涙雨 Ⅳ

 床に転がる柘榴の粒に洗い立ての手巾を被せれば、丸い珠はたちまち清潔な繊維に吸い込まれる。

 この手巾は、もう使えないだろう。先ほどまでの手巾を生まれたての無垢なる子羊の若毛にごげとすれば、今イディーズの目の前にある一枚は悪魔の毛束に等しい。

 邪な誘惑に屈し罪を犯すのは、唯一神に唾するに等しい冒涜であり、ゆえに罪人は全て不浄である。数多の囚人と接し、彼らの穢れと怨嗟を浴び続けているのだから、あの青年は死刑囚などよりも余程汚らしい存在なのだ。無断で女子修道院に侵入するのみならず、その咎を院長たるイディーズに詫びもしなかった無礼がその証左である。

 母親が未だ存命であるという死刑執行人が年端もいかない少女を求めたのは、色欲を発散させるために違いない。ならばセレーヌは夜毎、まだ成熟しきっていない身体で夫への奉仕・・に励んでいるのだろう。去り際のいかにも親しげに肌と肌を寄せ合った様子から察すれば、嫌々ながらではなく、自ら進んで。喜んで。――なんて浅ましいことだろうか。

 聖典は次なる神の僕を生み出すには不必要な快楽を禁じているが、悪魔にとっては神が下された則など豪雨に打たれた紙同然の代物なのだ。

 肉体のみならず魂も堕落しきったセレーヌは、イディーズの新雪のごとき身を妬んだ。だから肥溜めよりも唾棄すべき口から発した言葉でもって、せめてこの身を汚そうとしていたに違いない。だからこそ慈悲深く真実を教えてあげたイディーズに対して、あのように無用に喚き散らしていたのだ。とすれば、神に対して企てるに最悪の罪を犯さんとしたのも、流れた血潮でもってイディーズを害そうとしたためかもしれない。

 特別に配合した薬草茶を拒まれたのはともかく、床に叩きつけられたために割れた茶器はそれほど惜しくなかった。元々、セレーヌの――死刑執行人の穢れに侵された品は、あらかた買い替えるつもりだったから。蛆虫よりも汚らしい娘の体液が沁みついた手巾など、放っておけば異端の魔導書のごとく瘴気を呼び寄せかねない。

 己が裡から放たれる聖性をもってすれば、暗晦あんかいたる地の底から立ち上る硫黄の臭気の塊も調伏させられよう。けれども万が一の事態が生じ、あの娘の思惑通り、混迷を続ける地上を照らし導く唯一の光輝たる己が身が喪われてしまったら。楽園で自分の昇天を待つ唯一神と、その傍らにいる預言者や天使たちは嘆き悲しむだろう。

 だから、今はまだ遠い天空から見守ってくれている者たちのためにも、自分だけはただ独り清浄でなければならない。しかしイディーズは近頃とみに貫禄を増しつつある腰を折り、自ら踏み荒らされた秩序と静寂の回復に努めた。

 あらかじめ用意させていた聖水をたっぷりと沁みこませた布ごしならば、なんとかあの娘の穢れが移った品にも触れられる。この手拭きはイディーズが直々に聖別したのだから、悪魔の穢れに対してもある程度の抗力を発揮するはずだ。

 霞みがちな目を凝らし、全ての破片を拾い集めた女は、赤らんだ頬に満足げな笑みを浮かべた。

 以前なら、このような危険な仕事は配下の修道女に申し付けて始末させていた。けれどもほんの数週間前のある出来事を境に、己が暮らす聖域から、できる限り人目を避けなければならなくなってしまった。だからこそ院長たるイディーズが、己が手を酷使して清掃に励んでいるのである。

 これは神から課された新たな研鑽の機会だとして受け入れはしている。だが、嘘偽りのない心情を吐露してしまえば、今回だって他の修道女に任せてしまいたかった。事あるごとにイディーズを嘲る驕傲きょうごうな、既に地獄に堕ちることが決定している輩にこそ、このような細事は相応しいのだから。

 罪が沁み込んだ黒い魂に、これ以上穢れが付着した所で構うまい。しかしイディーズの魂の白さは、たった一つの泥はねですら際立たせてしまうのだ。

 自分は、死刑執行人などに死守すべき純潔を売り払ってまで未練たらしい生にしがみついた、ふしだらな娘とは違う。

「精が出るな」

 それなのに、どうしてイディーズは悪魔と評しても過言ではない――否、悪魔程度ではとても表現できない、異常で残忍な人間と関わりを持ってしまったのだろう。 

「ええ。お陰さまでね」

 柔らかで通りが良いが、女にはありえぬ低音の主に皮肉を返す。

「そうか。それより、スコラティオンの博物誌の二巻と五巻が抜けていたのだが」

 貴方の所為でこうなってしまったのだという、隠された意図は上手く伝わらなかったらしい。件の人物はイディーズの控えめな揶揄など意に介さず、まるでこの院長室が自身の部屋であるかのごとく侵入してきた。その上、書庫から許可なく持ち出した書物をこれ見よがしに広げてくつろぎだしたのだから堪らない。

「あの、貴方が座っているその椅子は、私の椅子なのだけれど」

「このような細事に逐一拘泥するなど、そなたの度量の程度が知れるぞ」

 この修道院長のみに赦されるはずの座所を不当に占拠した人物は、イディーズやその他の修道女と同じ装束を纏っている。けれども、女子修道院の住人となるに絶対に必要な条件を満たしてはいなかった。

 ――三十半ばの子持ちの身で、命惜しさのために女装していたくせに。今も選りにもよって修道女の服を着ているのに、よくそんなこと言えるわね。

 引き攣る蟀谷を指で揉み、諦観の溜息を漏らす。すると男の長い睫毛で縁取られた瞳に、不意に真摯な影が射した。

「ところで修道女」

「なあに?」

 不承不承ながら、夢見がちな少女が好むお伽噺の王子のような貌の下に、怖気を震わせる本性を隠した男に応える。この場にいる修道女は自分一人なのだから、無視をするわけにはいかないだろう。

「あの、鳶色の髪の男に抱えられていたのが私の娘なのか?」

 目尻が垂れた翠の双眸に、細く品よく通った鼻梁。その下の厚くも薄くもないが柔らかさを感じさせる唇は薔薇色で、優しげな微笑がよく映えそうだった。

 そして何より、緩やかな弧を描く白金の髪。宮廷の料理人が丹精込めて拵えた砂糖菓子さながらに甘やかで繊細な容姿は、イディーズが良く知る少女を嫌でも彷彿とさせた。

「ええ、そうよ。驚くくらい貴方に似ていたでしょう?」

「顔かたちを確かめるには至らなかったゆえに、そなたの言葉の正否は判ぜられぬ。だが私に似ているのならば、十分に人前に出せる容姿をしているのだろう。ならば問題はない」

 現在の恰好云々を抜かしてもとても一児の父には見えぬ若々しい男は、手慰みに冷え切った薬草茶を啜る。その所作の一つをとっても流麗にして華麗であった。

「……もっとまともな茶はないのか。誰が淹れたのかは知らぬが、これでは雑草の搾り汁にすら劣るぞ」

 だが顰められた柳眉を見やった途端、彼がこの修道院に訪れた日の情景が眼裏にありありと蘇った。血を分けた親子とはいえ、これほどまでに似るものなのか、と我が眼を疑った夕べが。


 聖典に記された金言で、己の心を磨く。この崇高なる日課に予期せぬ妨害が入ったのは、燃える太陽が地平線を朱に染める頃合いだった。

「あの、院長様。院長様にお目通りを希望するお客さまがいらっしゃいまして。その……」

 ただでさえみっともない雀斑だらけの顔面に汗さえ浮かべた女の背後には、夫婦らしき男女の二人連れの姿があった。成る程、彼女が今にも倒れんばかりに蒼い顔をしているのも道理である。

 常々この時間は、どんなことがあっても院長室には立ち寄るなと言い聞かせているのに。客人にどんな事情があるのかは知らないが、追い払うぐらいできなかったのだろうか。それともやはりテレーズもイディーズの並外れた力量を妬むがゆえに、このような嫌がらせを企てたのだろうか。

 そちらがその気なら、こちらも黙ってはいられない。己が犯した罪を心から改悛するまで、懲罰房で寝ずの祈祷をさせなくては。

「そう。そういうことなら仕方がないかもしれないけれど、でも、」

「……はい」

 だったら、そんなところでぐずぐずしていないで、さっさと懲罰房に入って謝意を示すのが筋だろうに。やはりこの娘は、粛々と頭を垂れているのは形だけで、内心では院長たるイディーズを侮っているのだ。

 突き付けられた侮辱のあまり言葉を失って立ち尽くす中年の女の前に、口元に苦笑を刷いた男が進み出る。

「まあまあ、彼女をそんなに怒らないであげてください。なんせ、無理を言って上がり込んだのは私たちなのですから」

 女にしては大柄とはいえ、十分に美しく艶やかな妻には似合わぬ平凡な中年の夫は、見た目と反して随分と強かであった。

「私たちは院長殿と積もる話がありますから」

 話を聞いてあげるなどとはそれこそ一言も発してはいないのに、イディーズがいつのまにやら彼らと向かい合っていたのだから。

「……それで、貴方がたは私にどんな用があってここに来たのかしら?」

「長らく預けていた私の物を受け取りに来たついでに、少しの間匿ってもらいたくてな。あれ・・を預ける際には相応以上の謝礼金を積んだのだから、そなたらには私の要求に応える義務があろう」

 若草色の裳裾を履いた人物の、紅で華やかに彩られた口から漏れた声は、たまりにたまった苛立ちを唯一神が坐す天上まで吹き飛ばした。

 呆気に取られているイディーズの眼前で、容姿に相応しからぬ低音を紡いだ女性が、上品に結い上げられた栗色の髪に手を伸ばす。

「こういうことだ、修道女」

 艶やかな栗毛が帽子のように毟り取られてから現れたのは、ありすぎるぐらいに見覚えがある白に近い金髪。そして、女物の衣服を身に着けていてなお、その人物が属する性と階級を明白に表す、洗練されてはいるが傲慢で居丈高な所作であった。

「あ、あ、あ、貴方、まさか」

 ――誰か、助けて。ここに変態がいる。

 喉も裂けんばかりの叫びを危ういところで押し止めたのは、自然が定めた性を偽る衣服に袖を通してもなお恥じらい一つ浮かべぬ男の後ろに控える、もう一人の男であった。

「落ち着いてくださいませ、院長殿。私どもは、貴女様の助力のみを頼みに、命からがらここまで旅してきたのですから」

 数瞬前までは得体のしれないと思っていた男の面には、イディーズには及ばぬものの、神に仕える者特有の謙虚さが滲み出ていて。

 怪しい女装男の話に耳を貸す気になったのは、あくまで恐らくは同胞なのだろう男に免じてだった。しかし、その後語られた話題の深刻さは想像を凌駕し、冗談半分に受け流すことなどできなかった。

「ええ、分かったわ。私は貴方がたに協力します」

 だからこそイディーズは、離宮から逃亡し現在指名手配中である王子を、匿う危険を冒したのである。

 ルベリクは己が身の一時の安全が確保された途端、早速女の衣装を脱ぎ捨て男の服に戻ろうとした。

「いくら世間から隔絶された修道院とはいえ、気を抜いてはなりません、殿下」

 けれども結局は、彼を置いて昨今の世界情勢の情報収集に乗り出した男の忠告を受け入れた。ゆえに彼は現在イディーズの下で、決心が固まるまでは客人の身分に留まることを選んだ見習い修道女として生活しているのである。

 客人用の部屋は、院長室と同じく修道院の別館に備えられている。修道院の立地を詳しく把握してもいなかった男が考えたにしてはよくできた説明ではあるが、イディーズは早くもこの生活に嫌気が差していた。

 自分は、薬草茶の中に特別な睡眠薬を忍ばせてまで、親子の対面を果たしてやろうと配慮してあげた。なのに、ねぎらう言葉一つかけられないのでは。溜息の一つや二つは吐きたくなって当然だろう。

「そういえば、あれの名は何という?」

 頬杖をついて黄ばんだ紙を捲る男は、今日の夕食の献立を尋ねる程度の気安さで我が子の名を問う。

「セレーヌ。聖女様のお名前をお借りしていたのだけど、不出来な子だったわ」

 今の今まで娘の名を尋ねることすらしなかった父親の薄情さには、嘆息せずにいられない。しかし、彼が押し殺された同情に気づくことはなかった。

「“セレーヌ”か。誰が付けたのかは知らぬが、つまらぬ名だな」  

 セレーヌ。ルオーゼ人の女児の名としてはありふれていて平凡な、高名な聖女から採られた名。それは前の院長の早逝した娘の名でもあった。

 セレーヌの名付け親になったのは前院長で、彼女はあの娘をまるで喪った子か、得られなかった孫同然に可愛がっていた。とすれば、その意図は明らかである。

 前院長は、ルベリクのおぞましい性癖を知っていた。だから彼女は、これでセレーヌを父親の魔の手に渡さずに済むだろうと、彼女が亡くなる直前の王家の存亡が危うい情勢を密かに喜んでさえいた。死の床においては、どうかあの子を守ってやってほしい、と次期院長たるイディーズの手を取って涙するぐらいに。だが生憎イディーズには、耄碌した哀れな老女の戯言以上に守るべきものがある。

 このまま現政権に国の運営を任せていては、ルオーゼは古の禁教時代に逆戻りしてしまう。現政権は、イディーズを始めとする徳深い者たちを迫害する気なのだ。各地の修道院の繋がりからある法律の詳細を得た際の、溢れんばかりの怒りは今でも腹の底で渦巻いている。

 教育の普及と世俗化。それに伴う修道院や教会領の土地の国家への返還。

 これら神の僕の生活を脅かす世俗の掟の成立を阻み、神の威光が薄れた世の中を正すために、イディーズは現代に蘇った聖女になる。それこそが列聖されるために神がイディーズに課した定めなのだから。

 赤らみと毛穴が目立つ鼻から荒い息を吐く女とは対照的に、神に仕える女に扮した男は気だるげに黄ばんだ貢を撫でる。細く長いが骨ばった指は、しきりにある一文を撫でていた。千年を越える昔この地で行われていた、血肉を求める神々への人身供犠。中でも、とりわけ凄惨だという太陽神への供儀についての述懐を。

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