挿話 過去 Ⅵ

 夜明けの空の青は朱金の太陽によって駆逐され、地平線は鮮やかな薔薇色に染まりつつあった。侵入者を拒むかのように積み上げられた煉瓦塀の赤みは、橙色の陽光に洗われて一層冴えている。

 誰の手も借りずに馬車から降り、短い旅の目的地を仰ぐ。ここが、わたしの終の住処となる女子修道院なのだ。門の前に捨てられてからの十三年間を過ごした修道院には及ばないけれど、十分に美しい建物だった。

 ここでの生活が好きになれるかどうかは分からないけれど、穏やかなものであればいい。ただ神に祈りを捧げ、犯した罪を悔い改めることさえできれば、わたしはもうそれだけで良かった。

 遠くの山々から吹き付ける寒風が、わたしの頬をそっと撫でる。冬用の修道服の繊維の隙間から侵入する風の厳しさには身の毛がよだったけれど、耐えられた。人肌のように温かいものでなければ、わたしはどんな風にも耐えられる。

 

 あのおぞましい一件の翌日。

「……マリィ」 

 自室の寝台に横たわっていたわたしの眠りを破ったのは、聴きなれているはずなのに耳に馴染まない、オーリアの悲痛な声だった。

 オーリアは喜怒哀楽を生き生きと表現する性質なので、彼女は悲しいことや悔しいこと――他の修道女見習いの子と喧嘩をしたとか、世話をしていた家禽が死んだなどの一大事があると、身も世もなく泣き叫ぶ。

 でもオーリアは思いっきり涙を絞り切れば、また生来の明るい笑顔を浮かべ、これまでの日常に戻るのだ。そんなオーリアの激情を押し殺した声なんて、わたしは今まで一度も耳にしたことはなかったのに。

「オーリア? どう、したの?」

 奇妙な囁きに招かれるように身体を起こすと、念入りに雪いだ下腹部の奥がずきずきと痛んだ。……悪魔の肉体の一部を強引にねじ込まれてから、常に声高に存在を主張する軋みが和らぐ日はいつ来るのだろう。

 もう出血は止まっているのに、脚の間はいつまでもいつまでも痛い。それはそうだろう。あの悪魔は、あろうことか預言者様の像に備えられていた蝋燭を……。内臓を掻きまわされる痛みに悲鳴を上げても、くしゃくしゃに丸めて押し込まれた下穿きに吸い取られる。

 最初に脚の間から流れた血も啜ったそれを引き抜かれ、ようやく楽に息ができると口を大きく開くと、今度は汚らしい肉で塞がれた。そして嘔吐するまで喉を抉られて……。あの悪魔は、嘔吐して咳き込んでいるわたしに、嗤いながら覆いかぶさってきた。だから、いつまでも痛くて気持ち悪いのだ。

 どうにか生き延びて、身を清める際にふと目に入った肌には、いくつもの痣が散っていた。首筋や胸元には紅い鬱血の痕。手首や太腿には、一目でそれと分かる薄紫の手形や指が張り付いていて。きっと首にも、似たような痕があるのだろう。あの悪魔は何度もわたしの首を絞めてきて、そのたびにもう終わりだと怖くなって――でもそれ以上に、やっと楽になれるのだと期待した。その期待は結局、何度も裏切られたのだけれど。

 おぞましい痕跡が消えてなくなる頃には、何もかもなかったことにできるだろうか。顔や身体にかかった白濁した液体の生臭さを忘れられるだろうか。

 ぽつぽつりと浮かんでは泡沫のように消える願いは、オーリアにだけは絶対に知られたくなかった。

『ごめんなさいね。でも、私たちの生活があの方たちの援助によって成り立っているのも事実だから、どうしても逆らえなかったの』

 特別に手配していただいた馬車に乗って修道院に帰る途中。目の端に涙を滲ませた院長さまは、わたしの愚かさが招いたことのあらましを教えてくれた。

 わたしは死ななかっただけ――院長さまたちの取り成しによって救われただけ、運が良いのだと。わたしがあの日、オーリアと共に小さな罪を犯しさえしなければ。あるいは、菓子屋の主人の忠告を聞き入れていれば、あんなことは起きなかった……。

 このことをオーリアが知ったら、この子はどんなに悲しむだろう。きっと、ひどく自分を責めるはずだ。だからわたしはあの出来事を、優しい友人だけには秘密にしておきたかった。

「……ごめんね。あたしのせいで、」

 でも、大雑把なようでいて勘がするどいオーリアは、もう幾ばくかの真実を探り当ててしまったらしい。

「あたしがあんなこと言いだしたから、マリィは酷い罰を――司祭様から直々に受けたんでしょう?」

「だれに、訊いたの?」

「院長さま。昨日、大聖堂から戻ってきたマリィの様子がおかしかったし、夕食も食べようとしなかったから、気になって。そしたら……」

 小刻みに震える手がわたしの――穢れた体液と太腿に残る血の痕を拭い取った、汚らしい手を握った。昨日までなら安心して受け入れられたはずのぬくもりが気持ち悪い。

 今わたしを腕の中に閉じ込めているのは、あの悪魔ではないのか。耳元に寄せられた口から舌が突き出てわたしの首筋を嬲るのではないか、と錯覚してしまう。 

「……あたしが言いだしたことなのに、マリィだけ罰を受けるなんておかしいよね。だから、あたし、」

 あの緑の瞳に全てを暴かれるまでは大好きだったはずの青林檎色の瞳が怖い。何故なのかは自分でも良く分からないけれど。

 これ以上オーリアの腕の中にいられない。このままではわたしは、オーリアを傷つけるような、酷いことをしてしまう。

「オーリア」

 あやすようにわたしの背を撫でる優しい手を振り払いたくなる衝動を抑え、わたしの肩口に顔を埋めた御友人の名を呼ぶ。少し独りにしてくれ、と切り出すために。

「懲罰房に入ることにしたの。もちろん、院長さまに命じられてのことじゃなくて、あたし自身の意志で」

「そ、う」

 だけど、わたしたちの別れを切り出したのは、わたしではなくオーリアだった。

「どのくらいかは決めてないけど、あたしが罪を償って――マリィと同じくらい苦しんだと思えるようになるまでは、絶対に出てこないから」

「そんなこと、あなたがする必要なんて、」

「あるよ。だから懲罰房に入るの」

「オーリア」

「でも、いつか必ず戻ってくるから、それまでは絶対に元気でいてね。そして、あたしが出てくるのをここで待っていて」

 硬い決意を宿した瞳でわたしを見つめるオーリアに会ったのは、あれが最後だった。 

「……ええ。分かったわ」

 あの時、オーリアと同じように涙を流して頷いたわたしは、どんなことがあっても交わした約束を守るつもりだった。

 だけれど嵐のような出来事から数か月後、吐き気や抑えがたい眠気などの不調が始まった。あれから一向に訪れない月のものは、ある事実をわたしに教えた。常に頭の片隅にちらついていながら、必死に無き者と見做していた、最も認めたくない可能性を。

「あなた、まさか」

 院長さまは不調の原因を処分するようにおっしゃったけれど、それは神と預言者さまに背く大罪だ。わたしは、今度こそ尊い方々を裏切らない。

「ねえ、マリエット。貴女は、本当にこれでいいの?」

「ええ。院長さま」

 これはわたしに与えられた贖いの機会なのだから、頭を垂れて受け入れなけれならないのだ。オーリアとの約束を破ることになってしまったのはとても悲しい。だけど、あの子はわたしがどの道を――産むにしろ、堕ろすにしろ――選んだとしても、絶対に傷つく。一番いいのは、こうしてオーリアがいないうちに、宿った生命諸共わたしが姿を消してしまうことなのだ。

 

 そして迎えた別れの日。数え上げても片手の指で足りるほどのわたしの所持品がなくなった部屋は、がらんとしていて物寂しかった。数か月前はここにオーリアがいて、お姉さま方の瞑想の邪魔にならないようにおしゃべりをしたり、互いの髪を梳り合っていたのに。

「さよなら、オーリア」

 採光窓から射しこむ冬の日差しはどこか凍てついていて、眼裏をつんと突き刺す。わたしは白々とした光に照らされた主の帰還を待つ寝台に背を向け、数多の思い出が詰まった家から出た。誰も見送るものがいない旅立ちはそうして始まったのだった。

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