悪夢 Ⅱ

 少年の裡に奔った激怒と衝撃を知ってかしらずか。あるいはどうでも良いと見なしているのか。次代の国王と目されている男は、繊細な造りの唇を皮肉げに持ち上げた。

「お前は今年で十六になるのだろう? しかし、相変わらずあの小貴族の母親に似ていて、そこらの女よりも余程上等な顔をしている」

 唇のみならず全体が甘やかで繊細な、精巧に作られた人形を彷彿させる造作。その貌に刷かれるには、広がった笑みはあまりにも冷ややかで、残忍ですらあった。

「この娘も見てくれは整ってはいるが、お前に比べれば劣るなあ」

 賛辞を装った侮辱に対する怒りを覚える余裕など、ありはしなかった。波打つ緋色の髪を鷲掴み、ぜいぜいと荒い息を漏らす少女の顔を持ち上げる仕草には、慈悲や情けなどそれこそ欠片ほども見いだせない。

 詳しい事情はまだ判然としないが、レティーユは見ず知らずの人間を侮辱する礼儀知らずではない。まして、ルベリクは派手ではないが華やかな――王宮付の針子が寝食を惜しみ仕立てた衣装を纏っているのだ。

 高い地位に就いているのだと一瞥して分かる人間をあえて怒らせるほど妹は愚かではない。第一、いかに激高すれども、成人した男がか弱い少女に無体を働くなど、看過してよい暴挙ではない。たとえルベリクが世嗣の王子であっても、だ。

「――おやめください! 妹が殿下に無礼を犯したのなら僕が共に、それでも足りぬのなら、父母と共に謝罪いたしますから!」

 だから、その薄汚い手をレティーユから離せ。溶岩さながらに身を焼く怒りを理性で飾り立て懇願としても、相対する男の目は昏い光を宿したまま。鼠を面白半分にいたぶる猫を彷彿とさせる目は、あからさまに愉しんでいた・・・・・・

 レティーユはまだ十三歳なのに、王子どころか人間と呼ぶにも値しない獣は、一体何をしようとしていたのだろう。ジリアンが駆けつけるのがもう少し遅かったら、レティーユは無残に嬲られた上、殺されていたかもしれない。

「……アランの養女ということは、そうだな。先程の私の質問に答えられずとも仕方あるまい」

 悪かったな、娘。舌の上で儚く崩れる砂糖菓子さながらの微笑を浮かべた男にとっては、自分たちは鼠どころか羽虫も同然。気まぐれに踏み潰しても何らの良心の呵責も覚えない存在なのだ。

 でなければ、幼気な少女を硬い床に投げつけ、衝撃に耐えかねてか黙りこくる彼女の頬を爪先で蹴り付けたりはしないだろう。その動きはあくまで緩やかで優雅であったが、暴力であることに変わりはない。

 未だ捕らわれたままのレティーユの苦痛を少しでも減ずるには、ルベリクの注意をジリアンが引きつけるしかない。

「――質問、とは? 妹の代わりに、兄である僕が答えますから、」

 案の定、やめろと叫ぶかわりに従順な犬の振りをすると、妹に対して加えられていた暴虐は止んだ。

「いや、なに。これは珍しい毛色をしているだろう? ゆえに夜会続きで、ぶくぶくと肥え太った雌豚どもの相手をせねばならぬ憂さをこの娘で晴らそうと、この部屋に連れ込んだのだ」

 しかし、心胆を寒からしめる眼差しは、再び妹に向けられた。

 男にしては細くしなやかな指が、ふっくらと盛り上がった胸元に伸ばされる。少女は懸命に抵抗を試みてはいたものの、鳩尾に成人した男の体重を乗せられると、細い手足はぱたりと動きを止めてしまった。

 切れ切れの息遣いだけが、妹の無事を教える最中。少女が袖を通すに相応しい桃色の絹が引き裂かれる。露わになった乳房は、ジリアンが昨夜密かに思い描いた幻よりもずっと豊かで、柔らかそうだった。

「……このようなおぞましい・・・・・物を隠していたとは。まだ十三だというに、早々と豚どもの仲間入りとはな。まったく嘆かわしいことだ」

 しかしこの理解しがたい獣にとっては、魅惑のふくらみも汚物に過ぎぬらしい。淡い金の髪に縁どられた面は、汚らわしい物に触れてしまったと引き攣っていた。

「私はこの娘のような、乳房が膨らんだ娘は一切好まぬ。他に適齢期の娘など掃いて捨てるほどいるというに、誰が好き好んで醜く腐り果てた汚物に手を出すものか。だが、」

 これが浮いた噂の一つもない、品行方正と讃えられた王子とは。俄かには信じがたかったが、真実を察するのは容易だった。

「この娘は既に時期を逸してしまったとはいえ、親類縁者には同じ赤毛がいるやもしれぬだろう? 未だ初潮も始まらずあの忌まわしい脂肪を胸部に蓄えてもいない、清らかな身体つきの娘が」

 この男は、妙齢の女性には興味を示さないだけ。聖人を模した仮面の下には、唾棄すべき欲望と性癖を隠していたのだ。

 このけだものは、今宵のレティーユのような獲物を見つけては、凶行に及んでいたのだろう。そういえば、そのような噂を耳にした覚えもある。城下では時折、まだ幼い少女が突然失踪する事件が多発していると。

 行方不明の少女は永遠に自宅に帰らないか、直視するも躊躇われる姿で発見されるのだ。小さすぎる身体には刻まれてはならないはずの、情交の痕跡も明白な惨殺体として。

 物言わぬ身となって帰った幼い娘が舐めさせられた苦痛と恐怖を想って。また最愛の我が子を守れなかったと悔いるあまり、幾人かの母親は自死したと囁かれる事件の犯人が、ルベリクだとしたら。

「お前に妹か従妹があれば連れて来い。もしくはどの家の者か教えよと命じても、この娘は中々口を割らぬのでな。ゆえにあのような沙汰を下そうとしていた次第なのだが……」

 柳のごとき優しげな眉を顰める男は、獣どころでは済まない。悪魔だ。怪物だ。人間の心を持っていない化物だ。だって、そう・・でないのなら、どうしてあんなことができる。

 まだ母親の裳裾にしがみ付いて、きょうだいたちと無邪気に走り回る年頃の童女を、なんて。しかも、十にも満たない少女を欲望の対象とするのみならず、その亡骸をも辱めるなど。

 ……想像するだけで、嘔吐感がこみ上げてきた。それも、胃どころか臓腑全てが掻き乱されているのかと錯覚してしまう、強烈な不快感が。

 自分がここで倒れる訳にはいかない。少なくとも、妹の安全を確保するまでは。少年の青玉の双眸は怒りの焔を宿したのだが、男はなおも優美ではあるが醜悪な笑みを湛えたままだった。

「これはお前たちの父の友人が、帝国の娼婦との間に作った娘だったな。一時オヴニエールの夫人が談話会サロンで笑い話にしておったから、朧ながら覚えておるわ。“ヴェジー公がわたくしの孫を連れてきたというから会ってみたら、赤毛猿だった”と」

 妹の出生を知るのは父母だけではない。若くして病死してしまったという父の亡き友人。レティーユの実父の縁者がいる。父はかつて、レティーユの実父の母について、苦い顔をして一言吐き捨てていた。あんな性根が腐り果てた女が、私の友を産んだとはとても信じられぬ、と。

「つまりこの娘は、ルオーゼには赤毛の縁者などいない。私の労苦はまったくの徒労に終わったということだ」

 妹と血が繋がっているとは認めがたい婆の発言も腹立たしい。だがそれ以上に、レティーユは忘れてしまいたかっただろう古傷を無遠慮にほじくり返す、ルベリクを殴り飛ばしたかった。

「……それが分かったのなら、レティーユを返してください」

 骨が軋むまでに震える手を握り締めて憎悪を抑える。まだだ。まだ駄目なのだ。この男の息の根を絶つには、まず妹を助けないといけない。

「そう焦るな、ジリアン」

 絶好の機会は、目前の男の隙を窺う少年が行動に移す前にやって来た。

「お前の妹は即刻返してやろう。私はこのような無様に肥え太った豚には興味がない」

 ルベリクが泣きじゃくる妹の襟首を掴み、ジリアン目がけて投げつけたのだ。幼児が飽いた玩具を放り投げるかのごとく、乱雑に。

 ジリアンは、再び硬い床に打ち付けられる寸前で、華奢な身体を受け止められた。けれども、固く抱きしめた彼女は、見るも無残な有様だった。

 母が鼻歌を歌いながら飾紐を結んでいた髪はほつれている。纏う衣服は、特に胸元が乱れていた。小ぶりの林檎ほどに実った乳房が半ば零れ落ちている様は、ただただ哀れでならなかった。

 雨に打たれた仔猫のごとく震える妹を抱きしめると、珊瑚で作られた薔薇の花弁が幽かにほころんだ。

 ジリアンは感謝に値する兄ではないのに。ジリアンが目を離したから、レティーユは辛い思いをしたのに。大粒の涙を指で拭い、見事な赤毛をそっと撫でると、腕の中の身体は一層大きく戦慄いた。

 ――こわかったわ、お兄さま。

 幼児のごとくしゃくりあげる妹の背と膝裏に手を回し、抱き上げる。本音を言ってしまえば、陶器人形の面に嵌めこまれた硝子玉そっくりの目をした男を、今すぐにでもこの剣で斬り捨ててしまいたい。

 ルベリクとて王子の嗜みとして、剣技の一つや二つは習得しているだろう。けれども戦闘能力では、ジリアンに分があるはずだ。だが、この怪物を肉塊に変えるのは、妹を父母の許に送り届けてからでも遅くはない。

「……もう、大丈夫だよ」

 抑えきれぬ憎悪を込めた眼差しが、実体を備えていたのなら。金の飾り釦が光る胸には穴が空き、そこから鮮血が迸っただろう。

「まあ待て、ジリアン。私がいつお前に退去を許した?」

 しかし現実には、誰よりも唾棄すべき男は平然と立っている。よくよく目を凝らすと、寒気がする笑みを浮かべた口の端が、僅かに赤くなっていた。まるで、猫に引っかかれたかのような――その可能性に思い至った途端、背筋から冷たい汗が噴き出した。

「お前が抱えている猫は、随分と気が荒くてな。私も用心してはいたが、爪を食らってしまったのだ」

 レティーユは何一つ悪くない。これは当然の報いだ。むしろ、骨が露出するまで全身の肉をやすりで削っても足りないぐらいなのに。

「次代の王たる私の身を損ねて、無事で帰れるとは思ってはいまい」

 だが、子に恵まれぬ国王の実弟であるこの男の身を害せば、実行犯・・・どころか一族郎党全てが処罰されてしまう。つまり、ジリアンとレティーユどころか、父母の命運すらもこの男に掌握されてしまったのだ。

「――申し訳ございません」

 ごめんなさいと泣きじゃくる妹をそっと下ろし、磨き抜かれた長靴の許に跪く。

「そのように頭を下げずともよいのだぞ、ジリアン」

 頭上から降って来たのはいっそ慈悲深いとすら称せる声音であったが、それ故に恐ろしかった。

「私は仔猫の戯れを受け流せぬほど狭量ではないし、お前と私は縁戚でもある。私の祖の剣となって、数多の血を流したお前の祖に免じて、此度の無礼は目を瞑ってやろうではないか」

 たとえ何分の一といえど、お前と同じ血が流れていると考えると、虫唾が奔る。そんな心情を、吐露できるはずはなかった。

「ただし、相応の誠意は示してもらわねばならぬ。――お前は今から私の目の前で、私が納得するまでその娘を犯せ。それが、私がお前たちに下す罰だ」

 悪魔は嗤う。残酷に。吊り上げられた唇は、人の子の命を刈り取る大鎌に似ていた。

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