夜明けはいつ訪れるか Ⅳ
義母ミリーはぽかんと口を開けて青年の美貌を注視し、セレーヌもまた思いがけぬ繋がりに驚嘆する。しかし、身動き一つしないベルナリヨン家の女性陣とは異なり、名目上は家長である青年は流石に冷静だった。
「はい。その節には、御父君や使いの方に大変お世話になりました」
フィネは礼儀正しく頭を垂れたものの、決して友好の握手を求めはしなかった。けれども感謝の意を伝えたきり黙したままだった彼の前に、すらりとしていて美しいが、骨ばった男の手が差し出されたのだ。
「君、フィネ・ベルナリヨンだろう? 僕と君は同い年だと爺やに聞いたぞ」
氷雪の精めいていて近寄りがたい容貌と、大貴族の嫡男という地位には似つかわしくない、屈託のない微笑みも。
「同い年の誼みだ。仲良くしよう」
細く美しいが剣胼胝が目立つ手が、躊躇いがちに差し出された、数多の罪人の血に染まった手を握る。世間の常識ではありえない光景に、セレーヌはしばし呼吸すら忘れて見入ってしまった。
今となっては父と呼ぶことすら厭わしい男について知らせてくれた老人の語りによれば、ジリアンは幼い頃から身分や立場などに縛られず、分け隔てなく他人と接する人間だったらしい。だが、ここまで変わっているとは。
「隊長。挨拶はそのぐらいにして、さっさと本題に入らないと」
「そうですよー。いつまでも団欒の邪魔しちゃ悪いですって」
彼の部下だと紹介された、どことなく見覚えがある顔が混じった青年たちも、上司の行動に気分を害した様子はない。彼らは、当然の行為として受け止めていた。
急に訪れた客人は、どうやら変わり者揃いらしい。もっとも、セレーヌたちにとっては悪い意味ではなくて、良い意味での変人たちであるが。
「あの銀髪、あんなに綺麗なのに女じゃないなんて、世の中どうなってるんだろうねえ……」
何はともあれ、客人を迎えたからには、心を尽くしてもてなすのがミリーの流儀である。
「セレーヌちゃん。悪いけど、この人たちに出すお茶の準備を手伝ってくれないかい?」
「は、はい。お義母さん」
少女は腕まくりして台所に向かう義母の大きく逞しい背を追う。ゆえに彼女は伏せられた青玉の双眸が己の白金の髪と横顔を、しばし注視したことに気づかなかった。
「こんなものしか出せなくて悪いね。今、丁度お菓子を切らしててさ」
磨かれた飴色の食卓の上には、白い湯気を立ち上らせる白磁の茶器が四つ並んでいる。
「なんだったら、あたしがちょっくら一っ走りして何か買ってくるけど、」
「いいえ、僕たちにはこれだけで十分です。急に押しかけてきたのはこちらなのに、そこまでしていただくと申し訳ない」
ミリーがどこぞから引っ張り出してきた来客用の椅子に坐すジリアンや、椅子の不足を慮ってか自ら起立したままでいると宣言した青年たちは、めいめい温かな茶に手を伸ばした。
「長旅を終えたばかりで、丁度喉が渇いていたものですから、余計に美味しく感じます」
淡くほころんだ紅唇が、赤茶色の液体を含む。すると、セレーヌも普段嗜んでいる茶が、千金に値する貴重な茶葉から淹れられた一杯ではないかと思えてくるから不思議だった。
流麗な仕草で茶器を持ち上げるジリアン。そして、彼を囲む彼の部下たち。その光景は、首都で流行っているという
「隊長がおっしゃる通り! このお茶、とても美味しいです」
「ご婦人はお茶を淹れるのがお上手なんですね。田舎のばあちゃんのことを思いだしてしまいました」
青年たちの騒々しい様をちらと窺った緑の眼は、こっそりと白皙の顔を眺める。
有効活用する機会など永遠に巡ってこないだろう、と適当に聞き流した老人の昔語り。それによれば、ジリアンは容姿と気性のみならず、文武の道にも優れた幼子だったらしい。特に、彼の他を圧倒する腕力やずば抜けた身体能力は、帯剣貴族の筆頭たる公爵家の嫡男に相応しい、と彼の父の喜びの的だったとか。
ジリアンは十歳の時には既に片手で胡桃を割れる怪力を誇っていたそうだが、そんなことができて一体どんな役に立つのだろう。胡桃を割るには胡桃割り機があれば十分なのに。系譜を辿れば遠い親戚にはなる青年の幼少期の逸話は、よくよく思い返さずとも奇天烈なものばかりだった。
ジリアンは黙ってさえいれば、そこらの女は裸足で逃げ出す美女なのに、中身が少し……。自分の美貌をひけらかす鼻持ちならない男になるよりかは断然良いのだろうが、それにしても――
『士官学校では影で銀熊と呼ばれている、と嬉しそうに綴られた文が届いた折などは、わたくしどももそれは誇らしかったものです』
深く刻まれた皺がむしろ品の良い老紳士の微笑みと語りが脳裏に過る。この問題を追求するのはもう止めておこう。神秘すら漂わせる容貌の魅力が損なわれてしまうから。どんなによく考えても、こっそり熊と囁かれるのは、褒め言葉にはならないような気がするのだが。
「やっぱりこのお茶美味しいですね。心を込めて淹れた味がします」
雀斑が散った親しみやすい顔の、口はうまいがどことなく「軽く」感じられる青年の言葉に促され口に入れた二杯目の茶は、丁度良い温度になっていた。
「本当かい? だったら、もう一杯御馳走しようかね」
「ありがとうございます」
少女は掌中の器を傾け、一滴たりとも残さぬ勢いで茶を飲み干す。
「そういえばお前たちは、首都の憲兵らしいけど、一体ここに何しに来たんだ? きっと何か大切な用事があるんだろ?」
潤いを得て滑らかになった舌を動かすと、青年たちは互いに意味深な目配せをして頷き合った。
「ああ、それは、」
眼鏡を掛けた青年が何事かを呟く。するとジリアンは、遠い過去を想うかのごとく伏せていた鮮やかな青の眼差しを、セレーヌの顔にひたと向けた。
「セレーヌ・ベルナリヨン。君は、幸せか?」
そして投げかけられたのは、俄には意図を察しえない問いかけであった。だが、長い睫毛に囲まれた青玉に宿る光はあまりに真摯で拒絶できない。
「へ? いきなり何を……」
「どうか僕に教えてくれないか? 君が現在のこの生活を、新たに得た家族を愛しているかどうかを」
だから少女は、ふっくらとした頬どころか小さな白い顔全体を紅に染め、傍らの青年の反応を窺いつつであるが、答えを紡がずにはいられなかった。
「……わ、わたしは、幸せ、だぞ。た、たぶん。生まれてきてから今までで、いちばん」
瀕死の小虫の羽ばたき同然のか細い声であったが、それでも居並ぶ面々の耳にしっかりと届いたらしい。フィネがやや細めの夜色の双眸をはっと見開いたことが、気配で分かった。
雀斑の青年と眼鏡の青年はどこかじっとりとした視線をフィネの横顔に突きさしているが、その他の客人たちはこの上なく優しく自分を見守っている。まるで、セレーヌが巣立ったばかりの雛鳥か、独り立ちしたばかりの猫の仔であるかのように。
羞恥心は全身の血を沸騰させ、白桃の頬を熟れた林檎にしたが、少女は夫の瞳とはまた異なる青の目と真っ直ぐに対峙した。
「そうか。――それなら、いいんだ」
白銀の青年は、淡雪で作られた花のごとく儚く、けれども力強い笑みを整った口元に刷く。
「セレーヌ。僕は君が幸福であることを喜ばしく思うし、それはここにいる僕の部下たちも同じだ。だけど、世の中には君の意思も権利も何もかもを蔑ろにして、ただ自分の欲望のためだけに君を利用しようとする奴がいる。それが誰だか分かるか?」
突然の震えだした小さな手を、大きな手がそっと包む。少女は頼もしい体温に励まされながら、発することすら忌まわしい名を舌に乗せた。
「もしかして、ルベリク・アルヴァスか?」
その名が発せられた途端、ジリアンは嫋やかで美しい弧を描く眉を顰めたが、それはほんの一瞬のことだった。
「正解だ。そして僕たちは、君の幸福を守るために――何より、ルベリクを捕らえてあいつを処刑場に引きずり出すために、この街に来たんだ」
「は? どういうことだ?」
少女は麗しい青年の些細な変化に気づかぬまま、固く引き結ばれた口元がほころぶ瞬間を待つ。
「これは極秘の情報だが、君たちには教えよう。君たちの安全にも関わることだし、何より君たちならば無暗に口外したりしないだろうから」
「あ、ああ。そうだな」
「ルベリクは恐らくこの街に潜伏している。そういう目撃情報が寄せられたから、僕たちはここに来たんだ」
押し殺しきれない何かを秘めた、だが穏やかな調子で明らかにされたのは、脳天を棍棒で殴られたのかと錯覚する衝撃だった。
「――え?」
何よりも憎む父親が。セレーヌの苦痛の根源が。母を苦しめた男が、自分が暮らす街のどこかにいる。他者を傷つけながら自分は何一つ傷を負わずに、今でものうのうと生きている。
「それは、真実なのですか?」
人の子の営みを残酷に焼き尽くす溶岩に似た怒りは華奢な肢体を震わせる。掌に爪を食い込ませた少女の代わりに、疑問を代弁したのは、無論彼女の夫であった。
「そうだ。そして、あいつの唯一の実子である君の妻は、あいつの策略の餌として狙われている可能性が高い。だから君たちは、僕たちに頼ってほしいんだ」
「と、言いますと?」
「これから、あいつを捕らえるまでは毎日、ここにいる僕の部下に君の家周辺をそれとなく見張らせる。だから、もしも君たちの身辺に何らかの危害が加えられそうになったら大声を出すか、どうにかこいつらを見つけて助けを求めてくれ」
どうにか平静を取り戻した少女は、それでも小刻みに震える拳を包む固い掌を支えにし、居並ぶ首都警備隊の面々の姿を脳裏に刻む。
「俺たちとしてはありがたいのですが、貴方がたも手が足りない時期でしょうに、宜しいのですか?」
「勿論だ。国民を守ることが、僕たち憲兵の――軍人の責務だから」
誇り高い軍人は、控えめに滑らかな頬を緩ませ、部下たちと共に別れを告げた。
「わたしの……とやらの所為で、大変なことになったな」
彼らの背を見送るやいなや、セレーヌは傍らに立つフィネに、謝罪せずにはいられなかった。
己の身の裡に流れる王家の血とやらは、現在のルオーゼでは何一つ役に立たない。役に立たないばかりか、不要な厄介事を舞い込む災厄の胤でしかないのだ。
セレーヌのせいで、人間と呼ぶことすら躊躇われる人間が巻き起こした災禍が、自分だけでなく大切な彼らにも及んでしまうかもしれないなんて。どれほど頭を下げても足りなかった。
やっぱり、わたしなんていない方がいいんだろうか。
空の彼方の投げ飛ばしたはずの劣等感は蛇となり、音もなく足首からよじ登って、細い首に絡んでくる。
「君は何も気にしなくていい。俺が――俺の力が及ばなくても、あの人たちが、君のことを守るから」
しかし柔らかな白金の髪を撫でてくれる青年がいてくれるのなら、自分はそれらに打ち負かされずにいられる。上気した頬を膨らませ、子供扱いするなと抗議するこの時のセレーヌは、そう思っていた。
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