ただそばにいるということ Ⅲ

 普段はきちんと整理整頓された机の上には、書類の束がうず高く積まれている。一部は雪崩を起こし、崩れて折り重なっている紙の上には、讃嘆の溜息を禁じ得ない白皙の美貌が乗っていた。

 己の腕を枕にしばしの休息を貪る青年の面には、隠しきれぬ疲労の痕がある。蕊に似た長い銀の睫毛の影が落ちる染み一つない頬は、首都どころか国中を揺るがす大事件が起きる前よりも、ほんの僅かだがやつれていた。

 ある時は冷ややかな怒号と的確な指示を。またある時は最愛の妻との蜂蜜よりも甘ったるい日常を零す、薄く整った紅唇から安らかな寝息が漏れているのも無理はない。今やユーグたち憲兵を束ねる責務を一身に負う敬愛すべき上司は、ほとんど不眠不休で職務を果たすべく奮闘しているのだから。

 青年は雀斑が浮いた頬を緩め、整った寝顔を見守る。身だしなみに掛ける間も惜しみ書類に目を落としている上司だが、決してむさくるしい印象にならない。それは、偏に彼が生まれ持った美貌ゆえなのだろう。

 うっすらと隈が刷かれているのが自分の目元だったら。また女に騙されて給金を巻き上げられたのか、と悪友兼同僚たちに笑い飛ばされるのがおち・・だ。

 一方類まれな美形であるジリアンの場合は、近頃流行りだという恋愛小説の女主人公たる、麗しくも病弱な令嬢の雰囲気を漂わせていた。

 ……こんな発言を本人に向かってしてしまえば、怒りの拳が顔面にめり込みかねない。また愛すべき上司は、我が身の不運を嘆くあまり、療養の地で巡り合った運命の恋人と心中した架空の令嬢とは異なり、すこぶる強壮な肉体を誇っている。けれども心配なものは心配なのだ。

 ジリアンが義理の妹でもある妻を実家に帰らせ、独身専用の兵舎で寝泊まりを始めて、既に一月ほど経つ。

 報奨金狙いの虚言。あるいは、悪意はないが厄介な思い込み。それら雑多な情報に目を通し、軍部の内部のみに流通する詳細な地図を睨む彼の姿は、部下であるユーグたちに一抹の不安を抱かせていた。

 ――このままでは、働き過ぎていつか倒れてしまうのではないだろうか。

 思い付きで実施される抜き打ち試験に愚痴を零しながらも、何だかんだで彼の善意を信頼している隊員たちが抱く共通の危惧が現実になる前に、ジリアンには存分に休息を取ってほしかった。

 ユーグたちは雪の妖精と紛う容貌からは到底考えられぬ、「格闘技の研究」という儚さの欠片もない趣味に勤しむ上司を敬愛している。したがって現在の彼の萎れた百合のごとき風情には、どうしても胸が痛んでしまうのだ。

 寂しげに妻の名を呟くジリアンの姿を目撃するぐらいなら、火急の事態により一時中断された、異国語の読解に喘いだ方がましというものだ。上司が普段の威勢の良さを取り戻すのなら、ユーグは新しい関節技の実験台にも喜んで立候補するだろう。

 林檎をも用意に粉砕する怪力によって骨が軋み、昇天しかけた回数は、既に両手足の指の数を超えているが。上司のために自分にできることなら何でもしてあげたい。もっとも、今のユーグにできることといえば、細くとも引き締まった背に薄手の毛布ブランケットを掛けるぐらいであるが。

「ゆっくり休んでくださいね、隊長」

 青年は口元に微笑みを湛えながら、ちらと一瞥するだけでも眩暈がする紙の山の形を整える。そして彼は、足音を抑え美貌の青年が眠る部屋をひっそりと後にした。こうしていれば、今しばらくは書類が雪崩を起こして上司の安眠を妨げることはないだろう。


 ◆


 妹が泣いていた。触れれば火傷するのではないか、と初めて目にした時は錯覚してしまった、見事な赤毛を振り乱して。

「どうして!? どうしてそんなことをおっしゃるの!?」

 控えめな彼女にしては珍しく率直に感情を表現し、己にぶつける彼女は、現在よりも幾分か年若い。

 すぐに夢だと判ぜられる光景は、二年前のある日をそっくりそのまま再現していた。

 豊かな肢体の曲線に沿う白い絹の寝間着を纏ったレティーユが、同じく軽装のジリアンに掴みかかる。引き締まった腕に食い込む指先は、彼女が抱える激情を率直に伝えてきた。

「レティーユ」

 ――華奢な背を震わせて泣き叫ぶこの女をねじ伏せるのは簡単だ。桜貝の爪が与える痛みを甘受している腕に、ほんの少し力を込めて押し倒せば、妹は呆気なく陥落するだろう。

 並外れた腕力を持つ自分と彼女とでは、男女の違いが露わになる以前から、圧倒的な力の差があった。ジリアンが十六でレティーユが十三だった頃には既に歴然としていた隔たりは、開きはしても縮まりはしない。現に、幾度か触れた覚えがある腕は、頼りないほど細かった。

 上質だが薄っぺらな衣服を剥ぎ取り引き裂いて、その中身を穢すのは、赤子の手を捻るのと相違ない。しかしかつて強いられて為したことは、レティーユの心身に深い傷を残したはずだ。だからこそジリアンは、己の中に滾る欲望をひた隠しにしていたのに。

「私のことがお嫌いなら、私ではなくお父さまに紹介された方と結婚すれば良かったのよ。そうすれば私は、どこか遠くで、お兄さまの幸せを祈ったのに! こんなに悩んで苦しむことなく、心穏やかに……」

 なのになぜ、彼女を想うがゆえの行為が、レティーユを悩ませるのだろう。

 声と勇気を振り絞って告げた答えは、みっともなく掠れていた。そして目の前の女の憤りが静まる気配はついぞなく、涙に濡れ光る金緑の目を燃え上がらせる。艶やかな唇から飛び出したのは、驚嘆に値する要求であった。

 けれどもジリアンは半ば激情に流されていたとはいえ彼女の願いを叶え、だからこそ――


 自分たちのかけがえのない今があるのだ。

「レティーユ?」

 過去の世界から舞い戻った青年は、訝しげに冴えた青の瞳を動かす。誰かの気配を感じたために目が覚めたのに、愛しい緋色の影どころかそれらしい姿は見当たらない。しかし、不気味には感じなかった。とりとめのない疑問には、肩にかかるぬくもりが答えてくれたから。

 忌々しさを通り越し親し、みすら覚えてしまう時間を共にした紙の山は、大きさを増すばかりだった。あらかじめ部下たちに大まかな真偽の判定をさせ、残ったものだけを自分の下に運ばせているはずなのに。

 当初は情報が齎された地域と日時別に分けていたはずの書類は、いつの間にか幾つかの丘を作り、そして丘が小高い頂きとなって……。

 机の上が、言語を絶する状態になっても、どこに何があるのかぐらいは判別できる。しかし他者からすれば、これはただの混沌と乱雑の体現でしかないだろう。このまま捜査に当たっていたら、任務に障りが生じかねない。

 ここぞという事態になった際に、必要な書類がどこに行ったのか分からなかったら一大事だ。まして万が一紛失してしまったら取り返しがつかない。 

 青年しばしの仮眠を取ってなお重い頭を抱えながらも俊敏に立ち上がり、仕事机に積んでいた山を床に移し始めた。床の上に直接座るなど、貴族の子弟としてあるまじき不作法な行為なのだが、もはや礼儀などに構ってなどいられない。

 酷い場合には数十枚もある報告書の表紙に綴られた地名や日時を頼りに、書類の分別に着手する。そうして手強い敵を半分にしたところで、はたと気づいた。このままでは日が暮れてしまう。

 疲弊しきった心身の欲求と眠気の誘惑に屈し、心地良い眠りに身を委ねた頃は、まだ日は高かった。しかし目覚めた頃には既に太陽は天頂から転がり落ち、今ではもはや夕暮れの位置に近づきつつある。春の嵐を抜け出し夏の予感を纏い始めた青空が、鮮やかな朱に染まるのは時間の問題だろう。

 自分一人で対処できない案件には、部下たちと共に対処すればいい。そのための仲間なのだから。

「あー、お前たち。休憩中に悪いが、少し手伝ってほしいんことがあるんだ」

 休憩室にたむろしていた面々に声をかけると、彼らは快い返事を返してくれた。

「えーと、これを片付ければいいんですよね?」

「俺たちの手にかかれば、こんなのすぐに終わりますよ!」

 淡い褐色の雀斑が感じの良さと親しみ易さを醸し出すユーグと、片時も眼鏡を手放さないティドは、気が置けない友人同士だ。

「お前、アマンダちゃんとのその後はどうよ?」

 生地は違えど育った環境が似通っている彼らの、たわいのない日常や昔話に耳を傾けていると、重く背に圧し掛かるばかりの疲労も軽くなる。

「……別れた」

「は? 新しい彼女ができたって俺に自慢してきてから、二月も経ってないのに?」

「うるせー! “仕事が忙しいのは分かるけど、なかなか会えなくてあたしに寂しい思いさせたのはあんたでしょ”って別の男作られてたんだよ!」

 などと思っていると早速、胸が痛む話題が飛び出てきてしまったが。

 「あんな女、元々大して好きじゃなかったから、慰めとかいらねえから!」

 気づかれぬように、虚勢を張る部下の様子を窺う。彼は一か月以上もアマンダとやらが働く外国人街の料理屋に通い詰め、彼女を口説き落としていた。だが、それを指摘せずにそっとしておいてやるのが思いやりというものだろう。ついでに、ユーグは彼女に交際の申し込みをして頷かせるまでに、決してささやかではない金額の品々を貢いでいた。労いも兼ねて、近々彼に酒の一杯でも奢ってやった方がいいかもしれない。

「でもさ、俺、また可愛い娘見つけたんだ。あの娘、目が大きくてうるっとしてて、アマンダみたいに派手じゃないけど可愛いんだよな。被った黒い領巾スカーフの刺繍も上手だったし、きっと繊細で控えめで家庭的ないい娘なんだと思う」

 根が明るくて物事を引きずらない性分のユーグは、放って置いても自分の力で立ち上がるだろうが。

「へー。どこの娘なんだよ」

「それがな、言葉が通じないからよくは分かんねえんだよな。名前は聞き出せたんだけど」

 ナスラキヤ東北部のある地域では、既婚の女性は黒地に花模様の領巾で髪を隠す。ジリアンは以前、彼の地の山岳地帯で生まれ育った母からそのように教えられた覚えがあった。

 このことは、いつかは教えてやらなければならないだろう。だが、泥濘から這い上がって来たばかりの部下に向かって、異郷の風習を囁くのは憚られる。それにしても、ユーグはなぜこんなにも女運に恵まれないのか。

「あ、隊長。そういえば、俺が置いておいた書類もう読みましたか?」

 遠い目をして部下の未来を案じていた青年は、一刻程前に感じた気配の正体を悟り、口元を僅か綻ばせながらも首を横に振る。するとユーグは手際よく、春の終わりだというのに高くなるばかりの雪の群峰から目的の山を探し出し、白銀に囲まれた貴石の双眸の前に差し出す。その紙の束は、旧都からの報が積み重なって形成されたものだった。

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