってきた眼を向ける。聖が牛を拳で吹き飛ばす。縦に割られた半身をぶん投げ、モップで集めたようになった敵を散弾で消し飛ばした。
そうだ。聖。治ったのか。良かった。鳥居の上に隙間を作って隠したのが功を奏したのか、発見されなかったようだ。良かった。うん。良かった。眠い。ちょっと顔を見せて欲しいな。贅沢を言えば、どんな声をしているかも。
眠る前の僕は多分笑っていた。
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