夜明けはいつ訪れるか Ⅱ

 花模様の透かしも華やかな白糸刺繍カットワークの帳から、麗かな午後の光が差し込む。柔らかに照らされた一室は、瀟洒な屋敷の中でも最も、女主人の好みが反映された部屋だった。

 品の良い白亜の壁紙は、以前の重厚に過ぎた金襴の壁紙を嫌った義母が選んだもので、その他の小物も同様である。中でもとりわけ目を引くのは、レティーユの育ての母でもある彼女自らの手で仕上げられた、精緻な刺繍が施された卓布だろう。

 意匠化された葡萄の蔓に、繁栄の象徴である柘榴の実。たわわに実った林檎と杏の樹。その他、かつて母の故郷を版図に治めていた、大陸東部の国由来の火の鳥の羽根といった意匠モチーフが様々に。深い紺色の地に豪奢に、しかし華美になり過ぎぬ程度に品よく収められている。

 布から溢れんばかりの図案をぐるりと囲む植物文様は、レティーユの出身地のアルラウトと同じ大陸西部に位置する、砂の老帝国から伝わったものだろう。彼の国は、大帝と崇められる皇帝の治世にナスラキヤの大部分を征服した。そして、数百年間は支配下に置いていたのである。

「この部屋に入ってこの卓布に触れると、お母さまたちの所に帰ってきたのだなあと思いますわ。お母さまもお母さまが拵えた品も、いつまでもお綺麗なままで」

 羨ましいですわ、と珊瑚の唇から感嘆の溜息が漏れる。すると植物の花弁か貝殻めいた薄く繊細な茶器に隠れた紅がほころんだ。

「やあねえ。いい年したおばさんをそんなに煽てても、出せるものなんて今日の茶菓子ぐらいしかないのに、この子ったら」

 一面の雪原を連想させる、癖のない白銀。その銀糸と紛う毛髪に縁どられた玲瓏かつ凛とした白い面で佇むは、二輪の気高き紫丁香花リラ。滑らかな皮膚は穢れや時の移ろいの痕跡など跳ね除けんばかりで。成人した子を持つとは俄かには信じがたい肢体はほっそりとしなやかだが、女らしい丸みも適度に感じさせる。

 典型的にして理想的な南方美女である母エルメリは、近づきがたさすら覚えてしまう美貌ゆえに、慣れぬ使用人や初対面の人物からは敬遠されてしまうこともある。だが義母は雪の精めいた外観に反して、心根温かで慈悲深く、また親しみやすい女性なのだ。

「さあ、早くお茶にしましょう。今日は特別にあなたが好きな木の実のタルトと白桃のパイを焼かせたのよ。それにもちろん、薔薇の花弁の砂糖漬けも」

 待ちきれないとばかりに自ら母娘二人だけの茶会の用意をする母の横顔は、無邪気な少女のようで。母親に対してこんなことを思うのは失礼に当たるかもしれないが、とても可愛らしかった。

「他には、そうね……桜桃や木苺を使ったお菓子も用意させておいたの。ああ、そうだわ! せっかく時期なんだから、黒酸塊すぐりのお菓子も用意させておけば良かったわね。私としたことが、うっかりしていたわ」

 ただの間食だというのに一体どれ程食べるつもりなのか。また、肥ったらどうするつもりなのかという疑問は母には不要である。なぜなら彼女は、少しでも多く食べ過ぎたら、抑えきれなかった欲望が不愉快な脂肪となって腹部に纏わりつくレティーユとは前提が根本から違うから。母エルメリは彼女そっくりな息子同様、好きな物を好きなだけ食べても太らないという、夢のような体質を所持しているのである。

 顔も知らない実父の友人である父に引き取られてから、今に至るまで。美味しそうに菓子や主菜のお代わりを平らげる母や兄の横で、涙を呑んだ経験は数知れず。

 兄の場合は、毎日激しい運動をしているから太らないのだと、まだ納得できもする。子供一人分に匹敵する重りを仕込んだ服を着用した状態で毎日走り回っているのだ。肥る方が難しいだろう。だが、母は既に名誉称号と化してしまったとはいえ公爵夫人らしく、毎日針と糸や毛糸や詩集を伴に、庭師が積んできた花を愛でながら過ごしているのに。

 レティーユと母の動く量はさほど変わらない。むしろ、自分の方が主に夜に激しい運動をしている。なのにどうして脂肪はエルメリではなくレティーユの身体にへばりついてくるのだろう。理不尽だ。神が何を考えて選ばれし者と選ばれざる者の区分を設けたのかさっぱり理解できない。

 などと雪のごとく降り積もる懊悩を噛みしめている間に、茶会の準備は整っていた。母一人に支度をさせてしまって申し訳ない。

「料理人たちも、久々にあなたが帰ってくるって張り切っていたもの。どれも綺麗で、美味しそうでしょう?」

「え、ええ……」

 弾む声に応える呟きが妙に小さくなってしまったのは、娘として、嫁としての至らなさに恥じ入っていたためだけではなかった。

「一体どれから食べようかしら? 楽しみねえ」

 澄み切った薄紫が見つめる茶菓子の大きさは、どれも二口か三口で平らげられるほど。だがどれも手の込んだ細工が施されていて、舌や鼻だけでなく目にも楽しかった。

 特に白桃のパイなどは、煮こんだ果肉を薔薇の花に見立てて盛り付けていて、肉叉フォークを入れるのが躊躇われるぐらいに。もっとも、声なき誘いでもってレティーユを誘惑する菓子がぐちゃぐちゃに崩れていたところで、全てを賞味するのは躊躇っていただろうが。

「あなたはまず、これとこれを食べるでしょう?」

 義母が微笑みながら金と藍色の縁飾りの平皿に載せて差し出したのは、確かにレティーユが特に心惹かれていた菓子だった。だが、母の提案に甘えてばかりいると、レティーユはそのうち豚になってしまう。そしたら、愛しい兄が一歩外を歩けば、禿鷹のごとく群がってくる女たちには嗤われてしまうだろう。そうなれば、卑しい泥棒猫どもをどのように牽制し、蹴散らせばいいのか。

 兄の任務が終わり、首都の屋敷に戻ったその夜、躊躇いなしに寝台で服が脱げないような身体になっていてはいけない。

 保湿という言葉さえ知らないだろうに、自分などよりよほど美しい夫の隣に並ぶに相応しく続ける。それこそがレティーユが掲げる生涯の志であった。

「……お母さまのお心は嬉しいのですけれど、実は私……」

「なあに? もしかしてまた“太ったみたいなんです”なんて言うつもりなの?」

「……恥ずかしいことですけれど、」

 身を引き裂かれんばかりに辛くとも、兄のためだと思えば、魅惑の菓子をも諦めきれる。

「貴女は胸が大きいから、お腹に多少肉が付いたところで、分からないと思うけれどね。それに、私の目には、あなたの体型は前に帰って来た時と全く変わりなく見えるわよ? 前より綺麗になったみたいではあるけれど」

 窘めるような苦笑はあくまで優しかった。けれど、好物であるはずの胡桃に、何故だかちっとも食欲を刺激されないのは本当なのだ。

 自分のためにこれらを用意してくれた母や料理人を想えば胸が痛む。けれども今は、このタルトだけではなく、牛酪やクリームを多用した全ての食品を遠ざけたかった。

 飴がけされた胡桃の香ばしさとほろ苦さ、狐色に焼きあげられた生地の牛酪バターの香りも芳しい菓子は、レティーユの大好物なのに。むしろ、嫌いでもないが取り立てて好んでもいなかったはずの、檸檬や甘橙といったさっぱりとした物が欲しくなってしまう。

 この細やかだが確かな不調の原因は、夢見が悪かったためだろう。透き通った白薔薇の花弁をそっと舌に乗せた女は、波打つ緋色をしどけなく結い上げた頭部を傾けた。今日は随分と昔の、封をして奥底に放り込んでいたはずの一幕を思い出してしまい、いつもならばまだ熟睡しているはずの刻に跳び起きてしまった。

「……今の貴方には、お菓子よりも寝台の方が必要かもしれないわね」

 だからなのだろう。母は紅茶の薫りを楽しむ振りをして欠伸を噛み殺したレティーユの様子に、喉を鳴らした猫のようにころころと微笑んだ。

「……すみません」

 悪夢に魘されたのが、首都の屋敷の兄の腕の中でのことならば。ジリアンは自分が再び寝付くまで、髪を撫でてくれるだろう。あるいは、細身だが逞しく引き締まった身体や、愛おしいぬくもりに包まれていれば。だが、愛しい彼は、今は遠い旧都にいる。

「いいのよ。今日はいい天気だもの。実を言うと、私も少し眠くなってきたわ。満腹になったからかしら」

 ふわ、と小さな欠伸が混じる言葉通り、色も味わいも様々な茶菓子は、レティーユが平らげられなかった分も含めて全て母の胃の中に納まっていた。こう思うのはもう何度目かは分からないが、これで少しも太らないだなんて、母が羨ましくて仕方がなかった。

 少女時代のレティーユは、母のような女性になりたいと、祈りにも似た気持ちで願っていた。清廉でいて気高いのみならず、凛とした聡明さをも漂わせる貴婦人。それはつまり、顔立ちどころか声すらも朧になった実母とは正反対の女であるということでもある。

 結局、祈りは聞き届けられず、昔のレティーユは男女の違いが明らかになる時期に差し掛かると、どんどんと変化する肢体を恥じ、疎まずにはいられなくなった。そして、十三の夏のある出来事をきっかけに頂点に達した劣等感は、なりを潜めながらも決して癒えはせず――   

『どうして!? どうしてそんなことをおっしゃるの!?』

 夫婦となったその夜に兄から告げられた決意によって、秘め隠していた想いをも巻き込んで爆発したのである。

 当時の自分がなぜあれ程の癇癪を起こしたのかは、今となっては分からない。だけど、ジリアンにしては強引に唇を奪われた際の悦びははっきりと覚えている。互いに激情をぶつけた夜が終わり朝が来て、身を起こした途端、節々の軋みと違和感を覚えたレティーユは幸福だった。

『炎みたいに、綺麗だから――』

 レティーユが誕生した際と同様に、言葉では言い表せられないぐらいに。自分はこの瞬間を永遠に、死してもなお忘れないだろうと確信してしまったほど。

 ――兄は、今頃どうしているのだろう。離れて一か月も経っていないのに、もう会いたくて、抱きしめられたくなってしまった。

 眠気覚ましに、と苦味すら感じるまでに濃く淹れた茶を嚥下した女は、橄欖石の瞳を細める。窓から覗く蒼穹は、愛しい青年がいる旧都まで続いているはずだった。

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