裏庭
麦野陽
第1話
ママはよくいなくなる。
「ママー」
あたしは階段をゆっくりのぼりながら声をかける。返事がないのはわかっているけれど、わたしはいつも声をかけてしまう。子どもの頃から、ママを探すのはあたしの仕事だった。
はじめてママがいなくなったとき、あたしは大泣きした。なのに、パパは落ち着いた様子であたしにこう言ったのだった。
「二階の戸棚の中を覗いてごらん」
階段を駆け上がり、あたしは戸棚へ走った。こんなところにママがいるなんて。信じられない。そおっとひらくとママはいた。ひざを抱えて、窮屈そうに体操座りをしている。ママは長いまつげを伏せて眠っていた。
「貝の名残だよ」
はじめてママを見つけたとき、パパはそう言った。だから、明るいところよりも暗いところのほうが落ちつくのさ、と。
「ねえ、パパ、名残ってなに」
訊くと、パパは「昔のことが残っていることだよ」と答えた。昔のこと。小さかったあたしは、首を傾げた。
「ねえ、パパ。貝の名残が残っているなんておかしいね。だって、ママは昔からママだったもの」
「ああ、そうだね」
パパはママを戸棚からそっと抱き上げて、あたしの前を歩いていく。ママの桜色の足の爪がゆらゆら揺れてとてもきれいで、あたしもあの爪になりたいってずっと思っていた。残念ながら、大きくなったあたしの爪はパパによく似てしまったけれど。
今ではすぐにママを見つけられる。〝今のママ〟はいつもクローゼットの中に隠れている。
「ママ」
クローゼットの洋服をかきわけると、いつものようにママはひざを抱えて小さくなって眠っている。あたしは、ママを壊さないようにそっと持ち上げ寝室へ移動する。中身のないママの体はあたしよりも軽い。ベットに寝かせると、ママはすこし眉間にしわを寄せた。きょうは陽ざしが強いから、眩しいのだろう。あたしはカーテンをひくと、ママの横に腰をおろした。長いまつげ。そっと撫でると、ママは細い息を吐いた。
パパとママの出会いは隣町の砂浜だった。
その日、海では潮干狩りの催しが行われていた。パパは貝料理は好きじゃない。砂を噛むから苦手なのだ。だから、入り口で手渡されたバケツにはなにひとつ貝は入っていなかった。
周りは楽しそうな家族連れでいっぱいだった。その様子は、頭の奥の記憶を痺れさせた。日を間違えたな。パパはバケツと熊手を手に立ちつくしていた。
この海はママと出会った思い出の場所だった。プロポーズをしたのもこの場所で、パパは緊張して「結婚」を「けっきょん」と言ってしまったらしい。焦りと緊張で震える両手から、ママは指輪を受け取った。人生で一番しあわせな日だった。小さな頃、パパはあたしに教えてくれた。もちろん、きみが生まれた日も一番しあわせな日だよ、と。
でも、ママはパパと結婚して三年で亡くなった。病気だった。当時あたしはまだ一歳で、海風に揺られてパパの背中でよだれを垂らしていた。
パパは静かに思い出にひたりたかった。ママとの思い出がつまったこの場所で。けれど、ここにいればいるだけ、頭の奥が痺れてつらくなるのだった。
もう帰ろう。また別の日に来よう。パパは貝をひとつもとらないまま、立ち上がった。そして、それを見つけた。誰かが掘ったあとに残った桜色のきれいな貝。中身はなかったが、ママが好きな貝だった。
運命だ。パパは桜色の貝を持って帰って〝ママ〟をつくった。どうやってつくったのか、よくは知らない。パパは科学者だから、専門的な難しい単語を使って説明してくれたけれど、あたしにはさっぱりわからなかった。いまだって、よくわからない。わかっているのは、目の前にいるママが本物のママじゃなくて、空っぽの外側だけのママだってこと。でも、それを知ったのは、五年後のあの日。
最初にママを壊した日をよく覚えている。そのときあたしはまだ六歳で、小学校に上がったばかりだった。春の陽が強い日で、あたしはママと二人で出かけていた。
晩御飯はそら豆のポタージュにしましょう。ママはそう言って、そら豆と牛乳と玉ねぎをたくさん買った。八百屋さんに並ぶそら豆はどれもぱんぱんに張っていて、なめらかな緑色をしていた。
「ママ、おうちにパンはある?」
「ないわ。だから、帰りにパン屋に寄りましょう」
「やった」
あたしは、そら豆のポタージュにパンをひたして食べるのが好きだった。ふわふわの白色が淡い緑色に変わる瞬間。あたしは、考えるだけで嬉しくなった。
その道中、おもちゃ屋のショーウィンドウに飾られたお人形にあたしは目を奪われた。フリルのたくさんついた白いドレス、青い瞳。なんてかわいいんだろう。あたしはどうしても欲しくなって、最初で最後の駄々をこねた。
「ママ、これが欲しい」
「だめよ」
「なんで」
「きょうは、そういう予定はないから」
「予定がなくても買ってよ」
「だめです」
きっぱりママは首を振り、背をむけて歩き始めた。
「待って!」
どうしてもあきらめきれなかった。あたしは、ママの細い腕をぐいと思いきり引っ張った。ぶちん。ゴムが千切れる感覚とともに、ママはぐるんとあたしの顔を見た。
「ママ!」
スローモーションのように倒れていくママはお人形のように無表情だった。
ガシャン。ガラスが割れるような音がして、ママの欠片がたくさんコンクリートの上に散らばった。ママ、粉々になっちゃった。通行人が悲鳴をあげた。
あたしは、とにかくびっくりして千切れたママの腕をぎゅっと抱いた。ママの腕は冷たかった。ママが着ていた紺色のノースリーブのワンピースが、破片の中にぺらりと横たわっている。
「なにこれ、マジック?」
たくさんの大きな人の目に囲まれ、あたしは怖くなって逃げだした。ママの腕をひきずらないように、何度も持ち直しながら、あたしは走った。ママ、死んじゃった。ママ、死んじゃった。ママ、ママ。遠くでサイレンの音が聞こえて、いっそう怖くてたまらず、あたしは転びそうになりながら家路を急いだ。
勢いよく玄関をあけ、あたしはパパを呼んだ。パパ、パパ、パパーーーー!
「どうしたんだい」
板の軋む音がして、パパはリビングから顔を覗かせた。中古で買った一軒家は、パパとママの夢のマイホームだった。赤い屋根にカントリー調の室内は、ママが選んだもので統一されている。
「おや」
パパは首を傾げると、ママの腕をあたしから取って、様々な角度から眺めた。ママの腕の中は、外からの光をすこし透かしている。ママの中を見るのは、これがはじめてだった。
「ごめんなさい」
スカートの裾をぎゅっと握って、あたしは泣いた。
「ママ、死んじゃった。あたしのせいで。どうしよう、パパ。あたし、あたし」
あたしがお人形が欲しいと駄々をこねなければ。あのとき、あたしが腕を引っ張らなければ。あたしは、子どもだったから、人が死ぬときにどうなって死ぬのかということを知らなかった。今ならわかる。爆発でも起こらない限り、転倒したくらいでは人は粉々にならない。
「かわいそうに」
パパはママの腕を放り投げると、あたしを抱きしめた。がしゃんと音をたてて、ママの薬指と小指が欠けた。街中で見た破片と同じように、桜の色をしていた。
「驚いただろう。きみは悪くないよ」
パパはあたしの頭を撫でながら言った。
「次は壊れないように丈夫につくるからね」
ぐいとあたしはパパの肩に顔を押しつけられた。頭を撫でるパパの細い指があたしの頭皮を滑り、爪をたてた。
この日から、今まで、あたしは人形を欲しがったことはない。
ママが壊れた次の日、パパとあたしは裏庭でお葬式をした。あたしは、お葬式に出るのは初めてですごく緊張していた。
「いつも通りでいいんだよ」
パパはそう言って、あたしに袋を渡した。
「……うん」
中にはなにが入っているのか、あたしは知っていた。朝、パパと一緒にすり潰して袋にいれたのだから。
「汚れてしまうから、すこし離れていなさい」
シャベルを強く地面に突き立てパパは言った。歯切れのいい音を聞きながら、あたしは袋を強く握った。パパは黒いスーツが汚れるのも気にしないで、どんどん掘っていく。乾いた土は掘るうちに湿った色に変わった。
その日は前日と同じように暑い日だった。パパの額にはじんわりと汗がにじみ、立っているだけのあたしも同じように汗をかいた。
ざくり。パパはシャベルを平らな地面に刺すと手招きした。
「おいで」
あたしはそろそろと近き、パパの泥だらけのズボンを握った。穴は予想よりも深い。覗きこむと、ミミズがちるちると動いているのが見えてあたしは息を飲んだ。
パパはポケットから袋を取り出して、しゃがみこんだ。あたしも同じようにしゃがみこむと、袋の紐をゆるめた。
「さあ、こぼさないように気をつけて」
袋をすこし傾けると、桜色の粉が流れた。さらさらさら。ママがどんどん穴に落ちていく。
「全部残さずにね」
「うん」
袋の底を両方つまんで逆さに振ると、わずかに残っていた桜色が陽光を受けてきらきら光った。ママ、きれい。あたしはうっとりとまばたきをする。
「準備はいいかい」
あたしはパパの言う通りにママの上にすこしだけ土をかぶせ、返事をした。パパの手には苗木が抱えられている。たっぷりとした葉の苗木だった。ゆっくりとそれを穴にいれると、パパはシャベルを手に持った。
あたしが小さな頃、葬儀は頻繁にあった。ひと月に二回のペースで壊れることもあったから、あたしとパパはそのたび近くのお店で苗木を買った。
「いつも買ってくれてありがとうね。これはおまけだよ」
ある日、お店のおばさんがちいさな花をくれたことがあった。あたしは嬉しくて、何度も黄色い花の匂いをかいだ。けれど、お店から出ると、パパはそれを川に捨てた。あたしはあまりにも驚いて言葉が出なかった。遠ざかる黄色い花を見てパパは言った。
「ママはこの花が嫌いなんだ。おまえも家に帰ったら手をしっかり洗いなさい。きれいな状態でママをおくるんだ」
「……はい」
振り返ると、もう花は見えなくなってしまった。あたしは自分の手のひらの匂いをかいだ。
苗木を植えると、あたしとパパはママのまわりを左に七回まわる。手を叩いて、軽やかにステップを踏んであたしたちはママをおくる。
ママが壊れるたびに、パパの技術は上がっていった。より頑丈に、より柔らかく。生きている人と変わらないほど、肌の質感も滑らかになった。性格は同じようにつくられていたけれど、中にはすこし変わったママもいた。
あたしは、五十六番目のママが一番好きだった。どこが好きだったか。例えば誰かに聞かれて、強いて答えるとすれば、あたしは雰囲気と答える。キッチンで野菜を切ったり、外で洗濯物を干したり、ロッキングチェアでレース編みをしたり。実際は冷たい彼女の手はいつも温もりがあるように見えた。
けれど、あたしが壊した。階段でぶつかったのだ。空を飛ぶように、ママは落下した。ママは、簡単にいなくなる。
新しいママをつくる間、あたしとパパの間に会話はない。いつしか食事もそれぞれ一人でとるようになった。パパは研究室にこもってでてこない。だから、あたしはいつも簡単なもので済ました。いつしか、あたしたちは偽物のママ抜きでは、話すことができなくなってしまっていた。
一人で座る食卓は静かだった。なにを食べても味がせず、いつしかあたしは食事をあまりとらなくなった。はやくママのご飯が食べたい。水を飲みながら、あたしは研究室へ続く階段を見た。一人は感覚を鋭くする。
ママの不在は長いときで、一か月。短くて二週間。その間、あたしはどんどんやせ細る。
「あの子、骸骨みたいで気持ち悪い」
クラスメイトが陰でそう言っていることをあたしは知っていた。学校で、家で、あたしはいつも独りだった。
ママが生まれた日は、玄関を開けるとすぐにわかる。パパの笑い声が聞こえるからだ。
「おかえり」
リビングに顔を出すと、パパが言った。
「おかえりなさい」
ママはいつもと同じエプロンをつけてキッチンに立っている。バニラの香りがする。あたしが鼻をひくつかせていると、クッキーがたくさん乗ったお皿をママは運んできた。
「手を洗っておいで」
ふんわりとママが言って、あたしは頷いた。
廊下の床も洗面台もすべてぴかぴかに磨かれている。生活が戻ってきた。蛇口をひねり、あたしは水を受けるように手を伸ばす。鏡には曇りひとつない。照明の下で、あたしは自分の顔を覗きこむ。病的なまでに白い肌、すこしこけた頬。かさついた唇を舐めると、血の味がした。
「ママによく似て美人だ」
ぬうっとパパの青白い顔があたしの頭上に映り、あたしは小さく悲鳴をあげた。足音も聞こえなかったし、気配もなかった。パパの顔は、あたしよりも痩せこけている。パパ、こんな顔だったっけ。前はもっと。あたしは考えて頭を傾げた。よく思い出せないのだ。写真でもあれば、見比べることもできるだろうが、そういえば、家族写真というものが我が家にはない。
「どうしたそんな顔をして。洗ったなら、パパと交代してくれ」
「あ、うん」
あたしは、しっかり手の水気をきると、棚にある清潔なタオルに手を伸ばした。やわらかい。あたしは嬉しくなって、指のすみずみまでタオルで拭った。
「ママのクッキー、久しぶりだなあ」
ばしゃばしゃばしゃ。パパは水をたくさん散らしながら、手のひらを何度もこすり合わせた。
「ママ」
リビングに戻り、あたしはママを呼んだ。ママはゆっくりとあたしのほうを見て、微笑む。長いまつげ。ぽってりとした唇。あたし、ちっともママに似ていない。
「夜は、スパゲティがいいな」
あたしはクッキーを口に放りこむ。ざくざくとした食感が口いっぱいに広がり、あたしは甘い息を吐いた。
「ミートね」
パパの隣に座って、ママは答えた。皿の上のクッキーは、もう数えるほどしか残っていない。
「目玉焼きもつけてくれ。もちろん半熟でね」
ママの細い指を撫でてパパはつけ加えた。桜色のかわいい爪。あたしは、自分の爪を見る。
三人が揃う食卓は久しぶりだった。ミートスパゲティはとても美味しかった。半熟の卵の黄身がとろりと麺に絡んで、あたしもパパも競うように食べた。
「美味しい?」
にっこり笑顔で訊くママの前にはなにもない。中が空っぽのママは食べられないのだ。
あたしたちは家族だ。でも、本当に? あたしは最近、よくわからない。
ママが壊れた。クローゼットで眠る癖があるママは、ドアに挟まれて体中のパーツが欠損した状態で見つかった。ママは辛うじて意識があった。今までのママは、意識のない状態が常だったから、あたしはびっくりした。
「ねえ、ママ、どうなってる? 動けないの」
顔の半分がなくなったママは、カーペットからあたしを見る。残った左目がゆっくりまばたきをする。
「困るわ。だって、ママ、晩御飯の支度をしないといけないもの。お味噌を買い忘れたから、お買い物にもいかなくちゃいけないの。そうだ、ねえ、ちょっとおつかい頼まれてくれないかしら。ママ、もうすこししたら」
あたしは、近くにあった椅子を振り上げて思いきりおろした。大きな音がして、ママは静かになった。ママに痛覚がなくて本当によかった。あたしは椅子を元の位置に戻すと、その場で吐いた。
空をたくさんの雲が覆っている。風が強い。雲がごうごうと流れていくのが見えた。こんな日、あたしはいつもなにかを思い出しそうになる。だいたいそれは嫌なことで、胸がひどくざわつくのだった。ごうと一際風が強く吹き、あたしの黒いワンピースをめくる。風は生ぬるくあたしの足元を這っている。
「はやくきなさい」
一足先に家を出ていたパパが振り返り言った。白髪が目立つようになったパパの髪。三年ぶりに見る黒いスーツはしわ一つなかった。
あたしはシャベルを持って、パパのあとを追った。陽の当たる表を通り抜けて、白い柵をひらく。ぎい。しばらくひらいていなかった柵は、軋んだ音をたてた。
手入れのされていない裏庭は鬱蒼としている。あたしたちは好き放題伸びた雑草を踏みつけながら進む。昔植えた苗木はずいぶん大きくなり、小さなつぼみをいくつもつけていた。いまにもはじけそうに膨らんでいるものもあり、あたしは手を伸ばした。
「なにをしているんだ」
数メートル先、パパの大きな声がしてあたしは身をすくませた。年々、パパは険しい顔つきになっていた。頬の肉はこそげ落ち、目の下には深い隈ができている。
「はやくしなさい。ママを待たせてはいけないだろう」
「……はい」
あたしが返事をすると、パパはシャベルを地面に突きたてた。小さい頃は、パパだけが掘っていた穴も、あたしの年齢があがるにつれ手伝うようになった。シャベルを勢いよくつきたて腕に力をこめる。ぶちぶちぶち。雑草の抵抗を断ち切るように、あたしたちは穴を掘り進めた。途中、何度もちいさな虫があたしの顔に止まった。袖でこすると、袖に虫の死骸がついた。けれど、そんなことはどうでもよかった。あたしもパパも一言も喋らないまま、穴を掘り続けた。
ごうごうと空が鳴った。風がさっきよりも強くなっている。雨が降りそうな気配が辺りに漂い、しゃがみこむと土の匂いがむわっと香った。大粒の汗があたしの額から穴に落ちる。
穴の中を覗くとミミズやよくわからない虫がたくさん蠢いているのが見えた。あたしは、気にせずいつものように袋を傾ける。桜色のママがさらさらと流れた。
朝、ママの人差し指を乳鉢ですりつぶしながらあたしは考えていた。パパは、あたしは間違っていたんじゃないかって。どれだけつくっても、中身のあるママにはもう会えないのに。
すべて桜色が落ちきると、あたしは土を軽くかぶせて苗木を置いた。この苗木も何年後かには桜色のつぼみをつけるのだろう。
パパもあたしも掘るときと同じように無言で土をかぶせた。お互い黒服は泥だらけだった。磨かれた革靴も薄汚れてしまったが、あたしたちは気にしなかった。
あたしもパパも、手を叩きながら泣いた。今まで一度たりとも泣いたことはなかったのに、涙が止まらなかった。七回まわり終える頃には、あたしもパパもひどい顔をしていた。
「あーーーーーーーーーー」
突然、パパが叫んでシャベルを地面に打ちつけた。何度も何度も、シャベルは振り下ろされ、あたしは呆然とそれを見ていた。壊れ続けていたのは、ママだけじゃなかった。パパは虚ろな目であたしを見て言った。
「ママ」
ぼろぼろになった爪があたしにまっすぐ伸びてくる。ママによく似て美人だ。洗面所でパパから言われた言葉を思い出す。あたしはその手をはらうと、パパから距離をとった。
「パパ。ママはもういないの。ずっと、ずっといないのよ」
「ちがう。ちがうよ。ちがうんだよ」
ぶつぶつとパパは何度も「ちがう」と繰り返した。
いつもならすぐに研究室にこもるのに、その日からパパはクローゼットの中から出てこなくなった。トイレや食事はいったいどうしているんだろうと思ったが、夕方、キッチンが荒れているのを見ると、わたしが学校で過ごしている間に行動していることがわかった。
クローゼットが置いてある部屋の前を通ると、ときどきすすり泣く声が聞こえた。あたしは、その声を聞くと、ママに椅子をぶつけた感触を思い出す。
最後のママの葬儀が終わってから、あたしは眠れなくなった。身体は重く、疲れているのにあたしの目はぎらぎらと覚醒していた。やっと眠れたと思っても、ママの夢を見て目が覚める。サンドイッチをつくってくれたママ。眠れない夜に子守歌を歌ってくれたママ。スープの湯気の先で微笑むママ。思い出は夢になって、あたしを襲う。
だから、あたしは朝まで起きていることが多くなった。すこしずつぼんやりと明るくなってくる空を見て、今日で何日目だろうとあたしは思った。
窓際に立ち、あたしは裏庭を眺める。しんとした空気が張り詰めていて、どの家にも人が住んでいないように見えた。雑草だらけの裏庭に桜色の花がぶわりと咲いている。
「どうしてこの苗木ばかり植えるの」
子どもの頃、疑問に思っていた。同じものばかりでなく、ほかの苗木を植えたらどうかとあたしはパパに伝えたのだった。すると、パパはあたしの頭を優しく撫でて答えた。
「ママがこの花が好きだからだよ」
「ふうん」
つまんないの。あたしは多様な色に溢れる裏庭を期待していたが、それが叶わないと知ってすこしむくれた。あたしは、カーディガンを羽織ると、部屋を出た。クローゼットの部屋の前は、しいんと静まり返っていた。パパは眠ってしまったのだろうか。だとしたら、彼はしあわせだ。
裏庭はたくさんの緑に溢れている。あたしは、倉庫から持ってきた石油を丁寧にまいた。びしゃびしゃと雑草の上を跳ねる石油は強い匂いを放つ。鳥の鳴き声が聞こえて弱い風が吹いた。マッチを擦ると、指先が熱くなった。
火がつくのは一瞬だった。ごうごうと大きく炎が揺らいで、あたしの目の前に広がった。
「なにをしているんだ」
振り返ると、パパが立っていた。あたしは首を傾げる。なにをしているんだ? それはあたしが言いたい。どうして、クローゼットから出てきてしまったの。
炎はどんどんと勢いを増し、あたしの肌を火照らせる。
「大変だ。ママが燃えてしまう」
パパは水道まで駆けて行って、蛇口をひねった。空のバケツを叩く音が変わると、パパは炎に水を放った。一瞬、炎は勢いを弱めたが、またぶわりと息を吹き返す。パパは舌打ちをして、もう一度バケツに水を溜める。
そんなものでどうにかならないくらい、わからないの、パパ。あたしは心の中で、目の前の痩せた背中に訊いた。
「なにをしているんだ」
尖った声があたしを呼んだ。パパは溜まった水をもう一度放つ。
「はやくこっちにきて手伝いなさい」
水の音が聞こえる。あたしは煙に目を細めて咳をした。
遠くからサイレンが聞こえる。きっと近くに住む誰かが呼んだのだろう。あたしは、ママの腕を思い出す。空っぽの冷たい腕。
あの日から、シャベルは地面に転がったままだった。あたしはそれを手に取るとパパの背後に立った。バケツにはこぼれんばかりに水が溜まっている。
「パパ」
あたしはシャベルを振り上げた。
裏庭 麦野陽 @rrr-8
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