涙雨 Ⅲ
「お、お前、いったいなに言ってるんだ……?」
生ぬるい水に全身を浸したかのように全てが曖昧になった世界では、自分の声すらもくぐもって聞こえる。だのに、歪な窓に打ち付ける雨の音だけは奇妙に鮮明なのが不思議だった。
「子供っていうのは、互いに愛し合っているか、愛し合っていなくても、お互いによく話し合って精気を交換しあった男と女の間にしかできないんだぞ……? なのに、わたしが、そんな最低最悪な……」
「それが、できるのよ。あなたにとっては残念なことにね」
暴風に嬲られた木の枝が硝子を叩く音は不愉快で、ふとした不安に駆られずにはいられない。けれども、風などよりももっと不快な音がすぐ近くで轟いているから、あまり気にならなかった。
――もしかしてあなた、
一切の光射さぬ絶望の海に突き落とされ、呆然と荒れ狂う潮に揉まれる少女は、当初は
――だとしたら、全く大した淫蕩さだわ。
だが、ところどころ意味が分からないが、自分を嘲っていることだけははっきりと伝えてくる笑い声の正体に気づいた途端、嘲笑は劫火となって少女の魂を苛み始めた。
「何も分かっていないあなたのために、私が全て教えてあげるわ。あなたがどういう風に生まれたのかを」
尊い何かががらがらと砕け散る衝撃音と、硝子か陶器を爪で引っかいているのかと勘ぐってしまう不快な高音は、イディーズの声はいつまでも止まない。
「まず、私たち女には排泄のためだけでない穴があるでしょう? 体が満ちれば、月に一度経穴が流れて来るあの穴よ。あの穴は、女の身体に備わっている子供を育てるための袋に繋がっているの。ここまでは理解できたかしら?」
荒れ狂う小さな胸から鳴り響く音色は血の流れに乗って頭蓋の中に忍び込み、硬い殻の中に収められた柔らかな桃色の胡桃を掻き乱す。
「だから子供を作るためには、男はその穴に男にしかない部分を差し込んで、あなたにも分かるように言わせてもらえば精気を送り込むのよ。言い換えれば、棒を穴にねじ込みさえすれば、子供はできるの。たとえ、母親となる女が子供を欲しいなんて一欠けらも望んでなくても。愛していない男に、無理強いされてのことだったとしても」
――そう。それこそ、あなたを身籠ったマリエットさんみたいにね。
最後の、ひときわ強烈な嘲りが吐き出されるやいなや、少女は小さく丸い膝から崩れ落ちた。
頭は岩で押しつぶされているような激痛に苛まれている。冷たい汗に濡れた肢体からは、一切の力が失われているから、耳を塞ぐこともできない。不愉快極まりない騒音は、いつまでも鳴りやまず、むしろ平らな胸の奥の臓器が脈打つごとに激しさを増した。
少女が今にも深みに引きずり込まれんとしている溺者さながらに求めたのは、木片ではなく飛び散った陶器の小さな破片であった。鋭利な破片は、繭のごとく絡まり折り重なった少女の世界を切り裂く。
あまりの衝撃に乾き果てた双眸ではなく掌から滴った熱い苦痛は、これは悪夢ではないのだと白金の髪に隠れた耳元で囁いた。
「そ、んな……うそ、だろ?」
あまりにも唐突に。明日の天気やたわいない日常の出来事と同列の話題のように平然と口にされたために信じがたい、けれどもセレーヌのどこかが真実だろうと認めた事実は、紛れもない現実なのだと。
「イディーズ!」
母の愛を渇望する幼子は裂けんばかりに細い喉を震わせるが、
「私が語ったのは紛れもない事実なのに、嘘つき呼ばわりなんて。わざわざ真実を教えてあげた私をどこまで侮辱すればいいのかしら?」
希望の果実の最後の一欠けらは、弛んだ口元を吊り上げた女に踏み潰された。もしくは、破片すら見逃さぬとばかりに蹂躙されたのは、凍てついた闇夜で瞬くただ一つの星だったのかもしれない。太陽は去り月は隠れた夜空は洋墨を流したかのようで。道案内の星がなければもう一歩たりとも進めそうになかった。
谷底に叩き付けられた少女の身に突き刺さった剣には、毒が塗られていた。
「あなたが大好きな前の院長様が、王家に命じられてあなたたち母娘の監視役と世話役を拝命したのは、もう十五年前の冬のことだったわ。前の院長様は、嘆かわしい時代の風潮によって目に見えて減ってきた喜捨金を補うために、王家からの莫大な援助金に――あなたの養育費に頼ったのよ」
そうでなければ、誰がお前のような汚らわしい生まれの、母親にすら疎まれた娘の相手などするものか。
深い皺が刻まれた口元は、永遠に直視などしたくなかった現実を湛え、歪んでいた。
未だ生々しい痕が刻まれた心の、ようやく塞がりつつあった古傷が抉られる。乾いた
「マリエットさんは、あろうことかそれまで暮らしていた修道院の方々に売られて、あなたの父親に差し出された。そして忌まわしい情交を強いられてあなたを身籠ったものの、
母が自分を産み育てたのは神が定めた則に従ったためであり、セレーヌを愛おしんだためでは全くなかった。否、どころかマリエットという女の中には、発生した時からセレーヌのための場所など用意されていなかったのだ。
「だからマリエットさんは、首都の大聖堂付属の修道院からこちらに送られてきたの。それまでは、唯一神の御心に適った素晴らしい行いなのだけれど、」
時に狂信の道に突き進む母の代わりとして、理想の姿を重ね合わせて慕っていた亡き女性が自分を育ててくれたのは、ただ日々の生活資金のためだけ。おぞましい罪と母の苦しみの果てに生まれたセレーヌは、誰にも愛されていなかった。愛されるはずがなかったのだから。
「あの人はあなたが成長するごとに、これが昔々ご自分が犯した罪の償いであることも都合よく忘れて、暇さえあれば唯一神の慈悲に縋るようになったわ」
母にとっての我が子とはせいぜい、神への献身と信仰の証たる操り人形に過ぎない。それも、悪魔を模した、とびきり醜悪な。
傀儡たる身が母を求めて不遜にも神に挑む様は、周囲の目にはとびきり滑稽な喜劇と映っただろう。もしかしたら事情を知る者は皆、それこそ前院長すらも、母の愛を求めて奮闘するセレーヌを影で嗤っていたのかもしれない。
「結局、マリエットさんは父親にそっくりなあなたを受け入れられなかったのよ」
うなだれる少女の父親の姿をその目で確かめたのでもあるまいに、父と娘の容貌の類似を指摘した女は、隠しようのない喜びを湛えた唇から秘められた過去を曝け出す。
「その間あなたの世話を時々申し付けられた私はもちろん、前の院長様にだって結構な迷惑が掛かったのよ。高価な蜜蝋製ではない獣脂製の蝋燭とはいえ決して安価ではなかったのに、マリエットさんは勝手に蝋燭を持ち出しては旧聖堂で祈っていたから、余計な出費が重なって。あの人、商人の娘なのに、そんな簡単なこともわからなかったなんて」
棘を備えた鞭となった空気の振動は、既に砕け散っていた心の破片を砂塵にした。
「ああ、そうだついでに教えてあげるわ。これはマリエットさんの身元調査書に書いてあったことなのだけれど、あなたのお母さんは、都の商人の妻と、トラスティリアの商人の間に生まれた私生児だったの。だから生まれてすぐ捨てられたのよ。あの人は黒髪だったから、誤魔化せなかったのでしょうね」
――母と娘二代に渡って不義の子を身籠るなんて、浅ましいにも程がある。さすが、子が生まれ落ちた後のことも考えずに異国の男に身を任せた、頭が空っぽの女の娘だ。
細かな皺が刻まれた口元を醜悪に歪める女は、どこか下世話な笑みを刻んでいた。
「前院長様はマリエットさんの我儘を黙認していたけれど、内心ではあなたたち母娘のことを疎んじていたに決まっているわ。特にあなたは、汚らわしい行為の結果として生まれた罪深い身でありながら、唯一神の偉大さを知ろうともしない恥知らずな子だったから。あなたみたいな子の相手をしなければいけなかった前の院長さまは、さぞうんざりしていたでしょうね」
母自身にはどうしようもできない生まれを嘲笑う女の鳩尾に拳をめり込ませたいのに、萎えた手足はぴくりとも動かない。耳から注ぎ込まれる自身と母の出生の真実は、一匙口に含めばたちまち死に至る毒薬そのもの。無理やりに押し込まれたために喉に痞えた幻の果実の断片は鉄錆の味がした。
屍同然に四肢を投げ出した少女は毒が流れ込む耳を防ぐ素振りすら示さず、ただ糸が切れた操り人形同然に氷の刃で与えられる痛みを享受するのみ。
陶器によって刻まれた傷の疼きですら足元に及ばない苦痛は、それでも少女に涙を流させるには至らなかった。セレーヌには涙を流す権利などありはしない。嘆くことが赦されるのは、数年前に痛みに溢れた世界から解放され、今は唯一神の楽園にいるはずのマリエットただ一人なのだから。
もしも目の前に冷たい海原が広がっていたのなら、セレーヌは躊躇いなくその澄んだ青に身を投じていただろう。母の苦痛を糧として生まれるのみならず、誕生後も母を苦しめ続け、ついには狂気の淵に追いやった自分を罰するために。
血と薬草茶が入り混じって形成された浅い海で溺死するなど到底できない。故に現実には、セレーヌはただ仄紅い水溜りに長い髪の先を浸すことしかできなかった。
義母から柔らかく美しいと称賛され、自分自身密かに誇りに思っていた白金の髪。これが父親から譲られたものであるのなら。母を苦しめ続けたというのなら、己の毛髪などもはや屑糸以下である。
母の薄青とは似ても似つかぬ緑の虹彩も。親子であるのに欠片ほども母には似なかった顔立ちも。母を傷つけた容姿を形成する全てを、どこか遠くに放り投げてしまいたかった。その源になった血潮ごと。
この身に潜む血脈が母を死に至らしめたのなら、全て流れ去ってしまえばいい。
「な、何をするつもりなの!? 馬鹿なことはやめなさい! ここは自死を禁じる神の家なのよ!」
イディーズの金切り声など、これ以上耳を傾ける価値も、必要もなかった。セレーヌが生きている意味も。
か細い指から滴った紅いぬめりなど構わずに、幼い掌を抉ったものよりもさらに鋭い破片を拾い握り締める。華奢な手首を横に引っ掻くと血が滲んだが、これしきでは足りなかった。もっと、もっと。魂から溢れる幻の血潮のごとく吹き出なくては、絶命には至らない。
無数の猫の爪の跡が奔る部位の、うっすらと透ける蒼い管目がけてありったけの覚悟を振り下ろさんとしたまさにその瞬間。
「セレーヌ!」
耳慣れてはいるが初めて聴く荒々しさを備えた靴音と、群れから
「……フィネ?」
久方ぶりにまともに目にした夫の顔には、違えようのない憂慮と焦燥が刻まれていて。鳶色の毛髪や漆黒の外套はぐっしょりと重たげに濡れ、あちこちに跳ねたおびただしい泥が付着していた。ことに足首から脛にかけてはすっかり黒土の色に染まっていて、上質な牛革の黒靴も同様の酷い有様だった。
「おまえ、どうして、ここに?」
清らかな雨ですら洗い流しきれぬ死の影を纏った青年は、ただの一瞥のみで危惧していた可能性が既に現実のものとなってしまったのだと察したのだろう。
「……だから俺はやめろと言ったんだ」
痛ましげに細められた濃紺の双眸は小さな手が握るものを目敏く発見し、半ばもぎ取るようにかつては陶器の器だった危険をセレーヌから遠ざけた。
「こんなところにこれ以上いる必要はない。さっさと帰るぞ」
そして萎えた四肢を持て余す少女を逞しい腕の中に収め、院長室を後にする。破片を投げ捨てた先にいる女の、祝福されざる侵入に対する驚愕や非難など気にも留めずに。
彼の若々しい胸板や腕の筋肉には、水分を吸った布地が第二の皮膚同然に張り付いていた。
伝わる体温ですら温もらせられない虚無を抱えた少女は、衰弱した猫の仔さながらに青年の成すがまま。だんだんと遠のいてゆくかつての希望の在り処を目の端に映す。萎れた緑は、院長室の右隣の書庫から抜け出した、女にしては大柄な黒い影を確かに捉えたのだが、やがてすぐに見失ってしまった。
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