悪夢 Ⅰ

 大陸北部の王侯にとっての夏の始まりとは、即ち社交の季節の訪れを意味している。

 陰鬱な冬の名残は、麗らかな春風に完全に吹き飛ばさた現在。堅くなった指を窓際に置いて仰ぎ見る空は、雲一つない快晴であった。この天気が続けば、少なくとも一週間は雨は降らないだろう。夜会の始まりは晴れている方がいい。

 いくら広大な王宮とはいえ、国中の上流階級が一か所に集まるのだから、香水と脂粉の臭いで窒息しそうになる。その上、雨まで降られたら。自分はともかく今年初参加となる妹は、倒れてしまうかもしれない。

 あるいは、けばけばしく着飾った貴族の群れに遭遇しただけでも、妹は怖気づいてしまうかも。レティーユは繊細を通り越して、いささか臆病な性格をしているから。でも、そんな時はジリアンがこっそりと妹を装飾灯シャンデリアの光でさんざめく広間から連れ出して、夜風が爽やかな庭園に誘ってやればいい。

 そして、妹は知らないだろう植物の名前を教えてやれば、三歳年下の妹はあの金を帯びた翠の――純粋な大陸中部の民には決して持ち得ぬ瞳を煌めかせ、こう囁くのだ。お兄さまは凄いわ、と。

「若様」

 整った唇を淡くほころばせた少年は、使用人の呼び声に、水晶の花もかくやの笑みを零した。

「旦那様方が到着されましたよ」

 もちろんレティーユ様も、との囁きを待たずして、少年は階下を目指す。彼の細くとも引き締まった背を、穏やかな笑い声が追った。

「若様は本当にレティーユ様を可愛がっておられますからなあ。お二人が並ぶ姿は、いつ見ても微笑ましい限りございます」

 貴族の子弟として叩きこまれた礼儀作法など放りなげて、逸る心のままに廊下を駆けてしまいたかった。そうすれば、もっと早く妹の許に辿りつけるのに。


 少年が軍人となるべく研鑽を積んでいる士官学校に在籍しているのは、名門の子弟のみと評しても過言ではない。

 士官学校の生徒は夏季休暇の始まりと共に、ひとまずは王都の屋敷で家族を待つ。そして家族と共に幾つかの夜会に出席してから、領地へと戻って休暇を満喫するのがお決まりだった。だがジリアンは、一般階級の少年少女ならば夢見るまでに焦がれる夜会を、楽しいと感じたことは一度もなかった。

 学者仲間であるという友人たちと火花が飛びそうな議論を交わす父に、同じくルオーゼ貴族に嫁した同胞の女たちとの再会を喜ぶ母。

 両親の姿には、無論胸の奥をくすぐられるような感覚を覚えもする。けれども、それ・・に付き合わされるのは、活発にすぎる少年にとっては退屈を通り越して、緩慢な尋問ですらあったのだ。

 特に母の友人たちと来たら、ジリアンを見るなり、甲高い声で騒ぎ出すのだからたまらない。お母さまにそっくりなのね、だの。わたしもこんな子が欲しかったわ、だの。ならばと父の許に逃げこんでも、そうも上手くいかないのが世の常なのだ。

 国内屈指の大貴族の当主たる父の許に来訪してくるのは、父の旧友だけではない。父と縁故を得ようと画策している者も、ひっきりなしに押しかけてくるのだ。

 その一人である富裕な商人に妹と間違われ、数日後「白銀の髪の美しいお嬢様に」との手紙付きで、髪飾りを贈られてきた三年前の夏を思い出す。あれは空色の造花が華やかで清楚な一品ではあったが、まだ十三歳だったジリアンは、妹に慰められるまでずっとむくれていたものだった。

 南方のしがない亡命貴族の娘を妻にした父が、自らの遠戚ではない娘を養女にしたのは、社交界では広く流布した話である。だがその養女の出自は、あまり知られていなかった。ゆえにジリアンは、妹と間違われたのである。

 あの商人は、あらぬ勘違いをしたのだろう。公爵は自らの・・・遠戚ではない――つまり、妻の親類の娘を養女にしていたのだ、と。

 もしくは、ジリアンという名前も誤解の一因であったのかもしれない。

 父母の婚礼の折。参列者として招かれたルオーゼ貴族の女の大半は、一刻も早く後継となる男の子が誕生するといいですわねとの祝福・・を、ひっきりなしに囀っていたのだという。耐えかねた父が制するまで、ずっと。南から来た賤しい小貴族のお前は、息子を産むぐらいしか価値がないのだという嘲りを込めて。

 だからなのだろう。何としてでも息子を産まねば、と気を張るあまり床に伏してしまった懐妊中の母の耳元で、父はこう囁いたのだった。この子の名前はジリアンにしよう、と。

 ジリアンという名は、男女で綴りは異なるが、発音は全く同じ。つまり男女どちらにも使える名前なのだから、あらぬ勘違いをする者が後を絶たないのかもしれない。

 ジリアンは違うが、幼少期に限れば、女児よりも男児が病魔に狙われやすい。それゆえ、大切な児が健やかに成長するように、との願いを込めて息子に髪を伸ばさせる風習も、その傾向に拍車をかけているのかもしれなかった。男にしては長い銀の髪は、下ろせば背の半ばまでを覆う。

 加えて、あの子の名誉にも関わることだからと、両親は妹の出生についてあまり語ろうとしなかった。

 レティーユの存在自体は恥でも罪でもない。が、それ・・が知られれば、心無い侮辱をまだ幼い妹に投げつける者も数多出て来る。ならば、できる限り秘密にしていた方が良いだろう、と。王宮は人間の皮を被った悪魔が楽の音に乗せて呪詛を吐く場でもあるから。

 とはいえ、妹をいつまでも屋敷に押し込めておくわけにもいかない。だから父と母は今年ようやく、レティーユをお披露目させる決意を固めたのだろう。

 お兄さま、お兄さま、といつも雛鳥のごとく自分の後をついてきたレティーユ。可愛い妹を、他人の目に触れさせると考えだけでも、胃の奥がむかついてくる理由は分かっている。妹が他人に取られないか。また妹がに目を向けはしないか、とジリアンは不安なのだ。

 こっそりと持ち出してきた白い卓布を被ってのおままごとだったとはいえ、自分と妹は結婚の約束をして、誓いのくちづけもした。

 士官学校へと発つ前日のジリアンに約束をせがんできたのは妹の方だったが、まだ九歳だったレティーユは、あの日の約束を覚えていないかもしれない。そっと触れるだけの接吻を交わした後の、今にも倒れそうに頬を染めた妹のはにかんだ微笑を、ジリアンは生涯忘れないだろうが。

 長い睫毛に囲まれた双眸を潤ませた妹の幻影は、いつの間に脳裏から抜け出し、しかも目を瞠るほど可憐に成長したのだろう。

「レティーユ!」

「お兄さま!」

 遮る物のない陽光を浴びた緋色の髪は、炎のごとく鮮やかで。白地に濃い象牙色で薔薇が刺繍された飾紐リボンがよく映えていた。

「ずっと、お会いしたかったわ」

 髪飾りと調和がとれる色彩の、明るい黄色の衣服に包まれた肉体は、少女らしく華奢だが、胸部や腰回りはまろく盛り上がっている。妹の成長については、冬の里帰りの際も多少気になってはいたが、たったの半年でこれほど発達するなんて。

 妹の成長を意識してしまうと、いつもの再会の抱擁を躊躇ってしまった。だってこれでは、ジリアンの胸板とレティーユの胸が接してしまう。

「おにいさま……?」

 金緑の瞳に不安げに見つめられても、緊張という名の金縛りは解けないまま。

 レティーユの胸と触れ合うのが嫌なのではない。むしろ、率先して接していきたい。同室の友人たちが語る、兄や親類の武勇伝に出ていた技術を試してみたい、とも思う。だがそれらを実践するには、まず神の前で永遠の愛を誓わねばならないし、何よりレティーユの同意を得ないといけないのだ。

 しかしジリアンは、その時が来るまで理性を保てるのか自信がなかった。だって内なるけだものはもう、抱きしめる振りをして乳房の柔らかさを堪能するぐらいばれないだろう、と邪な欲望を叫んで暴れ回っているのに。

 ――いや、駄目だ。僕は兄だから、どんな者からもレティーユを守らなきゃなんだ。そう、たとえ、僕自身からでも。

 どうにか邪念を抑え込んだ少年は、どうにかありったけの想いの一端を吐き出す。早鐘を打つ心臓は、荒れ狂ったままだった。

「……久しぶりだね、レティーユ。その、少し見ない間に、すごく、」

 大人っぽく、綺麗になったね、と終いまで紡ぐことはできなかった。ほんの一瞬とはいえ、目の前の少女が悲しげに面を伏せたから。

「そうでしょう!? レティーユは最近どんどん綺麗になっていくから、夜会用の衣装を選ぶのが楽しくて楽しくて……。支度にいつもの倍も時間がかかっちゃったわ!」

 ジリアンは、一体どうしたのと問いかけたかった。けれど、自分が褒められたわけでもないのに、誇らしげに胸を張った母に遮られてしまって。

「さ、夜会は明日なんだから、もう準備しないとね。まずは、たっぷりお昼寝して肌の調子を整えないと」

 その後も、あれがこれがと夜会の衣装について頭を悩ませる母に、レティーユを独占されてしまったから、結局会話らしい会話ができなかった。しかもジリアンは、妹と夜会で逸れてしまったのである。

 父と母からレティーユをよろしくね、と頼まれていたのに。久しぶりに顔を合わせた友人たちと、つい話し込んでしまったから。

 級友たちの遊戯の誘いも断り、少年は磨き抜かれた廊下を歩む。青玉の眼差しは、萎れた花弁のごとく佇む、淡い桃色の物体に縫い止められた。

 拾い上げてみれば、それは妹が髪に結んでいた飾紐であった。どの飾紐が最もレティーユに似合うかしら、と母が半刻も大騒ぎしていたのだ。精緻に織り込まれた小花模様を見間違えるものか。とすれば、妹はこの近くにいるのだろうか。

 この区画に並んでいるのは、社交という怪物との戦いによって、心身共に瀕死同然に追い込まれた貴人に英気を養わせるための休憩室である。妹がその一つで心身を休めていても、何ら不思議ではない。

 レティーユを見つけたら、まず真っ先に謝ろう。

 控えめに扉を叩き、不必要に力を込めて精緻な彫刻が施された黄金の把手を引いても、求める緋色の影はなかった。その次にも。そのまた次にも。

 少年は焦燥の影が射した双眸で、妹に繋がる痕跡を探し求める。

「……や、め」

 永遠にも思える刻の後。巻貝の耳が拾い上げたのは、愛しい妹の、嗚咽交じりの悲鳴であった。

「レティーユ!」

 幸いにも鍵は掛けられていなかったので、危機に瀕しているらしき妹の許に駆け込むのは簡単だった。

 ジリアンはこれでも、武術の腕は士官学校でも一、二位を争うと教師たちに称賛されている。だから、赤毛の少女に覆いかぶさって、細い首に手を回す男を撃退しようとすれば、できたはずだった。

 だが、妹に無体を働いている人物がであるか理解した途端、鍛え抜かれた脚は凍りついてしまって。

「ジリアンか」

 残忍な笑みが刷かれた顔を、原型がなくなるまで叩きのめしたい。未来の軍人たる証として腰に下げた剣を、白金の髪がかかる首にめり込ませたい。なのにこの時のジリアンは、こんな間の抜けたことしか言えなかった。

「……ルベリク殿下。僕の妹に、何を、なさっておいでなのですか?」

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