第3話 奇怪騎士、奔る
月にかかる雲のごとく垂れ込める枝葉の群れ。そのただ中を黒ずんだ緑の馬が駆ける。苔むした黒曜石のような三叉の
真の闇は想像力さえ塗りつぶす。この闇の中に一つ電灯でも立っていれば、人はその光の外に身も凍るような恐怖の存在を見出すに違いない。しかし自分の掌さえ見えないこの漆黒では、今森を駆けているこの時さえ夢か現か。これでは胎児とさほど変わりもない。恐れることさえ出来ない不可視の無明で、ただ一つ確かなものはかき抱く鋼鉄の感触だけだ。
予想に反して機械馬の乗り心地は実にいい。わずかな上下動はあるが、地面の凹凸をいささかも伝えない円盤と、しなやかな金属繊維が関節から覗く脚が衝撃を柔らかく受け流している。目印になるようなものが無いため速度は見当もつかないが、腕に当たる空気の圧からして、そこらの車より遅いという事はないだろう。
気ままに芽吹く植物たちが連なる山で、このスピードは異常と言っていい。まあ異常というなら、四つ足と転輪のハイブリットの乗り物なんてふざけているとしか思えないけど。
操縦方法も謎だ。乗り手たる女武者がさばくのはなんと手綱。さっきから無言を貫く頼もしいことこの上ないお人だが、紐だけでどうやってこのやたら複雑そうな
速度だけはほぼ一定で、方向も現在地もさっぱりわからない。ただ目標は明らかだった。あの奇妙な焼死体を追っている。虎狼の執念でこれを滅さんと走っている。
轟々と追いすがる風の怨嗟。ざわざわと被さる木木の囁き。常人の視力しか持たない身には、闇をほのかに染める他に用をなさない紅いライトの輝き。
恐怖を覚えないのは、密閉された暗黒に精神の境を曖昧にされたからか。あるいは、心臓の鼓動ではない駆動音の響く甲冑の内に、何らかの温かみを感じたのだろうか?
怖れを知らぬように、時計の正確さで刻まれる蹄鉄の抑揚が、子守唄のように夢への暗幕を開いた。
暗い部屋にいた。子供が絵の具をそのままカンバスに塗りつけたような、輪郭の無い、奥行きも焦点さえもぼやけてしまった暗い部屋。
黒と焦げ茶色の壁は、かすかな明暗の違いで辛うじて四角い箱を表現している。下は畳。極黒の窓のような床の間。かけ軸でもかかっているかもしれないが、何も見えない。灰色がかっている部分は
夢だ。それだけは確信できた。いつの間に寝ていたんだろう。学校から帰る途中までしか思い出せない。あの後家に帰って寝たのかな。思い出せない。
部屋の中央で僕は寝ていた。眠っている夢なんて珍しい。疲れてたんだろうか。
これはいわゆる明晰夢というものなんだろう。夢と分かっている夢だ。心霊現象なんかが起きやすいらしい。
楽しい夢なら大歓迎なのだけど、暗い部屋で寝ているだけなのはいただけない。さっさと起きるのが吉だろう。こういう現象は脳と肉体が混線している場合がほとんどだから、要するにそれを意識的に戻してやればいい。体を動かしたり声を出したりだ。
とりあえず声を出そうとする。声が出ない。体を動かそうとして出来ない事に気づく。金縛りまでかかっているのか。
嫌だな。早く目覚めたい。起きて朝だったら布団を畳んで、まだ夜だったらどうせ眠れないから本でも読もう。起きないと。僕の部屋だ。布団から出て。
否
其処に非ず
指一本自由にならない。声をあげようとしても出るのは掠れたため息だけだ。なんだか怖くなってきた。僕の部屋。起きて、あの世界に。
まだ時ではない
汝に使命有り
どうして起きないんだ。僕の部屋。僕の世界。
世界?なんで世界なんだ。僕は自分の部屋で寝ていて、そこに世界なんて何の関係も。耳鳴りが聞こえる。まるで歯車の回る柱時計の機構部に顔を突っ込んだような。
とにかく起きないと。必死に喉を震わせる。暗い部屋にいる。出口はどこだ。僕は何処に。
意思は力なり
思い起こせ汝の使命
世界を救え
百万億土にそびえる塔の加護あらんことを
「うわ!!」
鎧が震える。怯えからではない。待機していた戦術機能を励起させる鳴動だ。 武者震いと共に太刀が抜かれ、内臓が落っこちそうな加速で機械馬が跳んだ。
残り少ないからといって思いっきり振り回したケチャップの袋みたいに頭に血が上る。錐もみ回転する頭の上、つまり鉛直下方向を白熱が貫く。忘れようもない。焼死体が放った火球だ。今回は幾分小さいが数が多い。細長く糸を引くのも相まってビームのようだ。
二回か三回か天地が上下し、樹の幹に着地するとすぐに蹴り飛ばして次の木に飛び移る。首が折れるかと思ったが、頭はしっかりと頸椎に鎮座している。なにかが体に巻き付いて固定していた。
紐、いや文字だ。彼女の刀を留めていた墨色の紐は、遺伝子の二重らせんのように絡み合う文字列だった。あの死体の口から流れ出した蟲と同じ、あるいは似たなにかだ。
戦闘機の空中機動じみた、三次元的な視界の変動。到底意識が追い付かない動きだが、常に前方、彼女の陰からちらちらと覗く敵の姿ははっきりと認識できた。
大技では捉え切れないと判断してか、薄墨色の蟲たちがいくつもの小円を形作っている。仏教の曼陀羅か、あるいは奇怪な生態を持つ生物の巣か。収束と放出を繰り返す流星の群れを縫うようにして距離を詰める。
手数は多いが、言ってしまえばそれだけ。素人目にも足止め以上の成果を出しているとは思えない。弾幕がまばらな空間がいくつもある。反射的に行動しているだけで、知能は低いのか?
だが何か嫌な感じがする。勘というほど曖昧ではない。根拠はあるが、それが言葉として精神の表層に出てきていないような違和感。あの落ちくぼんだ眼窩が火球に照らされる様まで見える位置だ。弾幕はまばら。
そうだ、おかしい。
ここまで近づいても迎撃の密度が上がっていない。
戦力を温存している。誘い込まれた。
炭化してしなびた身体。落ちくぼんだ眼窩が歪んでいる。いや、曲がっているのは光、それを通す大気だ。不意に機械馬の跳ねまわる軌跡が見えるようになった。走馬燈じみた加速感の中で思考する。
攻撃の前兆か。そうだ。空気を歪める意味は。集めている。何を。光と、ある種の物質。物質とは何か。大気中に存在し、微量ながらも短時間で収集出来る程度にありふれたもの。攻撃方法は。回避不能な速度と、一撃で対象を行動不能にせしめる出力を持つ。
「炭酸ガスレーザー!!」
ぱあん
後ろから枝が破裂する音。収束された輝きは目に入らない。既に攻撃は完了し、装甲を貫徹するのに十分な量のエネルギーが撃ち込まれている。
にも拘らず。
僕がその光を見ることが出来たのは、光の進路が捻じ曲げられて拡散したから。彼女が既に印を結び終え、浮かび上がった光文字が陣を整えてその効果を発揮したからだ。
乾 玄北武比叡山
伏 近禁衛法艮王
調 右中左戒壇神
白 護布国 青
西 陣征天夷陣 東
虎 鎮武護 龍
神幡八平京安 悪
宮坤社羅門生 鬼
水清石朱南雀 巽
橙光の文字が整然と九方陣を作り、禁の字が奥にくるように倒れる。
格子だ。九つの方形から九つの立方が、上下に積まれ左右に広がる。その網目に触れた見えざる電磁波の矢は、高圧の蒸気に阻まれたように拡散、屈折して森を薙ぎ払う。祭りの爆竹が一斉に炸裂したような凄まじい衝撃は、しかし僕の耳を遠くする以外に意味を為さなかった。
右手で大太刀を振り上げ、左で鉄砲を構える。散乱して真っ赤な血潮の奔流となったレーザー光の奥に照準し、引き金を引く。
ず ど む
はらわたを素手で押しのけられたかのような圧迫感。鼻の奥が鉄臭くなる。耳はもはやハウリング音じみた耳鳴りを伝える以外の任務を放棄している。
森が消えていた。少なくとも前方数十mに渡り楕円状に表土が抉り取られ、所々岩肌を覗かせている。
ショットガン、なんてものじゃない。あれじゃ
物理強度を逸脱した耐久力の躯だったが、ここにきて目に見える損害が出ている。腰骨あたりから下は消滅し、前頭部の右側がスプーンで掬われたように吹き飛んでいる。というかあの威力を食らってまだ原型があるとは。どっちもどっちだけどやはり化け物だ。
当然ながら優位に立つ武者に油断は無い。ひらりと降り立つと銃の握りを変え、ちょうど二刀流の恰好になる。片や切先諸刃で裏鋸刃の大太刀、もう一つは斧と見まがう散弾銃剣というゲテモノってレベルじゃない備えだが。
もう妖術に頼ることもままならず、腕に文字型の蟲を纏って振り回す躯。だが高い知能と精密な遠隔操作能力を持っていても、近距離での殴り合いは達者でないらしい。愚直に最短距離で彼女の胸を貫こうとする焼け焦げた腕を斧で叩っ切る。あれ完全に斧だ。銃剣の使い方じゃない。
すれ違いざま、逆手に持った大太刀が牛の角の如く枯れた体躯の中心を突く。どういった原理でか塞がりかけていた傷をこじ開けられ、
機械馬が止まる。聖が肩で僕を小突いた。降りろという事か。
久しぶりに地に足をつける。この安心感。人間は大地にいなければ生きていけないと天空の城でゆっていたが、こんなに納得したことはない。
聖が兜を開く。流れ落ちる髪。注連縄のように結わえた編みこみ、後頭部を横断するそれから垂れ下がる白い人型が夜風に踊る。その異様と不可思議な神聖さに目を奪われる。
日本における
薄墨の虫たちが彼女の顔に群がり、その皮膚に沈着する。僕は腕に触れられただけでおぞけだったものだが、彼女はもちろん微動だにしない。次々に顔に付いてさながら太古の刺青のような模様を成す。その隈取の線が顔の一点、聖の右目、水晶の義眼に吸い込まれる。初めて聖の口が動いた。
「我昔所
我昔所
まれに違う字が入るが、流れ込む音をなぞるように、しかし一切声を出さずに口で印を結ぶ。ただ微かな息遣いだけが響き、不気味な声を打ち消していく。
彼女の髪に結わえた人型、その一つが黒く染まる。蟲が入るほどその色は濃くなり、やがて躯の口からなにも出なくなると、人型は真っ黒になっていた。
突如人型が絞られたかのように細く縮む。紙紐のようによられた後、ひとりでに丸まっていく。
ついに小指の先ほどの球体になると、青白い炎をたてて消え去った。
同時に躯が崩れる。灰の粒子は風に巻かれ、雲の間へ吹かれてゆく。
太刀を収め、両手を合わせる。声も無くただ、南無とだけ唇を動かすと、呆然と見入っていた僕の方へ馬首をめぐらせた。
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