夜明けはいつ訪れるか Ⅰ
少女が暮らす娼館の夜明けは、薔薇色の暁が訪れる明朝ではなく、白銀の月の馬車が天空に顔を出す頃に始まる。娼婦たちは心身を蝕む疲労と悲哀を巧みな化粧で隠し、紅く塗った唇の端に蠱惑的な笑顔を乗せる。
一糸纏わぬ全裸。あるいは下着姿で娼婦たちは媚態を振りまく。男達は、選んだ女と共に、虚ろな寝台のみが据えられた部屋に駆け込む。その全てが、幼い目にとってはおぞましかった。
娼館の全てを統べるのは大昔は彼女自身娼婦であった年老いた女将なのだが、彼女の
「おまんまならてめえの母親に強請りな。てめえみたいなクソガキにただで食わせるメシなんてないんだよ」
猫の餌を狙っていると勘違いされたのだろう。平たい皿に盛られた鶏肉を行儀よく咀嚼する白猫の背に伸ばした小さな手には、長く伸びた爪を押し付けられた。
「全く、腹が空いてるのかどうか知らないけど、いつもそこらをちょろちょろしてて、本当に目ざわりなガキだね!」
髪を掴まれ女将の部屋の外に叩きだされた子供だが、帰る場所などありはしない。否、本当はあるのだが、血が滲む手は震えるばかりで、母と自分が暮らす部屋の扉を叩けなどしなかった。なぜなら、今まさに少女の母親は商売の最中なのだから。
母はきっと今頃、客の脚の付け根に頭を埋め、赤黒い醜怪な肉を咥えているのだろう。いつか偶然垣間見た光景は小さな胃を刺激した。
致し方なく廊下の隅で蹲り、縺れる赤毛がかかる耳を塞いでも、寝台が軋む不快な音はなおも鼓膜をくすぐる。どころか、甘く蕩けた嬌声すらも。
少女は波打つ緋色の髪がかかる肩を震わせ、小さな手を握り締めた。この声は、母ではない。店の中でも一番良い部屋と待遇を与えられている、店で一番若く美しい娼婦のもの。彼女は数年前に、異国の外交官の相手をも務める稼ぎ頭だったという母を追い落としたのだ。
一方少女の母は、遠い日の彼女の驕りを記憶している娼婦仲間の、揶揄と嘲りに背を震わせながら、求める者が現れるまで居間に佇むだけ。今晩のように客がついた日はまだいい。だが、焦燥と嫉妬に醜く食い荒らされつつある容貌は、往時の華やかさが残るがゆえに、男達を遠ざけた。
はなびらが全部おちたばらみたいなものなのかな、と少女は時折考える。件の娼婦が客に捧げられたという花束の中でもひときわ目を惹く豪奢な花は、その実鋭い棘を備えていた。
華麗なる装飾を全て剥ぎ取られた大輪と、荒野でひっそりと佇む菫を比較してみれば。たとえ小さな紫の一片や緑の葉の縁が日に焼け虫に食われていようとも、そちらの方が好ましいのではないだろうか。
母は、娼婦に身を落とす前はれっきとした貴族の娘だったらしい。そう胸を張る母に、でも今のあんたはただの淫売じゃないと返したのは、やはり店で最も若く美しい女だった。
きつく整った容貌通りの激しい気性を備えた彼女は、それでも娼館の女たちに慕われていた。
それが自身で拵えたものか、家族のものを背負わされたかの違いがあるとはいえ、娼婦に身を落とした女たちは皆何らかの負債を抱えている。
ゆえに娼婦たちは、来る日も来る日も躰を売り続けるのだ。だが、どれ程鍬を打ち付けても借金の山は一向に崩れない。どころか、より高く聳え続けるのだ。
その理由の一端は、女将が仕入れた日用品を相場の数倍の値段で買い入れるしかない、彼女らを取り巻く現状にある。だからこそ店の名と代金ばかりが高級な娼館において、客から貰った菓子を分け与えてくれる店一番の娼婦は仲間から讃えられるのだろう。
何より、彼女の才知や機転の良さを好むのは女ばかりではない。閨での技術を聞きつけた男達はこぞって彼女を求めた。
『私はあの女に馴染みの客を取られたのよ』
もっとも、少女の母は幼い手から忌み嫌う女に渡された胡桃入りの焼き菓子をもぎ取り、窓の外に投げ捨てたけれど。その時の少女の母の美しさが剥がれ落ちかけている顔は、醜く引き攣っていた。
齧りかけの菓子は、揺れる双眸が見守る最中、ひび割れた街路に落ちて砕け散った。少女と菓子の初めての出会いは、こうして呆気なく終わった。
――あんなことになるなら、さいしょっからぜんぶたべなきゃよかった。だったら、もういちど食べたいなんて思わずにすんだのに。
仄かな甘味でも残っているかもしれない、と舐った指先は塩辛く、あの菓子とは似ても似つかなかった。
あんなに幸せになれる機会は、もう二度と巡ってこないだろう。気が立っている時の母に聞かれれば叩かれてしまうから、嗚咽を押し殺して涙したのは、ほんの数か月前のことだった。なのになぜ、目の前には母が口元を引き攣らせて語っていた
一度口に入れて以来その味を忘れられなかった胡桃の焼菓子に、干し葡萄と煮詰めた林檎をさくさくとした生地で包んだパイ。燭台の煌びやかな光に照らされた卓には、とりどりの菓子が並べられた白磁の皿が鎮座している。ふわりと膨らんだ生地を滑らかなクリームで化粧し、桜桃を飾った菓子など、見るだけで唾が出てきた。
少女が右の手を伸ばしかけると、傍らの母に左の甲を抓られた。行儀よくしていろ、ということだろう。
珍しく日中に目を覚まし、少女に清潔な衣服を着せ、とびきりの上客相手にしか使用されぬはずの部屋に入った母もまた、入念に着飾っている。けれどもそっと仰ぎ見た面は窶れ果てていた。目の下に溜った黒ずんだ澱みは、丹念な化粧でも隠しきれていなかった。
食べてもいい、と許可されていない物に手を出してはいけない。後で店の女将に高額な代金を請求されるかもしれないから。
常日頃から母に言い聞かされてきた戒めは、呪文となり鎖となって、幼い心を縛りつける。
「遠慮しなくてもいいんだよ。これは君のために用意させたものなのだから」
けれども耳慣れぬ訛りはあるが十分に聞き取れる帝国語によって、頑丈な鎖は呆気なく引きちぎられた。
菓子に目を取られて、男の存在に気づいていなかった少女は、おずおずと声の主を仰ぎ見る。男の身の裡から滲み出る気品は、それこそ少女の娼館に通い詰める貴族たちよりも、彼が地位が高い人間であると示していた。娼館でただ一人の子供として皆の顔色を窺う日々を送ってきたのだ。十を越えない少女であっても、それぐらい一目で判断できる。
「おちびちゃん。この人はね、あなたのお父さんのお友達なのよ」
くすんではいるがこの帝国においては稀な金色の髪の異国の男は、ひたと少女の面に冴えた青の双眸を向ける。
「ああ。確かに、目元や口元に、なにより瞳に亡き我が友の面影がありますな。あれの瞳も緑だった」
それから明らかにされた、少女自身知らなかった少女の真実は、母に促されて恐る恐る詰め込んだ焼菓子をか細い喉に詰まらせた。
「わ、わたしが、これから半年後に、おとうさんの国に
少女は、母と外交官として訪れた異国の貴族の間に生まれた私生児である。それは、少女自身知悉していた。
だが、今まで周囲の者たちと同じ帝国の臣民だと信じていた自分が、国家間で取り決められた条約によれば父の国に属する人間。つまり、帝国にとっての外国人だったなんて。ただそれだけでも衝撃的なのに、病没した実父の遺言に従い、言葉が通じない異国に行かなければならないなんて。
――怖かった。とても怖かった。それぐらいなら、この娼館で、女将には小突かれ、母には気まぐれに叩かれて一生を終えた方がいいとさえ思った。
「おかあさん、あの、わたし」
これから会う人の前ではにこにこ笑っていなさいという忠告を忘れ、少女は心地良い肌触りの布でできた袖を引く。
「では、これで契約成立ですわね」
けれども母は一葉の証書に署名するために、震える手を振り払った。
「そういえば、これまでのこの子の養育費を忘れておりますわ、公爵様。それに、手切れ金も。私はお腹を痛めて産んだ愛しい娘を手放すのですから、相応のものを頂かないと納得できません」
それだけでなく母は、目の前の男から未来を輝かせる金色の糧を搾り取ろうと画策する。顔も知らない父の友人だという、少女とは一滴の血も共有しない男から。――なんて下劣なのだろう。
父の国の男が帝国で儲けた子の存在を認知した場合、父親にはその子の養育費を支払う義務が発生する。これは条約で決められたれっきとした権利らしい。しかしどんなに多めに見積もっても、少女の成長に要した金は、ふっくらと艶やかな唇から出た値の十分の一にも満たないだろう。
「――分かりました。全てそちらの言い値で支払いましょう」
友人の最期の頼みを引き受け、自ら娼館にまで足を運んだという高潔な男に、少女の母のあさましい真意が見抜けるはずがない。
法が定める以上の恩恵を引き出すことに成功した女は、部屋に戻るやいなや歓声を上げて我が子を抱きしめた。
「私の可愛い金づるちゃん! あんたのお父さんやお父さんのお友達は本当にいい人ね!」
少女の指に付着したクリームのべたつきも意に介さず、汚れた手を取ってくるくると踊る母の身のこなしは軽やかで。母は確かにかつては良家の令嬢だったのだと納得できた。
「始末するには遅すぎる時期に、あんたを妊娠したと気づいた時は、色々と悩んだけれど」
少女は母が身籠った四番目の子供だった。
一番目は情夫との子だったが、妊娠を告げた母は彼に捨てられた。後に生み落とされた男児は臍の緒で首を絞められ、塵同然に澱んだ河に投げ捨てられた。二番目と三番目の、少女の兄とも姉とも分からない者たちは、人の形を成さないうちに胎内から引きずり出され、肥溜めに放り投げられ……。
「やっぱり産んで良かったわ! そのうち客を取らせよう、と思って今まで育てていて正解だった」
五番目と六番目も、二番目と三番目と同じ道を辿った。運よく生まれることができた少女だけが、こうして母の目の前に立っている。けれどもそれは、少女にとっては幸福を意味していなかった。
――あんたのお母さん、犬ころみたいにすぐ孕むものね。
少女は、嘲笑と共に告げられたきょうだいたちの運命を羨望せずにはいられなかった。父親と同じ金髪だったらゲテモノ趣味の娼館に高く売れたのに、と爪を噛む母の姿など見たくはなかったのだ。
「これだけの金があれば、十年は遊んで暮らせるわ! ああ、何をしようかしら!」
幸福な女は、我が子の不自然な顔色に構わず踊り続ける。曇った鏡面に浮かぶ二つの顔はやはり酷似していた。
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