挿話 過去 Ⅰ
「起きて! もうすぐ一時課が始まるよ!」
朗らかで明るい声に導かれるまま目蓋をこじ開ける。すると、青林檎色の瞳がこちらを見下ろしていた。オーリアだ。
「……おはよう。いい朝ね」
オーリアは、目覚めたばかりのわたしと違い、既にきちんと修道服を纏っていた。採光窓から入る一筋の白金色は、細かな埃を煌めかせる。
物心ついた頃から一日も欠かさず目にしてきた伸びやかな身体の輪郭は、明るい光に縁どられていた。可愛らしい雀斑が浮いた丸い顔に収められた、大きめの口はつんと尖っている。オーリアの機嫌があまり宜しくない証拠だ。
「ほら、早く着替えて! 一時課に遅れたら朝食抜きになるかもしれないんだから!」
案の定、痺れを切らしたオーリアは、わたしの寝間着の釦をいささか乱暴に外し、下着だけの姿になった身体に修道服を投げつけた。
麗らかな春から輝かしい夏へと変じつつある今日このごろ。小さな窓の外には爽やかな朝焼けが広がっているけれど、薄暗い室内は未だ肌寒い。
「手伝ってもらわなくても一人でできるのに」
わたしは大急ぎで黒い衣服に袖を通しながら、荒っぽい友人におざなりな抗議をしたが、
「マリィの支度が終わるのを待ってたら、ほんとに遅刻しちゃうもの」
オーリアはまともに取り合ってくれなかった。十三年前の同じ日に、修道院の同じ門の前で発見され、修道女見習いとして育ったわたしたち。毎日同じ食事を食べて、同じ部屋で眠るわたしたちの気質や体型が、こうも違うのはなぜだろう。
「用意できた? じゃ、行こう!」
オーリアはすこしそそっかしすぎる。だけれ、ころころと変わる表情ゆえに、わたしたちの育ての親たるお姉さま方にとても可愛がられていた。静謐と平等を旨とする修道院とはいえ、そのような性質の隔たりは折々の機会で小さな差異となって表れるものなのだ。
オーリアは朝食を抜かれるなんて言ったけれど、本当はそんなことはないだろう。
オーリアが何らかの失敗をしてしまっても、それが些細なものだったら、お姉さまたちは笑って許してくださる。みんなオーリアの明るい笑顔が好きだから、彼女にはできるだけ笑っていてほしいのだ。だから、今までもだいたいはわたしの寝坊のせいで朝の祈りに遅れたことはあるけれど、罰を受けたことは一度もなかった。
蒼白い肌に覆われた貧相な身体のわたしと、日に焼けた肌と伸びやかな四肢が健康的なオーリアは似ても似つかない存在だった。でも、だからこそわたしとオーリアは、時に些細な事から喧嘩をしたけれど、なんだかんだで仲良くやってこれたのだろう。話し下手で口数が少ないわたしは、次から次にぽんぽんと言葉を紡ぐオーリアの隣にいるのが性に合っている。
「あともう少しなんだから、急がないと!」
「ま、待って」
小走りで静寂を重んじる修道院の廊下を走るなんて、とんでもなくはしたないことかもしれない。けれど遅刻しそうな時は、わたしたちはいつもそうしていた。
礼拝堂を目指すオーリアの後ろ姿を、息を整えるついでに眺める。みだりに髪や肌を露わにすることが禁じられる院内では、恐らくわたししか知らないだろう癖が強い薄茶色の髪。毎朝纏めるのに骨が折れるのだとオーリアが嘆いていた毛髪は、今は頭巾の下に隠れて引き締まった背の上で踊っているのだろう。
口に出して伝えたことは一度もないけれど、わたしはオーリアの髪の手触りが好きだった。
どんな道を辿ってかわたしたちの家に迷い込み住み着いて、高い声でおこぼれを催促する愛らしい生物。三角形の耳持つ猫たちの毛に似た髪は確かに絡まりやすいけれど、細く柔らかだった。
どんなに手を尽しても飛び跳ねる髪を宥められない時、オーリアはいつもわたしに泣きつく。そしてわたしは櫛を片手に薄茶の猫毛の説得にかかり、大好きな感触を楽しむ機会を得るのだ。……これも秘密にしていることだけれど、わたしは密かにオーリアの寝癖が酷くなる日を心待ちにしてもいた。
縺れそうになる脚を叱咤激励し、午前六時から始まる一時課を済ませた後。
わたしは聖典を朗読する静かな声が響き渡る食堂の間で、オーリアと向かい合って朝食の席に着いた。食卓に並ぶ食物はいずれも薄味の質素なもので、俗世の贅沢に慣れたものならば味が薄いと眉を顰めるかもしれない。だけど、噛めば噛むほどに食材本来の味と滋味が伝わってきた。
わたしは頭巾からはみ出た薄茶のくせ毛に目を細め、後で直してあげようと思いつつ、穏やかな朝の始まりと静かな日常の幸福を噛みしめる。
「どうしたの? 何にもないのに笑ったりして」
すると僅かに口角が上がってしまったらしく、オーリアは「わたしの顔に何か付いてる?」と口元を拭った。
「さあ? どうしてでしょうね」
「もう! 早く教えてよ」
わたしは何も付いていないオーリアの唇の端を見やりながら、微笑みの理由をそっと明かす。
「なんとなく、とっても幸せだなと思ったから」
「いつもと変わらない朝なのに、変なマリィ」
するとオーリアはきょとんと目を丸くしつつも、やがて楽しげに破顔した。
「……でも、たしかに幸せだね」
そしてオーリアは、わたしだけにしか聞こえないような、密やかな声で答えてくれた。爽やかな朝の光を受けて輝く翠の瞳はきらきらと眩く、わたしはオーリアに釣られてもう一度頬を緩ませる。
わたしたちはあと数年もすれば、重大な決断を迫られる。だけどわたしの心はもう決まっているし、それはオーリアも同じだった。
わたしたちはこれからも一緒にいられるのだから、ずっとこうして――二人で穏やかに笑い合っていられるだろう。
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