8 つゆ草消えゆくあの夜に
8-1 揺れる蕎麦の花
東京から列車に揺られて二人で田舎に帰ります。
私と夏音にとってお盆のこの帰省は、複雑な心模様になることを余儀なくされるものです。
会いたいけれど、会うととても辛くなる人たちがいるのです。でも、私たちにはこのお盆の時期に必ず顔を出さなくてはいけない理由があるの。
列車の窓から、白い花の群生が見えています。あれは蕎麦の花。
「駅弁、食べないのか? 食欲ない?」
夏音がいつもよりやさしい目をして、私を心配しています。
「お前、この時期だけは痩せるもんな」
「うん、さすがにね。思い出すと胸がいっぱいになってしまう」
「まあ、秋にはすっかり取り戻すけどな。食欲の秋、ポン!」
いつもは軽く聞こえる戯言も、今日はやけに響いてしまって、涙が出てきます。
「まだ泣くなよ。これから嫌でもいっぱい泣くことになるだろ」
白い花がいつしか棚引く白い煙に変化して、私たちをぐるぐると過去に巻き戻していくようです。
*
私たちは実家に帰る前に、田んぼの脇の畦道を通って、いつになっても忘れられない、ある場所に辿り着きました。危ないから埋めてしまえばいいと、何度となく言われていた沼がそこにありました。
今日は8・11。そう、二人に会える日です。
沼から浮かび上がって水面に立った夏音と紗雪は、また一つ年を重ねて、すこし大人びていました。
「久しぶり、元気だった?」
夏音が声を掛けます。
「ぼくたちに『元気?』って聞くのは、変じゃないかな、こん?」
そう、水面の夏音が答えます。
「そうよね、わたしたち、もうとっくに死んでるのに、ね、ぽん?」
そう、水面の紗雪が答えます。私は口がきけませんでした。
「君たちはずっと沼の底にいるの? それとも、どこか遠いところで暮らしていて、毎年この日にここにやってくるの?」
私の隣にいる夏音がそう訊ねると
「ぼくたちは、まだ生きてることになってるからね。一年に一度くらい、姿を現さないといけない。どこにいるかなんてどうでもいいじゃないか」
そう目の前の夏音が答えました。
この日、二人が生きていたらこのくらいに成長したであろう姿で現れるのです。私たちは二人に会って、それから家に帰ります。
この姿にそっくりに化けて、一年の成長した姿に近づく必要があるから。自分たちの全ての力を使ってなりきるのです。
二人を見つめると、自分が磨り減るような気がします。でも、私たちがしたことはきっと、こんなことでは許されないのかもしれません。
二人の着物の着方は「左前」。死人が着る衿の合わせです。
左前とはこちら側、見る側の視線のことを言うのです。着る側からすると右が上にくる合わせ方。古来より不吉なこととされ、死にゆく人に着せる時にしかしない、その着方。
そこら中に風に乗った迎え火がゆらゆら揺れています。
これが私たちのお盆のお墓参りです。お墓のない二人の、私たちだけが知る死に場所。
「どうして沼に落ちたの?」
「あの花だよ。淵に咲いているだろう、今年も。あの可憐な花のせいさ」
そうでした。青い小さな花、つゆ草。
いつも朝に咲き、昼には萎んでしまうあの花が、なぜあの夜咲いていたのか。満月のせいで、朝と思ってしまったのでしょうか。
もしあの時に特別に咲いていなかったら、彼は摘もうとしなかったでしょうに。
足を滑らせた彼の手を掴んで、彼女は一緒に沼に落ちたりしなかったでしょうに。
運命の悪戯は残酷すぎます。
「こんとぽんは、とても楽しそうじゃないか」
「東京に行ってよかったわね」
二人の言う通りかもしれません。別に二人は嫌味で言っているのではないのです。
田舎で暮らしている時は、いつも「夏音」と「紗雪」として暮らすことを考えていたけれど、東京での暮らしは、「私たち」そのままでいられることに気づいてしまいました。誰も私たちの子供の頃のことなど知らない新しい生活。
私たちは罪を忘れて、はじめて伸び伸びと手足を広げて生きられた。そのことに気づいた昨年の夏から、私たちはここに帰ってくるのが怖くなってしまったのです。
私たちは、持ってきたおむすびを楓の葉に盛って、黙ったまま沼の淵に置きました。
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