ただそばにいるということ Ⅰ

 深緑の葉を伝う雫が、華奢な手首に刻まれた亀裂に滴り落ちる。絹のごとく繊細で、陶器のごとく滑らかな肌に奔る裂目は、未だ生々しい雫を垂らしていた。一切の光射さぬ洞さながらに瞠られた翠の双眸からは流れ落ちぬ、紅の涙を。

「どうしてこんな馬鹿をやったんだ」

 青年は負傷した手に自らの上衣の切れ端を巻き、小さな口元から漏れた呻きを聞きつけ眉を顰める。薔薇の蕾の唇は蒼ざめ紫に変じていた。普段は健康的な薄紅に染まった頬も、すっかり生気を失ってしまっている。けれども路傍に放られた人形のごとく大樹の下で手足を投げ出す少女にとっては、自身を含めて世界そのものが耐えがたかったのだから、どうでもよかった。

 確かに手首はじくじくと痛むし、寒い。ついでに怒ったフィネは怖い。だがそれしきの不調や恐怖がどうしたのだというのだろう。母はセレーヌを身籠った時、セレーヌよりももっと痛くて怖い、それこそ死ぬような思いをしたのだ。まだたったの十三歳だったのに。

 お伽噺で悪逆の限りを尽くす人喰い竜よりももっとおぞましい化物に踏み潰されて、母の――否、マリエットという少女の心は砕けてしまった。それまでは戒律は厳しくとも清貧な修道院で、姉妹たちと共に聖歌を唄い、薬草を摘んでは微笑み合っていただろう娘は、セレーヌが彼女の胎内に誕生すると同時に亡くなっていたのだ。

 セレーヌが母として愛し慕っていたのは、醜悪なる獣に食い荒らされた亡骸の残骸に過ぎない。けれども母は、少しでも楽になりたかったのだろう。自身の身に降りかかった悲劇を嫌でも意識させる王都から離れれば、一度は息絶えた心にも血が通うかもしれないと考えたのかもしれない。あるいは、生きながら墓に入るつもりで、新たな生活を始める決意をしたのかもしれない。

 欠片も望んでいなかったのに身籠った子は世話役に任せ、ただ神と向かい合う静かなる余生。それだけが母の望みだったのだろう。だが、そのたった一つの、細やかな希望すらも、セレーヌが破壊してしまった。

 今ならば分かる。母にとってのセレーヌは、父だという男と同じ悪魔だったのだ。自分にまとわりつく化物から逃れんとして預言者の像に縋れば、悪夢の原因に付け回され泣き喚かれ、周囲の修道女からは陰口を叩かれる。そんな日々の中で、母の心は再び死んでしまったに違いない。

 一度目は残忍なる牙で凄惨に切り裂かれ、二度目は真綿で首を絞められるように陰湿に。彼女自身は罪など一つも犯していないのに、マリエットという女の心は二度に渡って辱められ踏みにじられた。屍が腐敗し蛆に集られ終いには骨となり塵芥となるがごとく、まだしも保たれていたマリエットという人格は、崩壊に向かっていったに違いない。振り返れば、思い当たる節は幾らでもある。

 苦しみ多い生に懊悩する女は、小さな悪魔の幻覚・・が酷くなるごとに、唯一の安らぎであり救いに傾倒していったのだ。

 吐いた途端に息が凍る真冬であっても、穢れなど一点も見当たらない肌を冷水で雪いでいた母の頼りない姿が眼裏に蘇る。か細い手はいつも、セレーヌが触れた箇所を擦っていた。肌理細やかな皮膚が腫れあがり、血が滲むまで。そして彼女は度重なる禊のために肺の病を得、ついに肉体の死を迎えた。他ならぬセレーヌが、母を死に追いやったのだ。

 この世で最も愛する女を殺した左手の下には、幾重にも布が巻かれている。さも大切なものであるかのように。罪人の血潮がこびり付いた剣ではなく、己が歯で衣服を裂いた青年は、傷ついた雛を見守る親鳥のように佇んでいた。

 修道院の敷地を抜けるまでの道中で横殴りの雨に打たれた小さな身体が、これ以上ぬくもりを失わないように。生い茂る葉の隙間から容赦なく滴る雨から震える肩を守るがごとく、白金の頭部を漆黒の外套でそっと覆う。自分だって、全身しとどに濡れてしまっているのに。

 しかし感謝の言葉を述べて然るべき夫の行動にも、セレーヌはもはや申し訳なさしか覚えなかった。だって、自分には彼に優しくされる価値などないのだから。

 同じ伴侶ではない男女の間に生まれた子であっても、マリエットは汚くない。けれど、セレーヌは出生からして穢れている。イディーズが嗤いながら指摘したように、自分が生まれたことは間違いだったのだ。

 自分さえいなければ、母はきっと今頃も生きていたはずだ。傷ついた心を抱えながらも、誰かと穏やかに笑いあえていたかもしれない。その可能性に思い至ると、母に謝りたくて仕方がなかった。生まれてきてしまって済まなかった、と。だけど母亡き今となっては、その願いすらも叶わないのだ。

 少女は尖った爪が傷んだ肉を苛むことも構わずに拳を握りしめる。徹底的に痛めつけられた心は、赤らんだ目に映る鉛色の空よりも曇っているのに、やはり悲嘆は零れなかった。

「……なら、良かった」

 深い悲哀を帯びた呟きのほとんどは、激しさを増した雨音に掻き消されたため、震える少女の耳にしか届かなかった。掌を中心として全身に広がる激痛は凄まじい。けれども、小さな胸が訴える嘆きに比すれば、無いも同然であった。

 砕け散った希望の鋭利な欠片に抉られた心が。かつて封印していた記憶が。記憶の奥底に眠っていた遠い昔の自分が悲鳴を上げる。

 幼き日の、まだマリエットが生きていてくれた頃は、彼女こそがセレーヌの世界の中心だった。そんな幸せは滅多に訪れなかったけれど、母が形の良い薄紅の唇をほころばせれば、セレーヌの心は温かな燈火で照らされた。

 これも数え上げても片手で足りるほどしかなかったけれど、ぼんやりと佇む母に声をかけても、無視されずにきちんと応えが返って来た時は舞い上がらんばかりに嬉しかった。清流か水晶を彷彿とさせる清らかな声で名を紡がれると、どうしようもなく胸が躍ったものだ。

 数少ない優しい思い出が照らす暗闇に潜む記憶は、もちろん明るいものばかりではない。幼少期のセレーヌは、聖典の黙読や礼拝ではなく、何故自分が母に愛されないかと悩み抜いていたのだ。

 気づかぬ間に母の気分を害する何事かをしでかしたのかと怯え、しかしその心当たりがないことに苛立ちながら、セレーヌは母の死後も儚い幻想に縋って生きてきた。母が自分を迎えに来てくれる日を待ち望み、その夢が破れても、なおも幾ばくかの愛情を信じていた。自分とマリエットはこの世でたった一人の肉親なのだから、と。 

 セレーヌは、どんなに努力しても変えられない、出生の経緯や外見のために母に疎まれた。真実を突き付けられた当初は、あまりの衝撃のために湧き起こらなかった怒りと憎しみが、濡れそぼった細い身体を燃え上がらせる。

 マリエットが望まずに宿した子を産んだ理由が、己を貶めた男の血を引く我が子を苦しめるためならばまだ良かった。けれども母は、神への己の忠実の証とするためにセレーヌを産んだ。つまり、マリエットの人生には始めから娘など存在していなかった。セレーヌは幻想を糧として四年の歳月を生きたほど彼女を求めていたのに。

 もはや亡い母に対して、どうして自分を産んだのかと罵るなどできやしない。ましてやかつて与えられた痛みを、秘め隠していた想いをぶつけるなど……。

 絶望に沈む少女は、いつか見たマリエットの柩が収められる直前の墓穴にそっくりな虚ろな瞳で、己の前に立つ男をねめつける。

「セレーヌ?」

 鋭い剣士に裂かれた袖から伸びる手の近くには、数多の血を吸った剣がぶら下がっていた。

 セレーヌはこの剣の紅い露となって散る運命を強いられたために修道院から牢獄に送られ、その場でフィネと出会い命を救われた。だが、それは間違いだったのだ。

 生まれたこと自体が間違いだったセレーヌなんて、あの牢の中で死んでしまえば良かったのだ。さすれば、たとえ理不尽な運命への怒りと怨嗟に塗れていたとしても、最期だけは安らかに母の許に旅立てたのに。理想の母の姿を重ね合わせて慕っていた前院長の愛情が、金銭の介在なしには成り立たない偽りであったという事実も知らずに済んだのに。

 父母の愛にも、また友人にも恵まれた他者への妬みが入り混じった八つ当たりだと理解している。なのに、ひび割れ鮮血が噴き出した魂の奥底から沸き起こる焔の勢いは抑えられなかった。

 密かに凛々しくて端整で好ましいと思っていた顔も、ほれぼれするぐらいに高い背丈も、今では直視に耐えない。己が血を吐く想いで求めた全てを生まれながらに手にし、無条件に与えられた人間とこれ以上向かい合っていたら、詰め込まれた惨めさのために心臓が張り裂けてしまう。

 目蓋を降ろせば、雨音は遠くで奏でられる楽の音のように聞こえる。その嗚咽にも似た音が、過去の深淵から響く己の泣き声であるかどうかも、セレーヌには分からなかった。

「君、また血が出て……」

 いつの間にそうしていたのだろう。より一層深く爪を喰い込ませたために新たに噴き出した紅蓮が、かつて青年の襯衣シャツの一部だった布きれの封を押し切って溢れ出た。

 触れれば折れそうに華奢な、うなだれた植物の茎に似た手首を伝って、鮮血が大地に滴る。その勢いは、幾つもの首を斬ってきた青年の顔を蒼ざめさせた。

「――そんなことはもうどうだっていい」

 怒りの矛先を向けるべき相手を取り違えていると自覚してはいるが、煮えたぎった腹の底からせり上がった熱の勢いを抑えられない。

「……おまえ、どうしてわたしをたすけたんだ?」 

 目の前の青年の妻となって以来、常に心の片隅にあった疑問は、血と苦痛が滲む絶叫となった。

「君、突然、何を言って……」

 思いがけぬ問いをぶつけられた青年は、訝しげに目を細め少女の痛んだ腕を掴む。もう一度流血を抑える処置を施すために。だが少女は夫の配慮を跳ね除け、代わりに嘘偽りのない心情を迸らせた。

「わたしは、おかあさんがわたしを嫌った原因を知るぐらいなら、お前と出会ったあの時に死んでいた方が良かったと言ったんだ!」

 雨音を掻き消さんばかりの叫びは、虫食いに蝕まれた木の葉を騒めかせる。

 肩で息をしながらも固く手を握り続けるセレーヌの頬に衝撃が叩き付けられたのは、ゆうに一刻は続くだろうと思われていた雨脚が急に弱まった直後だった。

 少女は零れ落ちんばかりに大きく目を見張り、血塗れの拳を開いて微かな熱を帯びた頬を抑える。柔らかな頬を打擲ちょうちゃくした大きな手は、どんなに重々しい文句でセレーヌを脅しても、決して暴力を振るおうとはしなかった青年のものだった。

「セレーヌ」

 十六歳から父の跡を継いで死刑執行人となり、両手足の指の数では足りぬ人間を屠ってきた夫の剣幕は、幼い少女の語彙ではとても言い表せない。

「人を殺すことも、殺されることも、大変な覚悟がいる。だから――」

 青年はなおも静かに、けれども違えようのない激怒を、激怒をも呑みこむ憂いを湛えた瞳で、乳白色の小さな顔をひたと見つめる。 

「死にたいなんて、二度と口にするな」

 そして自身の頬や服を汚す血飛沫やあえかな抵抗すらものともせず、戸惑い震える妻を逞しい腕の中に閉じ込めた。

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