夜明けはいつ訪れるか Ⅲ

 澄みきった夏空も及ばぬ青が捉えるは、第一王朝断絶後の騒乱を経てもついに滅びず、発展し続けた都市の街並み。

 この北方の国の民には元来ありえぬ銀糸の髪は、彼に白皙の美貌を継がせた母の故地においても人目を惹きつける。その癖一つない毛髪を帽子に押し込んだ青年は、一般市民に身をやつした部下たちに号令を掛けた。

「では行くぞ」

「はい、た……」

「今回は、人目がある所では“隊長”はなしだ」

「はい! 分かりました、隊長!」

 重大な責務を背負っているというのにのほほんとした様子の部下に、ジリアンは早速溜息を吐きたくなった。だが、今回に限っては大目に見てやることにしよう。しかし、二度目は容赦しない。

 僅かながら遠い目をして明後日の方向を見つめる青年は、高くそびえる城門を潜る。いつも不必要に威勢のいい返事を飛ばす部下たちも後に続いた。

 ――このどこかに、あいつがいる。

 冷ややかに細められた双眸に宿るのは、暗澹とした危惧と憐憫であった。


 ◆

 

 換気のために窓を開けば、涼風が白金の毛先をそよがせる。降り注ぐ太陽の光を頼りに針を進めていた少女は、昼寝から覚めた猫のごとく背伸びし、凝り固まった筋肉をほぐした。

 細い腿の上に広げた白い布の塊が、きちんとした衣服の形を成すには、あとどれくらいかかるだろう。丁寧に丁寧に。針目の乱れ一つ見逃してはならぬと慎重に縫い進めているので、完成するのは一月後になるかもしれない。だがそれでもフィネの誕生日には間に合うから大丈夫だろう。

 酷使しすぎた目をごしごしと擦った少女は、自身が袖を通すにしては大きすぎる未完成の襯衣シャツをひしと抱きしめた。そして、自身の箪笥の引き出しの更に奥の、絶対に人目には触れない場所に仕舞いこむ。  

 頬を掠めるふわふわと柔らかな横髪を払いのける少女の右手に刻まれた、うっすらと赤い線はほとんど癒えかけていた。

「もうおやつの時間だよ。降りておいで、セレーヌちゃん」

「はい、お義母さん」

 階下から響いた明るく慕わしい声は、甘く香ばしい喜びの刻の始まりを告げている。

「はい。これ、セレーヌちゃんが好きな、」

 芳しい幸福の匂いで一杯の居間の食卓に着いたのは、セレーヌが最後だった。

「杏のタルトですね!」

 好物を目前にした少女は初々しい緑の目を細め、茶器を弄ぶ青年の顔をちらと窺った。

 数週間前のとある失言ゆえに、母親によって一か月間おやつ抜きの刑に処されたフィネは所在なさげ。自分は香ばしい生地の欠片にすらあり付けぬ茶会に参加するよりかは、部屋に籠って拷問道具の手入れでもしていた方がいいとでも思っているのだろう。

 何はともあれ、フィネは非常に退屈そうな表情をしているのだが、

「君、最近よく部屋に籠ってるいるね。どうしてだい?」

 彼の顔を見ると。いや、声を聴くだけでも頬が緩んでしまうのは何故だろう。フィネはセレーヌの動向に関心があったからではなく、ただ退屈しのぎに話しかけてきたに過ぎないだろうに。

「べ、別に、お前だって拷問道具の手入れをしている時はずっと部屋にいるだろ?」

 追及をかわすために口内に放り込んだタルトの生地は一たび噛めばほろりと崩れ、瑞々しい初夏の味が舌の上で広がった。

 そうだ。これがこんなに美味しいから、わたしの頬はこんなになるんだ。

 少女は不自然な頬の緩みと紅潮の責任を目の前の焼き菓子に押し付け、混乱の根源を駆逐すべく奮闘する。

 怒られてはいないし、怒られるようなことをしてもいないのに、フィネと向き合うと小さな胸が高鳴る理由は分からない。でも、この一皿を空にしてしまえば、彼と二人きりでいても以前のように平然としていられるはずだ。

「あらまあ、セレーヌちゃん。そんなに急いで食べなくてもいいのに。なんせ、フィネの分もあるんだからね」

「君の口は小さいのにそんなに詰め込んでると、そのうち喉に痞えて息ができなくなるぞ」

 セレーヌは一時の萎れた花の風情を脱ぎ捨て、本来の年相応の子供の姿を取り戻した。少女を見守る大人たちの濃紺の瞳は、温かなで穏やかだった。



 蕾や若芽など容易に蹴散らした嵐が終焉した日。セレーヌはフィネに負ぶわれて我が家に帰った。

「――フィネ! お前は今まで一体どこで、しかもセレーヌちゃんを連れて、何をしてたんだい!?」

 恐る恐る扉を開いた青年に浴びせられたのは、案の定雷も及ばぬ怒鳴り声であって。義母の怒りの程度は、吊り上げられた上がり眉が教えてくれた。

「あたしは心配してたんだよ! 奥で片付けしながら待ってたのに、お前はいつまでも帰ってこないし、セレーヌちゃんは家にいないし。その上大雨は降ってくるしで、お前たちが風邪でもひいたらどうしようかと……」

 大柄な身体で同じく背丈が高い息子に詰め寄る彼女の面は、セレーヌが知る全ての言葉を駆使しても到底言い表せない迫力を湛えていて。

「ごめん、母さん。でも、これには色々と深い訳があって、話せば長くなるから、」

「“でも”も何も関係ないんだよ! どんなに時間が掛かってもいいから、あたしの胸が不安ではちきれそうになった原因をちゃんと説明してもらおうじゃないか!」

 悪魔も裸足で逃げ出しそうに激高した女性の夜の双眸は、怒りの炎を宿して燃え盛っている。ミリーとフィネの虹彩はそっくり同じ深い紺なのに、フィネの瞳が死に通じる深夜の静けさを備えているのに対し、ミリーは真夜中の静寂を破って噴火する火山を連想させるのは何故だろう。両者の気質の差だろうか。 

「分かってるよ、母さん。だけど、今はそれどころじゃないから、」

 壁際に追い詰められた青年は、幻の紅蓮の炎を背後に従える母をたしなめるべく、彼なりに奮闘する。

「今じゃなかったら、一体いつその時が来るんだい?」

「……それは、ええと、きっと、いつか、」

「――話にならないね」

 しかし恐怖に慄きながらも抵抗を試みた青年の気概は、かえって火に油を注ぐ結果となった。

「さてはお前、また適当な言い訳であたしを誤魔化すつもりだったんだね! 全くお前はこういうところばっかり父さんに似て……」

 日々の家事に鍛えられた逞しい体躯の義母は、溜息をつきながら器用にフィネの襟首を揺さぶる。息子のものほどではないが厚く硬い手に、小さな手が掠ったのはほんの偶然だった。

「ああ、セレーヌちゃん。氷みたいに冷たくなっちゃって!」

 しかしミリーはセレーヌの異変を鋭敏に察知し、体力を使い果たしてぐったりとうなだれる少女を息子の背から降ろして抱きしめた。雨を吸った布地の水分は彼女の衣服を濡らすのに、気にも留めずに。

「それに、怪我をしてるじゃないか! セレーヌちゃんは無駄に図体がでかいお前と違ってちっちゃくて繊細でか弱くて、ちょっとのことが一大事になるのに、どうしてすぐに教えてくれなかったんだい?」

「だから俺は、今はそれどころじゃないと、」

「今はそんなことはどうでもいいんだよ! 言い訳は後で・・、あたしの部屋でたっぷりと・・・・聴いてやるから覚えておきな!」

 息子の抗弁を右から左に受け流した義母は、ただちに二人分の着替えを用意してくれた。不愉快に素肌に張りつく衣を脱ぎ捨てると、ずいぶんとさっぱりとした。身体も、心も。

「さ、これを飲んで身体を温めて布団に入って。ぐっすり眠ったら、明日には体調も元通りになってるからね」

 摩り下ろした生姜と蜂蜜が入った紅茶は、華奢な肢体だけでなく幼い心をも温める。

 セレーヌは、心地よい布団に包まれながら考えた。わたしは確かに母親からは欠片ほどの愛も貰えなかったけれど、フィネやお義母さんには大切に想われていたのだと。母一人に愛されなかったとしても、その他の人々からも見離されるとは限らないのだと。

 垂れ下がった眦を伝って敷布に滴り落ちる涙には、身勝手な思い込みへの悔恨が融けていた。

 胎児のごとく身を丸くして貪った眠りは甘く快く、目蓋を開くのが躊躇われるほど。しかし少女は、眩い太陽の導きに従い腫れた目蓋をこじ開け、風雨に洗われた外界の景色を寝ぼけ眼に映す。

「……いい天気だ」

 泣きすぎて荒れた喉から搾り出した囁きはひび割れ、普段の鈴の音のごとき可憐な響きからは程遠かった。だが、それがどうしたと言うのだろう。

 本当の意味でのセレーヌの第二の人生は、これから始まる。新たな人生の始まりの日は、清々しい快晴から幕を開けたのだから、セレーヌにはそれだけで十分だった。

 喉も裂けんばかりの産声と共に新たに歩み出したセレーヌは、しかし未だ世間知らずの範疇から抜け出しきれていない。

「へえ、そういうのがあるんですね」

 ゆえに少女は、誕生祝なる風習を知らされた時、驚愕のあまり大きな目を更に、零れ落ちんばかりに見開かずにはいられなかった。

 この世に生まれ出たことを言祝ぎ、贈り物を交わす。生まれたことを喜ばれた経験も覚えもない自分の人生からは隔てられていた習わしは、その一端に触れるだけでも小さな胸を躍らせた。

 もっとも、実はミリーとフィネはセレーヌの誕生日会の計画を立てていたらしいのだが。しかし肝心の誕生日の時、母の死を思い出したセレーヌの精神は奈落に落ちていたから、計画は取り止めになったらしい。

「……お義母さん。フィネの誕生日って、いつなんですか?」

 白く小さな顔を上気させながら、しどろもどろに紡いだ問いの答えは、にんまりと明るい笑みと共に返される。

「実はもうすぐ――といっても、あと二月ぐらい後なんだけどね」

 以外にも、フィネは夏生まれなのだった。

 わたしがあいつに助けられたように、わたしもあいつに何かしてやりたい。

 平らな胸の裡に湧き起こった願いはたちまちどんな強風でも蹴散らせない入道雲となった。

 細やかだが壮大な企みを抱く少女は、それとなく夫の行動を観察を始める。彼の欲するものを見極めるために。

「お前、またそんな格好して。家の中ではもう諦めたからいいけど、そのまま外に出るんじゃないよ」

「そんなこと言われなくても分かっているよ、母さん」

 初めての狩に臨む仔猫のごとく目を光らせていた少女が、ある午後の夫の姿を見据えた時。小さく形良い頭の中にある考えが閃いた。

 フィネは首都で見かけた白銀の麗人のような、万人が認め讃える美青年ではない。とはいえ十分に端整な容姿をしているのに、いつも受刑者の返り血付きの襯衣という、気の抜けた格好をしているのはもったいない。と、セレーヌは常々思っていた。

 自分が手ずから針を取って襯衣を仕立てフィネに贈れば、彼も喜んでくれるかもしれない。セレーヌは、修道院では聖務日課はともかく裁縫は得意だったのだ。

 フィネが身なりを改め出した結果、街の女どもが騒ぎ出したとしたらという不安はある。だがその時は、包丁を突き付けるなりして対処すればどうにかなるだろう。セレーヌは法で定められたフィネの妻なのだから、泥棒猫どもとは格が違うのだ。

 夫婦とは、互いに助け合い、支え合って生きていくもの。夫の身なりを整えてやるのもまた妻の務めである。決意を固めた少女は、義母の力を借りて密かに布地を買い求め、これまた密かに自室で針を進めていた。フィネにこの計画を悟られたら、と考えただけで気恥ずかしさと照れくささで死にそうになるし、こういうことは秘密にしておくものだと義母が教えてくれたから。

 ミリーに裁断を任せていた布地を、フィネに偶然見つけられた際は、心臓が張り裂けそうになった。しかし鈍い青年は、女物にしては著しく華やかさに欠ける布をミリーが自分のために用意したものだと勘違いし、

「母さん、まさか既製品が入らなくなったのか」

 と呟いて母の怒りを買ったのだから、大丈夫だろう。


 初夏の味覚を堪能した少女は、彼女にとっては非情極まりない刑が執行されていなければ夫のものであったはずの一切れに肉叉フォークを突き刺す。

「すみませーん。ここ、ベルナリヨンさんのお宅ですよね?」

 妙に間延びした、この家を訪れる人間には相応しからぬ声が居間まで轟いてきたのは、少女がタルトの半分を平らげた直後だった。

「大切な団欒の一時にお邪魔してしまい、申し訳ない」

 氷のごとく冷ややかだが優しげな響きが、ベルナリヨン家の悲喜交々を見つめ続けた壁面に反響する。

 未だ口の端に菓子の欠片を付けた少女は、若葉の目を零れ落ちんばかりに見開き、居間に入室してきた人物に見入った。

 彼の細身ながら均整がとれた体躯や、癖ひとつない白銀の髪に縁どられた白皙の顔は、素晴らしく整っていた。

 長い睫毛に囲まれた冴えた青の双眸の上には、絶妙な弧を描く細い眉が置かれている。すっきりと通った鼻梁の下の、禁欲的な雰囲気を醸し出す薄い唇の紅さなどは、とても男とは思えなかった。

 首都パルヴィニーの一画で垣間見た美青年の横顔が、眼裏に浮かびあがる。セレーヌが出会った中で最も美しい人間として、朧ながら脳裏に刻まれていた美貌は、現在眼前に立つ青年のものとそっくり同じだった。同一人物としか考えられぬほどに。

 時を経て再び遭遇した青年が以前と異なるのは、袖を通した衣服の質のみ。彼は、かつては華美ではないが仕立ての良い衣服に身を包んでいたのだが、今回はそこらの街の若者と変わりない服を纏っている。

 美女と見紛う麗しい青年は、セレーヌの不躾な視線など物ともせず、神秘的な面差しの上に淡い笑みを乗せる。

「僕の名はジリアン。僕は、以前貴方がたの許に使いを送った、ヴェジー公アランの息子なのですが、皆様は父や爺やのことを憶えておいででしょうか?」

 そして紡がれた事実は、少女たちに更なる驚愕を齎した。 

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