ただそばにいるということ Ⅱ

 剣胼胝で硬い骨ばった指が、同じく硬い掌が、幽かに腫れた頬をそっと包む。

 接した肌から冷え切った全身に、魂までに染みこむ青年の体温は、春の午後の陽光のようで。真っ直ぐに己を見つめる双眸はひたすらに慈しみ深かった。

 セレーヌの心情をそのまま映し取ったかのごとく荒れ狂う天空とは似て異なる、真夜中の青の瞳は、月を彷彿とさせる慈しみを湛えている。

 狼の咆哮と亡霊が飛び交う夜を歩む旅人を守り導く天体に似た眼差しを、一心に注がれる。すると、小さな身体の中を突き破らんばかりに荒れ狂っていた嘆きは、僅かながら勢いを収めた。

 長い指はもはや忌まわしい色彩となった白金色をそっと掻き分ける。露わになった耳朶には、薄いが確かなぬくもりを感じさせる唇が寄せられた。

「泣きたいなら素直に泣いた方がいい。君は子供なんだから」

 染み入る体温同様に温かな囁きは、しかし翠の双眸に張った氷を融かしはしなかった。

 セレーヌには嘆く権利などありはしない。だから、どんなに苦しくとも――たとえ心臓に何万本もの針を射しこまれたのかと錯覚するまでに痛み、呼吸すらままならなくなっていても。小さな胸どころか全身が、獰猛なる獣に生きながら食い荒らされたかのごとく悲鳴を上げていたとしても、母を苦しめた自分は泣いてはいけないのだ。嘆くことが許されるのは、本当に辛い思いをしたマリエットだけなのだから。

 しかしフィネは、自分を掻き抱く夫は、泣けと言う。泣いてもいいのだと、眼差しで訴える。これ以上はないというぐらいおぞましい罪の結果として生まれ落ちただけでなく、母を死に追いやりさえしたセレーヌを。

「……君の父親が君の母親にやったことは、決して赦されることじゃない。だけど、君は何一つ悪くないんだ。君が生まれたことは間違いじゃない。君は……」

 濡れ、縺れた髪をあやすように撫でられる。首筋をくすぐる囁きは子守歌めいていて優しかった。

「君は……」

 途中で途切れてしまった声が、何を伝えようとしていたのかは分からない。けれどもこの先を知ってしまうと、セレーヌは赦してしまうかもしれない。この世で最も憎み愛した母ではなく、自分自身を。自分がこの世に生まれたのは過ちではなかったのだと、肯定してしまうかもしれない。だから、この穏やかな低い声をこれ以上聴いていたくなかった。

「はなせ!」

 深手を負った右手は硬く大きな掌に包まれているので、自由に動かせない。ゆえに少女は握りしめた左手を、自身を戒める男の胸板に打ち付ける。しかし華奢な背に回された腕の力は決して緩まず、もがく少女を逃すまいと強さを増していった。

「離さない」

 華奢な背骨が軋み、呼吸すらままならなくなるまでに強く抱きしめられる。水分を吸った布越しに伝わる素肌の生温かさと早鐘を打つ鼓動は、仰ぎ見た面には表れていない、秘め隠された青年の感情を教えてくれた。

「……お前にわたしの何が分かる!? おかあさんとちちおやに愛されて、大切に育てられたお前に、わたしの気持ちが理解できるわけないだろう!?」

 見当違いの怒りだとは、骨身どころか魂に染み入るまでに理解している。これは八つ当たりだということも。なのに、腹の奥からせり上がった、溶岩さながらに粘ついた憎悪を浴びせかけずにはいられなかった。

「お前みたいな幸せなやつに、分かったような面して憐れまれるのだけは厭なんだ!」

 こんなことを言ったら彼に嫌われてしまうと分かっているのに。フィネに見捨てられるのが何より恐ろしいのに、早くそうなってほしい・・・・・・・・のだ。

 どうせセレーヌはフィネにも必要とされていないのだ。だったらさっさとそう告げられたほうがいい。そしたら、何の迷いも未練もなく、全部を・・・諦められる。

「そうだな。君の痛みは君だけのものだ」

 しかし剥き出しの醜い感情を曝け出し、言うつもりはなかった言葉をぶつけても、フィネはセレーヌを離さなかった。離してくれなかった。

 ただ静かに少女の激情を受け止める青年の瞳は凪いだ北海そのもので。熱を帯びた翠の瞳を真っ直ぐに捉えていた。幽かな陽光が溶けた深海の双眸に映る己の面は歪み、引き連れ、確かな憤悶が刻まれている。到底直視に耐えぬ、しかしありのままの己の醜さに直面した少女は、それでもなお怯むことなく、全ての虚飾を取り払った姿を青年にぶつけた。

「だったら、わたしを自由にしろ。そしておかあさんの所に逝かせてくれ!」

 これ以上わたしにみじめな思いをさせてくれるなと。首を斬り落とすでも見捨てるでも構わないから、楽にしてほしいのだと。

「それは駄目だ」

 酷使し続けた拳はじんと痺れ、血走った双眸からは、ぱらぱらと散るばかりになった雨よりも激しい、滝のような涙が流れ出る。

「なんでなんだ!?」

 噛みしめすぎた唇から滲む血と熱い涙だけでなく、鼻水や唾液で顔を汚した少女は、喉も裂けよと叫んだ。

「お前だって、本当はわたしのことなんかいらないくせに!」

「そんな風に思ったことは一度もない」

「嘘をつくな! おかあさんにも院長さまにも愛されてなかったわたしを必要とする人間なんて、いるはずない!」

 分別を弁えぬ幼子に還って咽び泣き、己の過去を、悲嘆をもう一度噛みしめる。舌の上に根を張る苦痛は、口内に広がる鉄錆の味と入り混じり、嚥下しがたい苦味となって燃える心身を苛んだ。

 甲高い悲鳴をほとばしらせる喉は黒煙で燻されたかのごとく腫れあがり、耐えがたい疼きを訴える。しかし少女は煮えたぎった想いで喉が灼かれてもなお啼泣し続けた。

「……どうして!? わたしは何もしてないのに、ただ生まれただけなのに! なのにどうして、おかあさんはわたしを叩いたの!?」

 高く澄んだ声が枯れ果て、羽虫の羽ばたき同然になっても、なお。下水のごとく澱み粘ついた過去の澱から次々に浮かびあがる疑問と憤懣を吐き出し続ける。

「しんじて、いたのに。わたしは、あいしていたのに! まっていたのに!」  

 ついに語るべき言葉を失い、声を抑えることなく思い切り泣き、そして涙が尽きるまで。

 尽きるまで激情を搾り出した目は充血し、赤らんだ目蓋は重く痺れていた。尖った犬歯に薄い膜を破られた唇は、荒々しい風雨に苛まれ凋落した薔薇の花弁よりも痛々しい。

 涙と鼻水となって流れ出た激情の痕で彩られた顔は、きっと直視に耐えない代物だろう。しかしひび割れた仮面をかなぐり捨て、みっともなく怒り泣き喚く幼子こそが、嘘偽りのないセレーヌなのだ。

 セレーヌは言いつけに従って聖典をそらんじ、聖歌を唄う自分ではなく、この自分こそを母に認めてほしかった。否、母だけではなく、全ての大切な人々に。亡き前院長や、義母ミリーに。何より、身を引き裂かんばかりの怒りと嘆きを静謐に受け止めてくれた青年に。本当の自分を愛して欲しかった。

 小さな身体を蝕み続けた渇望を受け止めた青年は、しゃくりあげる少女の背をそっと撫でる。始めは肩を震わせていた彼女の身体の、心の緊張が解けるまで。

「……君はさっき、どうして自分を助けたのかと言ったね」

 産声にも似た慟哭の最中は柔らかに引き結ばれていた唇が開かれる。涙でぼやけた視界に映る伏せられた彼の目元には、密やかだが根深い苦悩と煩悶の影が落ちていた。フィネは物静かで口数が少なく、どちらかといえば暗い人間に属しはするものの、彼のこのような表情と向かい合うのは初めてだった。

「君が全てを話してくれたのに、俺だけ黙っているのは公平じゃないから、俺も全てを打ち明けるよ。……決して楽しい話じゃないけれど、聞いてくれるかい?」

 吸い込まれそうに深い青の瞳を細めた青年は微笑んでいるはずなのに、泣いているように見えるのは何故なのだろう。

「君が使っている部屋は、君が来る一年前に死んだ、俺の父さんの部屋だったことは話したよな?」

「……あ、ああ」

 少女は怒号を吐き出し涙を嚥下し続けたために荒れ果てた喉を震わせる。黙って頷いてもフィネは気分を害さなかっただろうが、今この瞬間の彼に応えたかったのだ。

「父さんは病死した。このことも話したよな?」

「ああ」  

「でもその病気が、ちゃんとした医者に罹れば治るかもしれないものだった、なんて母さんも教えてくれなかっただろう?」

 今度は、声を出せなかった。衝撃のあまり、しばしとはいえ息すら吐きだせなくなってしまったから。

「君も色々と辛い目に遭ってきたから良く分かっているだろうけれど、俺たち死刑執行人は、決して他の街の人々には歓迎されない存在だ」

 青年は語る。その面にかつての激情の片鱗すら乗せることなく、淡々と。自分たちは頑なに交流を拒否され、死してからは亡骸を納めた棺桶を墓地に運ぶ手伝いすら拒否される、呪われた一族なのだと。

 亡きフィネの父親が病魔に蝕まれた件に入った時、初めて濃紺の瞳からは不気味にすら感じさせる静謐が剥がれ落ち、隠されていた激しい怒りと憤りが現れた。

「覚悟してはいたんだ。俺たちは、出産さえ産婆なしに済ませなければならない一族だから。でも、縋らずにはいられなかった」

 フィネは父が病に倒れるやいなや、街中の医者の家の扉を叩いた。しかしどの医者も、死刑執行人などと触れ合うと商売に障りが出ると、青年の声を聴かぬ振りをしたのだ。どころか罵声を浴びせかけ、彼を追い払った者もいた。

 フィネは従兄と共に学んだ医術の知識を駆使し、父親の病の進行を止めようとした。けれどもそれは果たせず、フィネの父親は苦しみ抜いて死んでいったのだ。

「……俺たちが習得する医術は、どちらかといえば外傷を――拷問の傷を治すためのものだから。内臓を病んでた父さんは、助けられなかった」

 ぽつり、ぽつりと過去の激痛を、引き攣れた傷跡を露わにする青年の口元はなおも微笑を湛えていて、だからこそ痛々しかった。

「いつかのガキみたいな、死のうが生きようが構わない人間は、助けられたのにな。――俺は、最も大切な人を死なせたんだ」

 セレーヌの心身をも切り裂いた、大切な人との永遠の別離の苦痛は、フィネの心に色濃い影を落としたのだろう。

 フィネは母を殺したいぐらいに憎んでいたセレーヌとは違う。彼は純粋に父親を敬慕していたはずだ。でなければ、父親の死の経緯を詳らかにする低い声が、聴く者の心の最も脆い部分を掻き毟られる悲哀を帯びているはずはないのだ。

「父さんの診察を断った医者と街ですれ違った時は、そいつを拷問して殺したくなった。あのガキの母親みたいに普段は俺たちを嘲っている奴らが、急を要する怪我をこしらえたとかほざいて家に駆けこんで来た時は、追い返してやろうかと何度も思ったよ」

 どんな人間の内側にも必ず巣食っている、生々しく蠢く暗澹が影を落とす横顔は、先ほどのセレーヌのものとまるで同じだった。

「俺が君と結婚してまで君の命を助けたのは、君を哀れに思ったからでも何でもない」

 膿み爛れた傷を持て余していた青年がついに明らかにした真実は、利己的で身勝手で醜悪だった。

「君の命を救うことを、父さんを助けられなかったことへの贖罪にしようとした。ただそれだけだった。君に申し訳ないことをしていると自覚していたけれど、それ以上に俺自身が解放されたかったんだ」

 雨音すらも消え去った世界で、少女の耳に、一度はずたずたに引き裂かれた心に届くのは、己を掻き抱く青年の声と鼓動だけ。

「俺自身が楽になりたかったから。君の意思なんてどうでも良かったし、ましてや幸せにしようなんて欠片も思ってなかった。分かりやすく例えれば、道端に転がってる死にかけた猫を、そのまま見捨てるのも気分が悪いから家に連れて帰ったみたいなものだ。そうすればあとでそいつが死んでも、俺はできる限りのことをやったって自分に言い訳できるだろう?」

 そうしようとすれば、いくらでも美化し飾り立てられるのに、フィネはセレーヌに偽りのない本心を曝け出してくれた。真実を知ったセレーヌに憤られ、拒否されるかもしれないのに、正直に。

 怒ってもいいはずだった。わたしを何だと思っている、と殴りかかっても赦されるだろう。しかし、不思議とそのような行動に出る気は湧き起こらなかった。ただ、自らの醜さを自嘲する青年のそれとは似て異なる、乾いた笑みが零れるだけで。

 セレーヌは何よりもまず自分自身を守るために、記憶を偽ってまで母に縋り続けた。フィネは、自身の罪悪感から逃れるためにセレーヌを利用した。自分たちにどんな違いがあるのだろう。固い決意のもとフィネが明るみに出した感情は、セレーヌのものでもある。

「そう、なのか」

 ならば静かに彼を肯定する以外、どんなことができるのだろうか。

「ああ」

 青年は枯れ果てたはずなのに再び滲み出てきた少女の涙を拭い、噛みしめていた口元を緩ませる。

「君と暮らし出したばかりの頃はまだ、俺にとっては君よりも父さんの方が大事だった。だけど――」

 久しぶりに目の当たりにした夫の笑顔は、荒れ果てた心に染み渡った。乾いた大地に恵みと生命の芽生えを齎す滋雨のように。はたまた無残にひび割れ直視に耐えない潰瘍に埋め尽くされた皮膚を癒す良薬のごとく。

「君の存在が父さんの名残をかき消すたびに、父さんは過去の人になった」

 小さな顎を掬い、己に向かい合わせる青年は、聖者の足元に縋りつく罪人の顔のようでもあった。彼も、不安なのだ。

「こんなに弱くて不甲斐ない俺のことを赦し、受け入れてくれるのなら、これからも共に生きていてほしいんだ」

 全ての虚勢を取り払った、最も弱く醜く傷つきやすい己の側面が拒絶されてしまったら、と。だがそれでも、フィネは勇気を出して己を曝け出してくれた。だったら、その想いと勇気に応えなくてはならないだろう。

「君は俺のかけがえのない人だから」 

 舌の上に載せていた答えは、欲していた言葉が耳元で紡がれると同時に、嗚咽に押し流されてしまった。だから少女は堰切って溢れだした涙が流れるに任せ、ただ首を上下に振り続ける。

 ――信じてみようと思った。

 誰よりも愛し求めた実母には疎まれ、第二の母と慕っていた人からも虚構の愛情しか与えられなかった自分でも、受け入れてくれた青年を。共に支え合って生きていこうと微笑んでくれた彼の誠意を。

 乾いた血がこびり付いた己の手を包む、骨ばった指をそっと握る。雲の切れ間から覗く一筋の真っ直ぐな光を背にした彼の笑顔は、春の午後の陽光のごとく優しかった。

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