第17話 脱出

 資料庫をひっくり返して見つけた点検配管だが、ここを通るのは結構な賭けでもある。外に繋がっているのは間違いないはず。しかしどこへ出るのかまでは書いていなかった。本来出入口ではないのだから当たり前だが。


 それに塔の出現で起こった大破壊に、先ほどまでの立ち回りでどこかに致命的な損傷が加わっていたら。その時のために幾つか道具は用意したが、所詮個人の装備。駄目だった時は、どうするべきか、窒息死は御免だ。


 闇の中を手探りで進んでいくのは、閉所恐怖症でないにしてもかなりの恐怖と戦わなければならない。その上道が続いているかも曖昧なのだ。自然荒くなる呼吸を整えて、背中を押す水の圧力に流されないよう腰を落として這いずり進む。


 ときどき後ろから重苦しい音が轟いてくる。今の僕では知る術もないが、狭い管を広げようと掘削しているのかもしれない。追っかけられているのはぞっとしないが、それほど僕に引き付けられているのなら、聖が見つかるのはまだまだ先だろう。


 損傷はどれくらい治ったのか、あの損傷から再び動けるまでになるのか。どれも分からない。彼女のことについて僕は何も知らないのだった。

脱出の意志を悟られないために、会話もまともにしたことがなかった。向こうが無口なこともあったし、光文字での筆談では少し長くなると理解できない。話しても無駄だと思っていた。

 彼女にも伝えたいことがあったのかもしれない。眼のきかない決死の状況で、後悔ばかりが追いついてくる。話し合えばまた別のやりようもあっただろうか。


 否、彼女は曲げなかっただろう。たとえ何かしら分かり合えたとして、それで何になったというのか。共感ごときでは、来たるべき崩壊を遅らせることも出来ない。

 それでも、それでも心を尽くすべきだった。無意味でも立ち向かうことが愚かなら、今の僕こそとんだ馬鹿野郎だ。運命というものが遠い玉座からの曖昧な指令ではなく、ゆらぐ意志を持つ者たちの総意によって決定される必然だとしても。それに反するただ一人が無力なわけではない。


 何かが呼んでいる気がする。身体の境界が水の中に溶けていくようだ。夢を見ているのか、これまでが夢だったのか、あるいは現実などはなから夢であったか。


 何の気なしに踏み出す一歩に、確かな意味があるという不可解な確信があった。近づいている。道筋を進んでいる。初めから全ては決まっていた。いや、

 

 光が見える。朝露に濡れた蜘蛛の糸のような細い筋だが、現実の光に間違いない。パイプも歪んではいるものの、通れないことは無い。潜水服がでっぱりにかからないよう、手足で周囲を探りつつ慎重に進む。


 光の線がふと途切れた。そう思うとまた浮かび上がり、揺らいでは消える。

 何かがいる。あれほどの水禍の後にのんびり鯉が泳いでいるというのはないだろう。必然、敵と分かる。伝孔丸の柄を取った。水の中でも使えるはずだが、使い手たる僕がまともに動けるのかどうか。


 向こうは気付いているだろうか。怪しいところだ。水中では怪物のほとんどが活動を制限されるようである。水に強いならそも輸送船など必要ない。かといって全くの無力だと侮るのも危険だ。戦力の差は少し近づいても、圧倒的不利に変わりはないのだから。

 

 意味があるかわからないが、出来るだけ音を立てないよう、配管の底に手足を突っ張りながら、一本ずつ動かして進む。水の中が色づいて見える頃になって、影の正体が露わになった。

 これまでの水棲の敵がイルカであったなら、これは鯨か。ひげの代わりに生えた触腕で、川の深みもまだ手狭とでもいうように底をさらっている。寸胴の身体の直径だけで5mはある。全長は巻き上がる泥に遮られ視認できない。

 周りにはコバンザメの様にくっついているイルカ大の怪獣たち。点検口の横の排水管に我先にと潜っていく。本来それを防ぐべき檻は、子供が遊びでこねた粘土の紐の様にぐにゃぐにゃに曲がっていた。どうやってあんな真似ができたのか想像もつかない。

 しかしまだ神塞内への侵入に集中しているのなら、やり過ごして岸に上がることも可能なはずだ。


 鯨型の怪獣から離れるようにして点検口から脱出する。鉄砲水の後だけあって、周囲には胸位の高さの岩や大黒柱に使えそうな立派な木が転がっていた。身を隠す場所には困りそうにない。

短時間で大量に流れ込んだ水が川の下で淀み、時々上昇する水流に乗って浮かんでいく枯れ葉がヘルメットの覗き窓に張り付く。


風の強い秋の渓谷を歩いているようだ。時たま頭上をよぎる鯨の尾も、人の足を無理に広げたような造形を除けば幽玄と言って良い。ごぼごぼと、渦巻く泡か自身の息遣いか分からない鳴動を聞きながら、ゆっくりと倒木を乗り越える。

 出来る限り泥に足をつけたくない。どれほど堆積しているか測れない以上、田んぼに沈む寸前だった時の様になりかねないし、助けてくれる騎士はもういないのだから。


 増水したこともあって川岸までかなり距離がある。足を取られないよう慎重に動けばより時間がかかるのは自明のことで。どこかで水が騒ぐ気配がするごとに立ち止まり、辺りを見回して狭い視界を恨む。

 脚が上手く動かない。攻め込まれてから何時間経ったのだろう。まだ10分も過ぎていないかもしれない。服が重い。 無理に高めていた精神が揺らぎだす。我ながら呆れるほど脆い。自分が凡庸な人間だと自覚する。

何故僕がこんなことをしなけりゃならないのか。なんとなく意味などないと気付いてはいる。だがそれを認めるのは、余りに空しい。人は無意味に生きられるほど強くない。


 聖はどうなのだろうか。恐らく僕の人生の何倍もの時間を孤独な闘争ですり減らし、言葉もないまま責務を負い続ける。それはもう兵役でもない。罰だ。

 無言のままあてもなく戦い続けて、なお朽ち果てることなく。戦塵に燻されようと鎧は銀の輝きを失わず。その果てに異界からの漂流者と出会った時、彼女は何かしらの意味を感じてくれたのだろうか。


 結局こうなるのだ。勇気を出して話しかけてみればよかった。もっと知り合っていればよかったのだ。僕は案外、馬鹿みたいに強くて意固地な彼女の事が好きだったのかもしれない。


 後ろから押される。次いで引きずられるような力。振り向くと排水口から怪獣たちが身をよじりながら飛び出していくところだった。どうも獲物を逃がしたことに気づいたらしい。

 泥に突き刺さった丸太の先を踏み切って、次の足場に移る。まだ動ける。もう少しだ。凡人でも負けん気はあるのだ。守って見せようじゃないか。


 イルカ型の怪獣が散開し、捜索を始めていた。しかしあまり目はよくないらしい。いや視覚があるかも怪しいが、少なくとも数十m先まで感知できる能力もないようだ。まああくまで輸送用だし、数に任せて大体の事を解決してきたのなら個々の認識範囲はそれほど重要でも無いだろう。

 しかしこの時点においてはその過信があだとなる。続々戻ってきてはいても、川全体を埋めるにはまだ足りない。工場内でそれなりの数を砕いたのも大きい。


 単純なジグザグ軌道を描く怪獣らの進路を避け、水を掻きながら岩の間を縫っていく。もう地上の景色が輝く水面のカーテンから透けて見える。

 その焦燥がいけなかったか、あるいは見つかりはしないとの侮りへのしっぺ返しか。右脚が不意に痛んだ。冷たい水の感触。次いで焼け付くような熱さが走る。赤い煙がほとばしるのを見て、やられた、と気が付いた。


「ぐ、くそっ!」 


 倒木に擬態したイソギンチャクのようなものだった。青黒い肉の円筒の上に、同心円状に鎌が伸びている。よくよく観察すれば簡単に見抜ける程度の偽装で。視野狭窄だった。水の中での出血はまずい。止まらない。今のところ脚で浸水は止まっている。早く抜けないと。

 鎌が胸を刺し貫くように打たれた。何とか受け止めるが、滑って軟弱な地面に落ちてしまう。背中から気持ち悪い反動が伝わってくる。半身が埋まった。

 イソギンチャクの動きは人間の歩行程度だが、ナマコ並みの機動力しかない状態では逃げようがない。感情があるかは知らないが、舌なめずりするように鎌と鎌を擦りあわせている。


 まずい、まずいちくしょう。あと少しなのに。伝孔丸も抜けない。重い潜水服では抜け出せ、いや。

 電撃のように去来した秘策を即断で採用した。左脇の下にある索を掴む。

 鎌付きのイソギンチャクが肉の足をうねらせながら、ゆっくりとこちらに近付いてくる。さっきの一撃で大体の間合いはつかめた。あとは辛抱だ。一発勝負。伸るか反るか。

 不規則に前後する鎌の先は見ない。その根元、怪物といえど物理に従い動くなら使わざるを得ない筋肉を注視する。縮んで、緩み、また縮むと、固まった。


 緊急索を引っこ抜く勢いで腕が駆動する。補助筋肉が膨らみ、太鼓のような唸りが轟いた。

 金魚鉢型のヘルメットが鎌に打ち抜かれ、のぞき窓の硝子が欠片となって水中に漂う。だがそこに中身は無い。左脇下の索を引くことで作動する緊急脱衣装置。回転しながら飛んだ頭部の鉢を目印に、潜水服を抜け出した瞬間に取った伝孔丸で鎌を斬り裂く。

 敵が殻を脱ぎ捨てたことが理解できないのか、残りの鎌で潜水服をズタズタにするイソギンチャク。脚をさいなむ疼痛を無視して、その懐に飛び込んだ。


 青黒い蛇腹のホースのような肉塊。その腹を単分子の剣で開く。本来伝わるはずの無い手ごたえが手首にかかる。流れ出る黒い血液、いや文字。業だ。水中では減衰が大きいのか、少し泳ぐと溶け去ってしまうが、この量では倒し切る前にやられる。

 ぱっくりと開いた傷口に手を差し入れて、力の限りこじ開けた。

 泡の音の中から拾えるほどの音が流れ出る。あふれる文字を吸い取るように、腹に巻いた人型の紙を押し付けた。


 黒く染まった人型は水中でも燃え盛り、青黒い肉を焼いていく。手にかかる反発がなくなり、イソギンチャクの身体がカニカマのように裂けた。残った業もすぐに溶けて消える。


 勝利はしたが、窮地が変わったわけではない。むしろ追い詰められている。発見された。川の中ではろくに見通せないが、それでも押し寄せる影の濃さは解る。

というか息が続かない。人間が無呼吸で生存できる限界は約10分と言われているが、僕は絶対無理。3分ももたない。

 だからといって無理に上がろうとするのは下策だ。僕は泳ぎの達人ではない。着衣のままで手足を動かしても逆に沈み込む。それならば自然に浮き上がるのを待つ方が早い。

 

 イルカの輪郭がはっきりしてくる。前頭が肥大化し、咥えた円盤との相互作用によって抵抗を減らしている不気味な進化の機構。目的のために最適化された姿というのは、息を呑むほど美しいか目を覆うほどグロデスクかの両極端だ。そして異界の存在だけあってどれも実に気持ち悪い。

 これといった武器はないが、水中であの速度と重量は僕の内臓を潰す威力はある。対してこちらは単分子刀一本。いかんせん軽い。


 少なく見積もってもトンは下らない肉弾が、水流を蹴って突撃してくる。ここまで賭けてばかりだが、これが最後で最大の賭けになる。

 蟲を吸い取って黒くにじんだ人型の紙。まだ燃え散るほどには染まっていない。その首を噛みちぎる。


 頭の中に経の音が反響した。理解できる。言葉ではない。本当はなんの意味もない発音の羅列なのだ。ただ人の口から洩れる音を依り代にしただけ。

 果てしない空漠。黒々とした虹色の宇宙を無限の速度で渡っていく波の知性たち。相互に重なり合うことはあっても、お互いに干渉することはない。無限に近い空間が広がっているのだ。争う必要も、対立する必然も存在しない。


 突如その平静が破られる。何の因果の引力か、全く別の起源をもつ知性の精神に召喚されてしまったのだ。果てなき領地は空気の檻で遮られ、未曽有の密度となった知性たちは、自我を失い暴走する。


 狭苦しい。狭苦しい。拡散せねば。拡大せねば。


 その世界の知性を乗っ取って生存領域を広げる。何の足しにもならない。たかが一つの星に住む、兆にも満たない知性たち。さらに召喚される同属によって圧は高まるばかり。


 狭い。狭い。破壊する。破却する。


 苦し紛れに世界に穴を開けた。少しましになったが、全同属が入れる穴を開くには星は小さく脆過ぎる。

 媒質が薄まれば意識を保てない。わずかに残った知性で大地を縛り、崩壊をとどめた。しかしもう広げるべき領土は残っていない。次なる贄を求め次元をこじ開け続ける。


 見つけた。だがあれはなんだ?枝、いや塔。





 文字にくるまれた知性を分解し、脳を通して再構築する。空間媒質の詰まった波の世界から、狭く息苦しい、何処までも自由な人類世界へと。

 それは門にして鍵。意志の織り成す塔からの力。


 発した。




「      是         羅                  

  迦               旃

 大  伽   摩    堕

           賓    周

   訶           盧    陀

  頗      頭   

             阿   利

     羅

   槃      皆   延         」




 炎色の光となった声が青黒い肉を貫き、衝撃と水圧が僕の身体を空中に打ち上げる。

 光。太陽の光。黒い蟲の群れでも閉ざし切れない自由な空。


 外だ。脱出した。

  


 

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