第207話「最悪死ぬだけ」
※ 今回は、だいぶスピリチュアルな、宗教的死生観の話ですので、苦手な方はブラウザバックしてください。
なんか最近、ニコニコ生放送政治枠を久しぶりに見だすようになって、そこでスカイプで電話していつものごとく「コロナなんて怖くない」をぶち上げまくって炎上している私でございます。
そんななかで特に盛り上がったらしいのが俺が放った「まあ最悪死ぬだけじゃん」という一言。
「死なないために対策してんだろう?」
「こいつは何を言ってるんだ、キチガイ、サイコパスじゃん」とまあ言われ放題な有様になりました。
まあ、確かに「最悪死ぬだけ」というのは、暴論なんですが。
しかし、そんなみんなが発狂するほどおかしい考えだとは私には思えないのです。
「アカギ」作品の様な言い方にになりますが、私は「死」は常に近くになると思っています。一方「死」は近いところにあると意識して生きてる人間ていうのは少ないんだなあと改めて感じました。
「最悪死ぬだけ」ってそんなおかしいですかね。
別に死にたいわけでも何でもないけど。「最悪死ぬだけ」って覚悟を決めることでいろんなことができると思います。
人生を決断する時、例えば、会社にいるのがつらくてやめたい、でも辞められないとか、一緒にいるのが辛過ぎてもう離婚したいとか、そういう決め難い時でも、まあ、最悪死ぬだけです。
言い方が違うかもしれません、どうやっても終着点は死と言った方がいいでしょう。
なら、別に誰かが困ろうが、その後どういわれようが、好きに会社を辞めればいいのです。離婚したければすればいい、その後困窮が訪れても、最後に来るのは結局、死です。
何が言いたいかというと、人は背負った苦しみとか悲しみを永遠に背負う必要がないということです。どこかで終わります。
不思議なことに人が借金苦で自殺する金額のラインは400万と言われています。
じゃあ借金2億円の人はもっと絶望するでしょうか。
それはないでしょう、起業するつもりで借金する人はとっくに覚悟できています。失敗しても「最悪死ぬだけ」だから、絶望する必要がない。貸してくれるかどうかは別ですが、もう一度借金を背負って、成功を目指すだけです。あとはそれを死ぬまで繰り返す。
だから、自殺なんてもったいないことはしない。
勿論それがめんどくさくなって途中で死を選ぶ人もいるでしょうけど。
わざわざ自ら死に向かわないでも、死は向こうからやってきます。
一方で、ずるずると借金を重ねて400万くらいになると、生活費を圧迫して生活できない、死ぬしかないとなるんですよね。死しか見えなくなってしまう。
その時になって急に死を意識するようになって、死しか見えなくなる。
ですが、死は元から近くにいたはずなのです。急に意識するから、それしかなくなるんです。はじめから死を意識することで、人生のピンチに冷静に対処することができます。
一件複雑な悩みも実は単純なことがほとんどだったりします。
多くの悩みは金が人です。ほどいて考えると、それに帰着します。
でもよくわからなくなったら、まずは抱えてることによって、自分が死ぬかどうかを考えましょう。
大体「死なない」ですよね。なら、大概何とかなります。
問題が人間関係ならもうそれは、一番の解決は関わらないこと。会社関係ならやめること。親の問題だったとしても関わらないことが一番。親と言えども聖人君子なわけじゃなく、悪い人もいます。
逃げろ、逃げろ、自分に害をなすに対しては徹底的につぶすか、逃げるかしましょう。最終的に時間が解決します。
ではお金の問題、ぶっちゃけ400万位の借金なんて大したことないんで、きっちり整理すれば圧迫せずに返せます。それが嫌なら、破産すればいいだけです。破産で困ることなんて、クレジットが作れないことと、会社をおこせないこと位ですよ。
借金整理しようと思うと、怖いお兄さんが出てくるかもしれない?
大丈夫、「最悪死ぬ」だけですから。っていっても滅多に死なないですよ、ひとを相手にしてそんなこと起きません。
「最悪死ぬ」を覚悟する人間はいても「最悪殺す」を覚悟してる人間なんてまずいないですからね。
「最悪死ぬ」というのは、言い方を変えると「こんなことくらいじゃ死なねぇ」となります。人と接して、死ぬことなんてまずないです。借金を背負っても、なにか気おくれがあってもひるまず接しましょう。
結局死を常に意識していると、気楽に生きていけるということが言いたいわけです。
俺は宗教家ではないし、無神論者なのですが、宗教の元に生きてるの人の方が人生楽しく生きられるだろうなって思います。
死んでも生まれ変わって、天国があるとか、生まれ変われるって信じてた方が、死が怖くないし。死を身近に感じられますからね。死んでもいいんだっていう気持ちになりやすいと思う。
思うに日本人は、宗教がなくなったおかげで、死を遠ざけすぎるようになったのだと思う。そもそも、葬式が暗すぎる。
南米系のカトリックなんて、まるで葬式がパレードのようになっているというのに。人の死とは次のステージに進むための通過儀礼だからね。
日本は死んだら、悲しまなきゃいけないという思いが強すぎる。80以上で死んだら基本的には死因が何であれ、大往生だろう。悲しむ必要なんてないと思うんだが、なぜか必要以上に全員が神妙になるよね。
親の介護で苦しむ人とか、あるいはそれで会社を辞めたりする人も、必要以上に背負い過ぎている。
もう少し、日本に「人は死んでいいんだ」という共通認識があればもっと楽なのに。なぜ、現に楽しく生きてる人を不幸にしてまで、誰かを生かせなければいけないのか。死んでいいじゃないか。
やっぱ宗教が必要だな、死んでも天国に行けるって考えは大切だった。宗教は死を怖いものではなくする効果があった。
「死は怖くない」がコンセンサスなら高齢者を必死に生かなければいけない、たとえ自らを犠牲にしても命を守ることの方が大切だってならなかったのに。
「死んでもいいんじゃん」という意見は宗教のない現代日本ではあまりに異端だろうなあ。
それにしても「死」について考えるって楽しいなあって考える俺はやはりおかしいんだろうなあ。
そしてさらに数字の話をしたい。
もし、人間が100生きるとして、すごく単純に言えば毎日36500分の1の確率で死ぬことになります。
しかもこれは完全確率ではなく、寿命が近づけば近づくほど分母が減りますので。
俺はもうほぼ40歳だから、毎日20000分の一くらいで死ぬところまで来てます。これを多いとみるか少ないとみるか。
ただ少なくとも、今コロナにかかって死ぬ確率よりははるかに高いといえるでしょう。
コロナがなくたって一定の確率で人は死ぬ。なのに対して死にもしないコロナウィルスに気を病みながら生きていくのは、せっかくの有限の命を輝かせられないと思うのです。
「最悪死ぬだけ」
だから、精いっぱい生きたほうがいいし、適当に生きるのも自由だと思う。
ただ、つまらなく生きることだけは違う。
コロナによって人は死に近づいたわけじゃない、そもそも死は近くにある。
そう思って社会を見ると、コロナ禍に右往左往する社会が滑稽に見えてきます。
別にコロナは特別じゃないのにな。
とはいえ、一年前の俺はコロナだぁ、大変だあって騒いでたわけですがね。
ただあの時は、少なくとも10万以上コロナで死ぬなって思ってたし、日本人口の一割くらい削られるんじゃないかって思ってたから。
対策したからとはいえ、全然死なないじゃん。
いま、どこら辺が緊急事態なんだろうなあ。
で、ここまで書いて思った。
そりゃあ「最悪死ぬだけ」って言う意見は叩かれるわ。
裏側にここまでのメッセージあるって気が付かれるわけねぇ。
最後に12月31日に亡くなった「うごくちゃん」のご冥福をお祈りいたします。
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