第5話 神塞
手を伸ばせば宇宙まで突き抜けていってしまいそうな、高い、高い空。頬にかかる風は夏の湿り気を脱ぎ捨てて、爽やかに吹き抜ける。厳しい冬までにはまだ時間があり、吸い込んだ空気は緑と水の味がした。
これまでは入り組んだ山道をひたすらに上り下りしていたが、川沿いに出た後は朽ち果てたガードレールを横目に、水の流れる方向へと向かっていた。
ここまであの焼死体のような化け物には出会っていない。聖の装備からしてあのような連中を随分と倒してきたようだが。あるいはもうこの辺りの化け物は倒し切ったということかもしれないが、これはさすがに楽観が過ぎるだろうか。
少なくとも、川べりに昨夜の重苦しい空気は無い。日本晴れの空は、むしろ年中を通してもそうないだろう気持ちのいい天気だ。
ゆっくりと移り変わる山並みは豊かに色づき、一つとして同じものは無い。果てしなく大きな絵画を鑑賞しているようだ。
その中で自然から外れた機械の馬と銀装の武者は、不思議にも秋の山水に馴染んでいた。むしろこの景色の中、僕だけが異物であるかのようだ。それともこれは訳も分からぬまま異邦人として召喚された者の自意識過剰か。
僕がいないこの空の下を想像してみる。透明な空と、冬には消えさる命が盛る晩秋の大地。紅葉の色を吸い上げ、しかし自らの無色も湛えながら流れる川。
山に在るものにとって、この世の果てにも思えるだろう海へ運ばれる木の葉。
黒と緑の機械獣に乗り、急流よりも迅く流れる山々を言葉も無く見晴らす水晶の瞳。幻想の彼女は兜を脱いで、この絵の中ででただ一つの漆黒をなびかせていた。
人のいない世界にも音はある。だが言葉の無い世界の静けさは心に凪をもたらす。彼女がこの世界の一部として生きているのは、その無機質な鎧の中に、何の言葉も込められていないからかもしれない。
風と水音に耳をすませているうち、川の下流、山脈の切れ目に金色の壁が見えた。金属ではない。まるで穂を垂れる稲の群れのような、柔らかな輝きだ。
山の中腹に棚田でもあるのかと思ったが、違う。高い。ちょっとしたビルくらいはある。それに濃淡が無い。隙間なく
竹だ。よく乾かして藁の色になった竹。どれくらい立っているのだろう。数百ではとても、数千、万を数えるかもしれない。
川の中洲、島のようになっている箇所にその構造物は生えていた。建っている、というにはあまりに唐突な感じで、むしろ空から降ってきたと考えた方がしっくりくる。
上部も竹を何重にも載せて、紙の入る隙間も見えない。それは竹細工で閉じられた精緻な箱だった。
中洲をそのまま閉じ込めた形のため、不完全な楕円形になっている奇形の要塞は、合流する川に隔絶され、周りには橋一つ無い。
機械馬が一歩踏み出すたびに大きくなる箱。その入り口が姿を現す。鳥居だった。本来解放されながら神域と俗世を分かつその門は、今や木とも草ともつかない植物に覆われ、開口部さえ簾のごとく下がる金色の蓋に塞がれていた。
元はさぞ大きな神社だったろうに、総竹製の箱物になってはその荘厳さよりも奇異な防壁にばかり目がいく。聖が手綱を引くと、機械馬がその単眼を鳥居に向けた。道路から外れると、腹の円盤を地から離して襲歩から常足に切り替える。
四本足全てが宙に浮く襲歩は、円盤の高速回転も加わって並みの車を超える速度が出る。速いし気持ちもいい、黒い紐でぐるぐる巻きにされているから安全なのも分かる。だが乗っかっているだけの状態で100km以上出されるのはちょっとした恐怖だ。普通の歩き方に戻ったので、鎧に掴まっていた腕の力を抜き、ほっと息をつく。
聖が馬から降りた。軽く手綱を握りながら、黙ってこちらを見上げる。僕も降りろという事だろう。両手を鞍に置いて着地する。手綱を握って歩いて行く聖を追って、河原に足を踏み入れた。
白い砂に三本爪の足跡と、二人分の靴跡を残しつつ、底まで透き通る清水に入る。ガラスのようなしぶきが頬を打った。山から吹く寒気に冷やされた流水を割って進む。
顔を撫でる風が目に痛い季節だが、疲れて火照った体にはむしろ心地よい。泥だらけの靴に水が染み込み、肌に張り付いていた土を洗い落とす。
波を引いて川を渡りながら空を見上げた。白い雲が薄くたなびく青空と、それを囲む紅葉の山。人影は僕たちの他に無い。
藁色の竹壁から浮き上がるように、真っ赤な鳥居が立つ。これだけでとてつもなくでかい。川から上がって見上げると首が痛くなる。鳥居の隙間や上にもびっしりと竹が敷き詰められて、天球の三分の一ほどを削り取っている。掲げられた厳しい装飾の札に、砦の名前が書いてあった。
"熊野神塞"
それだけが見事な行書で記されている。それですべて説明がつくという自信、いやこの場合は信仰があるのだろう。
入り口といっても、壁にドアのようなものは見当たらないし、巻き上げる機構もついていない。完璧に閉じられた箱だ。入り口は鳥居だと思うけど、これをどうやって開けるのか。
中でアーク灯を照らしてもわからなさそうな障壁に、聖はためらいもせず大股で近づく。僕も後ろから門を観察するが、やはり隙間も隠した穴のようなものも見えない。
自然物である以上、微妙な差異から重ならない部分は出てくるが、それを圧倒的な厚みで補っている。乾いた竹は散弾を弾くほどの強度を持つ。この厚みならライフル弾だって止められるはずだ。
聖が行ったのは、鳥居の中心から少し離れた壁に、ただ掌を着けただけ。もちろん竹に指紋認証なんて出来るはずがないし、そもそも彼女の手は籠手に覆われている。
こぉん、と
奥にずれるように入ると、横に回転する。つられたように他の竹も次々縦横に動き回り、回転し、ついには小さな鳥居を作った。小さいといっても普通の神社のものくらいはある。内部が見通せた。
白い。背景が紙のごとく白い。事実それは紙だった。壁の内側はどれほどの厚みか、和紙が全面に貼ってあり、非現実的な明度を保っている。
奥の中央に一際大きな本殿。白い壁によって暗い色合いが際立ち、細部まで観て取れる。それが逆に現実感を失わせていた。
古い木の色の柱が一定の間隔で立ち、延々と続く木組みの建築を支えていた。
長い。というより切れ目が無い。ひたすらに続く社殿は塀と一体化して、間に三重の塔などを挟みつつ、それ自体が大きな囲いとなっている。
一般的な寺社の建築法を完全に無視した構造だ。神仏を祀るのではなく、外界を拒絶する事に主眼を置いているように感じる。
竹の鳥居をくぐり、白い砂利の上に立つと、また竹が動いて元の壁に戻る。紙のしっくいが流体のごとくその表面を覆うと、周りとの違いはもう判別出来ない。
正直住み心地良い場所とは思えない。あまりに現実離れしているというか、潔癖過ぎるのだ。漫画のコマの中にぶち込まれたらこんな感じになるかもしれない。とにかく白い。建物以外地面の玉砂利さえ真っ白だ。
聖は神様に遠慮してか、徒歩のまま馬を引いて門をくぐる。しかし大きい。白い壁が目測を狂わせているが、先ほどまで乗っていた機械馬を基準にすると、梁までざっと4、5 mはある。木造の温かみよりも得体の知れなさが目立つ。
門の内部は白の片鱗もない。今度は執拗なまでに木を使っている。よく考えたらここまで金属の部品を見ていない。何から何まで有機質の建材を用いている。蝶番も漆を塗った木材だ。壁はモザイク模様の合板で固めてあり、白い砂利道の面まで続くそれは切れ目が見えない。門と一体化した渡り廊下まで覆っている。
何もかも不合理だ。しかし芸術や工芸と言うには遊びが全くない。切実に必要に迫られて技術の粋を集めたようだ。
その囲いの中に人の気配やはり無い。玉砂利を踏みしめるきしみと、歯車の唸りだけがここに息づいている生命のあげる声だった。
聖が向かったのは右手に建っている三重塔で、これは瓦の代わりに木の皮、たぶん
こちらも出入り口が見当たらない。あるのは太い柱と、その間を埋める冗談のように続く木の皮の編み目だけだ。
またも壁に手を付ける。編みこんである帯状の板が一つずれると、空いた隙間はどんどん広がっていき、人が二人並んで通れるくらいになる。ほんとどうなってるんだろう。
塔の中は六角形の部屋で、僕たちが入った辺は出入り口と階段。残りにはベッドが並んでいる。簡単な屏風のようなものはあるが、プライバシーへの配慮は期待しないほうがよさそうだ。そもそも人がいないけれど。
人が住まなくなって久しい部屋をぼやっと観察していると、部屋の奥にずんずん進んでいった聖が大きなトランクを持ってきた。ベッドの下にあったものらしい。僕の目の前に下ろすとほこりが舞い上がる。息を止めて手で払う。これも長年使われていないものらしい。
「えっと……これは?」
配給
手を素早く組み換えて光文字を作る。使え、ということだろう。そのまま塔から出て行ってしまう。追いかけようとしたときには扉が埋まってしまった。触ってみたが当然動かない。
自分の状態を今一度確かめる。服は泥だらけで濡れ鼠。川に入った時はよかったけれど、だいぶ身体が冷えてきた。ため息をつく。中古品でもありがたく貰うべきだろう。木製の留め金を外して中身をひっくり返す。
ブーツが一足。学生服のような、黒い厚手の服上下が二着、ベルト付き。
ナイフは流石に鉄だろうと思っていたがセラミック製だった。たばこらしきものはベッドの下に放っておく。おはしが一膳に、缶切り、薬?のようなものが入った紙箱。開けてみると漢方薬の臭いがした。
”疎開ニオケル臣民ノ心得”のような字が表紙に書いてあるボロボロの小冊子。鉛筆と消しゴム。鉛筆削りが無い。どうやって使うんだ?あとは円筒形のフタがネジ式になっている水筒。これはご飯なんかも入れるんだろう。漆塗りの木製だった。
とるもとりあえず雑巾と近似値をとってしまった服を脱いで身体をふき、学生服に着替える。肌ざわりは悪くない。虫食いなんかもないようだ。ベッドの毛布を思い切りはたいてほこりを出す。あとで洗濯機と、あと空気の取り入れ方を教えてもらおう。
マットレスの上に倒れこむ。目を閉じると疲労感が頭の底に積もっていく。意識も共に沈んでいくようだ。
まだ明るいのに。でも寝ていなかったからな。明日はどうしよう。長い夢を見ていたのかもしれない。起きたら家だと、そうだといい。
思考が言葉になったのはそこまでだった。
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