夜明けはいつ訪れるか Ⅴ

 茜色の空で一番星が瞬く黄昏時。捕縛対象とその協力者の眼を警戒し、国軍支部の使用人に身をやつした一団は、威圧的な門を潜った。

 一般市民の服装がまるで似合わない青年は、母から受け継いだ白銀の毛髪を押し込めていた帽子を毟り取る。

 理由は良く分からないが、ジリアンはどんな格好をしていても、道行く人々に凝視されてしまう。どころか、そこの麗しい御方だの美しい君だの、寒気がする文句でしたり顔の男に呼び止められ、反吐が出そうな言葉を浴びせかけられるのだ。

 貴女がそんな恰好をしているのは、何か重大な訳があるのでしょうだの。だけどもう心配いりません、私が貴女を救い、幸福にして差し上げますだの。だからもう安心してくださいだの……。

 双眸に眼球ではなくひび割れた硝子玉が嵌めこまれているらしい馬鹿共が、どんな勘違いをしているのかなど、興味は微塵もない。ゆえにジリアンは十代の半ばを過ぎた頃からは、知人以外の男に話しかけられても、一切応えないと決めていた。

 しかし稀にどんなに撒こうとしても後を付け回してくる変質者がいる。そんな勘違い男二人が鉢合わせしてしまい、大騒動が巻き起こったこともあるから油断できなかった。

 ジリアンがあずかり知らぬ所で、ジリアンを賭けた決闘が始められたという、愚かしいにも程がある茶番。あの十八歳の夏の喜劇がもう一度起きて、ルベリクにこちらの存在を気取られてしまったら。その瞬間に今回の任務は失敗してしまう。

 ゆえにジリアンは、髪どころか顔のほとんどを隠せる大きさの帽子を被っていたのだ。当然視界も狭まろう。あの少女の家から退去し、ルトの街並みをそれとなく調査している間は、不便極まりなかった。

 ほとんど一日ぶりに直視する、信頼できる部下たちの面がほっと緩んでいるのは見間違いではあるまい。部下たちはもうすぐ待ちに待った夕食にありつけるのだから、楽しみでならないのだろう。

「なあ、ティド。どこに行ったら幼女って落ちてるんだろうな?」

 やっと今日の仕事が終わったという安堵のゆえにか、助走を付けて殴り飛ばしたくなる危険な発言を飛ばす者もいるが。

「は、何言ってんだお前? お前だけ先に食前酒でも飲んだのか?」

 非常に残念なことではあるが、次なる言葉によっては、ユーグをこの場で斬り捨てるなりしないといけない。ゆえに白銀の髪の青年は、耳をそばだてながら足音と気配を殺して、雀斑の部下に接近した。

「いやだってさ、今日のあの子可愛かっただろ? だから俺、あのフィネとかいう奴が羨ましくなってさー。俺より背が高くて顔が良くて金もあって美少女に好かれてる奴なんて、今すぐこの世から滅せればいいのに! なんて」

「……それは俺も思ったから良く分かるけど、でももしもお前が幼女に手を出したら、即絶交して即牢屋にぶち込むからな」

 まだ決定的な証拠は出ていないから、もうしばらく待ってやろう。

「ばっかお前。胸も膨らんでない幼女を、なんて俺がそんな外道なことするわけないだろ!」 

「ふーん」

「俺は、無邪気でおっとりしてて純真で可愛い子と知り合いになって、しばらくは“近所の頼れる、憧れのお兄さん”として関係を築きたいんだよ」

 ここまで来れば、信じても大丈夫だろうか。

「そして少女から素敵な女性になった彼女が、頬を真っ赤に染めて俺に告白してきたら、“俺もずっと前から君のことが好きだったよ”って、花束を差し出してだな……。それから二人は庭付の家に移って犬を飼って、可愛い子供にも恵まれて、末永く幸せに暮らすんだ」

「すげえ壮大な妄想だな。いっそ感心するわ」

 どうやらジリアンは部下を誅せずに済むらしい。よく考えたら、成熟した女性を好むティドが、少女に性的な興味を持つはずはなかった。

「とにかく俺は少女が淑女になるのを側で優しく見守りたいんだよ!」

「そうかそうか。それは浪漫があるなあ。いつかその夢が叶うといいなあ。俺も応援してやるから、適当に頑張れよ」

 ユーグの一番の親友である眼鏡ことティドも、どことなく安心した顔をしている。だが彼が友人に注ぐ眼差しは奇妙に投げやりかつ、生ぬるかった。周囲の部下たちも皆一様に融けかけの氷菓子のような目をしているし、それは自分も同じなのだろう。この話題にこれ以上関わっているのが、急激に面倒になってしまった。

「わっ、隊長! いつの間にそんな近くに来てらしたんですか!?」

 ジリアンは軍刀の柄に伸ばしていた手を収め、立ち去ろうとした。しかし、実現する可能性など皆無に等しい夢物語の世界から帰還したユーグに絡まれてしまったから、仕方がない。

「ち、違いますよ! 確かに俺は、俺より顔が良くて背が高くて金がある奴なんて全員いなくなればいいと思ってますけど、隊長のことは敬愛してますんで!」

「そ、そうですよ! 隊長が巨乳美女な義理の妹と結婚していて、毎夜義理の妹の巨乳を好きにしていると知っていても、俺たちは隊長のことを呪ったりしてませんから! だから、鉄拳制裁はよして下さい!」

 しかもあらぬ勘違いをして、ティド共々涙目で命乞いを始めたのだから、淡く開いた紅唇からは自然溜息が出てきてしまう。

「お前たちはいつも僕がレティーユの巨乳を好きすぎるだのなんだのと騒いでいるけれど、」

 軍服を纏っていても男装の美女と見紛われる青年は、鮮やかな青玉を取り囲む銀の睫毛を伏せ、嫋やかな口元を引き締めた。

「そもそも、小さい胸が好きってことは、つまり幼女趣味だってことだろ?」

「ま、まあ、そうですね……」

 ルオーゼにおいてはほとんどの場合、「貧乳好き」はそれ即ち「膨らんでいない胸。つまり幼女を性的な対象と見ている」と捉えられる。世の中には胸部は控えめでも心身共にきちんと成熟した、大人の女性も数多存在するのだが。

 とにかく、この国の控えめな胸を愛好する少数派たちは、専ら「細身の女性が好み」と言い換えて自分の嗜好を語っていた。

「それを考えたら僕の趣味は極めて健全なんだから、あれこれ言われる筋合いはないな。男として当然のことだ」

 青年は、理想的にして典型的な南方美女の母譲りの美貌に、勝ち誇った笑みを刷く。ジリアンは見た目はどうあれ中身は、胸は大きいほど美しいとされるこの北方の国の男そのものであった。

 もちろん、この国にも顔を第一としたり、はたまた脚に拘りを持っていたりする男は掃いて捨てるほどいる。だが、大陸中部北方の民の間では、豊かな乳房こそ正義であり、優れた女の証であり続けたのだ。それこそ、ルオーゼという国が成立する以前から。そして、この先も恐らくずっと。永遠に。

「巨乳最高! レティーユの胸は世界一! 僕はレティーユの全てを愛してる!」

 高らかに妻への愛と欲望を高らかに叫んだ青年は、周囲から降り注がれる作りたての氷菓子めいた視線などものともしない。

 ――この任務が終わってレティーユと再会したら、まず最初に抱きしめて接吻して胸を揉ませてもらおう。そして谷間に顔を埋めて、レティーユの匂いを堪能して……。

 なぜなら、今度は彼がめくるめく夢の世界に旅立ってしまったから。

「どうする? 隊長がこうなったら中々こっちに戻ってこねえけど、俺たちだけ先にメシ済ませるのも悪いしな」

「でもそろそろ禁断症状出てもおかしくない頃だろ? だからたとえ想像だとしても、レティーユさんの成分摂取させてた方がいいんじゃねえの?」

 それもそうか、と頷き合う部下たちに背を押されて食堂に運ばれても、青年は魅惑の幻から滴る甘い蜜を貪り続ける。ある密やかな会話が耳に入らねば、あるいはとこに就いてもこう・・だったかもしれない。しかし癖のない銀糸に隠れた耳は拾ってしまったのだ。

「あのセレーヌって子、ユーグが言うように可愛かったけど、でも流石にあんな小さい子と結婚するのはないよなあ。あの死刑執行人、何を考えてあの子に求婚したんだか」

「そうだな。それはやっぱりあの男がアレ・・だったからじゃねえの?」

 その可能性は軽やかな笑いと共に紡がれたのだから、冗談のつもりだったのだろう。セレーヌ・ディルニが夫や義母から大切に扱われているのも、あの少女が夫を慕っているのも、一目で察せられたから。

 しかし、もしもその冗談が真実だとしたら、ジリアンは直ちにあの家に引き返して、フィネ・ベルナリヨンを軍刀の露としなければならない。

 この国の現行法では、女は父または配偶者の所有物と同じ扱いをされる。ゆえに、持ち主・・・が彼女にどんな非道を行っても、罰することができないのだ。

 己が所有する高価な壺を叩き壊したり、家畜を執拗に鞭打つ者がいても、咎めこそすれ告発する者などいるはずがない。そんな真似をしても法院に受理などされるはずがないし、それがどうしたと世間の嘲笑の的となるだけなのだから。そしてそれは、妻を壺や家畜に置き換えても全く変わらない。

 むろん、殺害したり重傷を負わせれば話は別である。近親間の性行為も罰せられる。が、性的な事柄となれば、部外者は夫婦の間には踏み込めないのだ。夫婦は性行為をして子供を作って当然なのだから。

 現行法では女から離婚を請求できない以上、夫婦間の性暴力から被害者たる妻を解放するには、加害者たる夫を抹殺するしかない。

 卑劣な化物の魔の手は、守るべきか弱き者たちに及ぶ前に、本体ごと斬り捨てる。それがジリアンが憲兵を志した動機であり目標であった。

 ジリアンがこの道に進んだのは、かつてあの男に屈服し、何より大切な妹を傷つけた償いをするためではない。ジリアンがレティーユに対して犯した罪は、レティーユにしか償えない。ただ、自分たちのような体験をする者を、社会から無くせたらと……。

 薄い目蓋を降ろせば浮かびあがる悪魔の影が常より鮮明なのは、あの少女に会ったからだろう。

 ジリアンは初めてセレーヌの顔を見た時、彼女の愛らしさよりも先にもっと別の、この世で最も嫌悪する存在を意識してしまった。あの少女が望んでルベリクの容姿を受け継いだわけではない。むしろ彼女はその出生ゆえに母親の愛を望んでも受け取れなかった、ルベリクが犯した罪の最大の被害者であるのに。

 けれども、そっくりだったのだ。親子とはいえ、あれほど似るとは。

 あの少女のふわりとした白金の髪は、八年前にジリアンとレティーユを苛めた男のものとそっくりで。目尻が垂れ下がった若葉の瞳は、かつて互いの吐息がかかるほど間近で眺めた男の瞳そのものだった。

 沈痛に目を伏せると、眼裏に忘れがたい過去の情景が蘇る。軍部の建物に似つかわしい石造りの廊下の灰色は、いつしか鏡のごとく磨かれた飴色に変じていた。

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