涙雨 Ⅱ
小柄な少女にも勝る全長の剣は、切先を備えていない。なぜならこの剣が振るわれるのは戦地ではなく、街外れや広場に設けられた断罪の場であるから。
常ならば黙して避けようとする処刑場。そこで行われる
お前はこの街の死刑執行だろうと。死刑執行人なら死刑執行人らしく、その手に握った剣に刻まれた銘文を果たせと。さもなくば、俺たちがお前を犠牲の羊として血祭り上げてやろうと。もしくは、お前は職務も果たせぬ腰抜けなのかと。
いささか下卑てもいる罵声を浴びせかけられる青年は、しかし頑なに黙したまま。
研ぎ澄まされた刃を這う長い指は、鐔元のほど近くに刻まれた誓いをそっとなぞった。確かめるように。もしくは嘲弄するかのごとく。
――我は科人に永久なる安息を与えん。
たとえフィネがざんばらに切り落とされた後ろ髪から覗く逞しい首を斬り落としたところで、彼の罪は雪がれはしない。だのに己に、また父や祖父を始めとする父祖の者たちにこの戒めを与えた輩の意図は計りかねた。
死刑執行人の礼装たる漆黒の外套には赤褐色の毛髪がかかっている。後ろで一つに括った髪を撫でる風は重く湿っていて、嵐の気配を漂わせていた。
断罪者と咎人。二人の青年を囲む市民の頭上に広がるのは、青年の沈痛に伏せられた双眸に宿る真夜中の青とはいささか趣を異にする――いっそ黒に近い青灰色である。
天上の唯一なる神が
鼠の巣穴の前で待ち構える猫のごとく爛々と光る瞳は、運命の刻を一瞬たりとも見逃してはならぬと瞠られていた。数多の目がそれこそ眦が裂けんばかりに瞠られたのは、一際大きな雷鳴が不穏な静寂を切り裂いた直後であった。
斬首の失敗は何も執行者の技量の不足のみで引き起こされる不手際ではない。死に臨む者の状態や覚悟の如何によっても、容易く左右されてしまうのだ。王制廃止を機に落ちぶれ、ついに盗人と成り果てたという中流貴族出の男は、いかに零落しようとも誇りを失ってはいなかった。
しかし、毅然としてフィネの前で頭を垂れた男は、本来ならば臆病な性質なのだろう。風の囁きを剣が唄う鎮魂歌と錯覚してか、僅かな物音を捉えては身を震わせていたのだから、これでは剣筋が狂ってしまう。さすれば、頸椎の間を潜り抜けるはずの刃は頭蓋にめり込んでしまい、断末魔のものではない絶叫と共に、濁った桃色の中身がこぼれ出てしまうとも限らなかった。
だから、待ったのだ。彼の不安と憂慮を引きつける、神の鉄槌が振り下ろされる瞬間を。
一瞬の好機を逃さず振り下ろされた鋼鉄は、垢で汚れた首を両断した。吹き出た血潮は噴水さながらに飛び散り、纏う外套や頬のみならず毛髪にまで飛び散ったが、フィネの髪色ならばさほど目立たないので構わなかった。
先ほどとは打って変わった歓声を。歓声に入り混じる良識ある者たちの嫌悪と忌避を浴びる青年は、自らの血に塗れた男の髪を掴み、最後の仕上げに断末魔の苦悶が刻まれた首を高く掲げる。
右手に熱を失いつつある肉塊を。左手に彼の命を薙ぎ払った剣を持つ青年の頬を洗い流したのは、矢のごとく降り注ぐ豪雨であった。
黒雲が零した涙は、民衆の上気した面にも滴る。熱狂冷めやれば、数瞬前まで自らが陶酔していた催しへの嫌悪の念はむしろ強くなるのだろう。一人、また一人とこの場から立ち去る見物人に紛れて立ち去る青年の後を追う者など誰もいなかった。
この外套を纏っていれば、道行くものは皆悪魔にでも出くわしたかのごとく顔を引きつらせ、万が一にでも身体が触れ合ってはならぬと道を開ける。ゆえにフィネが自宅に辿りついたのは、処刑の終わりから幾ばくも経たぬ頃合いであった。
「ただいま」
帰宅を告げても、母の女にしては野太い声も、少女の細く澄んだ声も響かないことには取り立てて驚きはしなかった。二階の奥で片付けでもしているのならば、フィネの声が届かないのも道理だろう。もしくは買い物の途中で雨に降られて、適当な場所で雨宿りをしているのかもしれない。
一端は眉を軽微に顰めるに留めた青年だが、墓地に立ち込める濃霧のごとく漂う静寂は、彼の脳裏にある一文を甦らせた。
仮定が、ただの根拠のない妄想だったらいい。けれども、どんなに頭を搾っても
――ならば、何としても止めなくてはならない。ただでさえ深く傷ついた幼い心が、残酷なる真相を受け止めかね、張り裂ける前に。フィネはどんな手段を使ってでも、セレーヌを思いとどまらせなければならないのだ。
◆
窓硝子を擦らんばかりに繁茂した樫の葉が、ぽつりぽつりと雨を弾く。透明な雫を跳ね返す葉が奏でる調べは、円舞曲の軽快さと死者を悼む聖歌の哀調を帯びていた。柔らかな大地を穿ち
どこか女の啼泣を連想させる雨音は、長く耳を傾けていたいものではない。
「お久しぶりね、セレーヌ。元気だったかしら? あなたの御主人との仲は上手くいっているの?」
一方、目の前の女の隠すつもりのない蔑みの念に鼓膜をくすぐられると、腹の底から溶岩さながらに粘ついた不快感が沸き起こるのは何故なのだろう。イディーズは、
清貧の志を全うするべく、晴天の日中ならばむやみな使用を戒められる蝋燭も、今日は惜しむことなく灯されている。揺らめく炎に照らされたイディーズの姿は、一月前と全く変わっていなかった。
凡庸ではあるが他者に警戒心を抱かせない穏やかな目鼻立ち。中肉中背の範囲はやや逸脱してはいるが、感じよくふっくらとした輪郭。その中身を知る前ならば、他者に優しい印象を与えるイディーズの外見には、何気ないごく普通の日常の会話が良く似合う。
「で、どうなの?」
イディーズがなぜフィネのことを知りたがるかは分からないが、答えないわけにもいかないだろう。
「……ああ」
逡巡した末、細い喉から絞り出したのは嘘であり、願望であった。密やかな企みが露呈してから、セレーヌは何とはなしに夫たる青年との対話を避けていたから。
「あら、そう。それは良かったわ。あの方、前はわざわざあなたに付き添ってくれていたのに今日はいらっしゃらないでしょう? だから、てっきり何かあったのかと思ってたのだけれど、余計なお世話だったみたいね」
他でもない自分の両親が結ばれるに至った過程を知ろうとしただけで、なぜフィネがなぜあれほど怒ったのかも分からない。だからセレーヌは気まずさも手伝って、幾度か彼の呼びかけを聞こえないふりをしてしまっていた。だのにこのような虚実を吐くのは躊躇われる。だが、イディーズに自分たちの生活や関係を踏み荒らされるのは、絶対に回避したかった。
「こんな天気の中を独りで歩いてきて、身体が冷えたでしょう? この薬草茶を飲んで身体を温めなさい。風邪でもひいたら大変だから」
それにしても今日のイディーズは一体どうしたのだろう。普段の彼女ならば例え来客でも乞われなければ茶も出さない。あるいは茶の一杯を求めただけでも、日々酒食に耽る破戒僧に対するがごとくこちらを蔑んでくるだろうに、彼女自ら客人をもてなそうとするだなんて。もしかして、何か悪い物でも食べたのだろうか。
「どうぞ。淹れたてだから、温まるわよ」
四肢や胴同様にふっくらとした手が、いかにも温かな湯気を立ち昇らせる茶器を運ぶ。
「……悪いけど、いい」
しかし独特の苦みとえぐみと青臭さが互いの威力を数十倍にも高めた、薄い黄緑の液体はセレーヌの舌の相性は最悪だったので、温かな申し出は丁重に辞退した。
イディーズから差し出されたものであっても、他者の好意を無下にするのは心が痛む。しかしたったの一度含んだ覚えのあるこの薬草茶は本当に容赦なく舌を痺れさせるので、何としてでも退けたかった。
「……そういえばあなた、これ苦手だったわね」
イディーズは、彼女自身は好物であるははずの薬草茶はひとまず脇に置き、崩れるばかりの空模様にほうと溜息をついた。
「それにしても、凄い雨ね」
天空から滴る水滴は、恋人の心変わりを嘆く娘の嗚咽の哀愁をかなぐり捨て、代わりに裏切り者への憎悪に燃える女の妄執の激しさを纏っている。
「まあ、でも、あなたが知りたいことを全て話すには時間がかかるから、そのころにはきっと雨も終わっているわ」
中年の女は雨音に負けぬように声を張り上げ、口の端に控えめな微笑を刻んだ。僅かに持ち上げられた頬に広がる細やかな皺は、前院長にもあった、決して短くない時を生き研鑽を積んだ確かな証である。
亡き慕わしい人にも刻まれていた年輪は、少女に今回の来訪の目的を果たす勇気を与えた。
「手紙にも書いたけど、わたしの父親が、その……」
フィネね反対を押し切ってまで訪れたはいいものの、いざとなったらなかなか切り出せなかった自らの出生の経緯。そこからたとえ砂粒よりも小さなものでも、母の愛を探し出せるのなら……。
「ルベリク殿下だというのは本当のことよ」
跪いて指を組みはしないが、祈りにも似た気持ちで紡いだ問いの答えは、拍子抜けするほど呆気ないものだった。
「や、やっぱり、そうなのか」
「まだ信じられないのなら、マリエットさんがパルヴィニーの修道院からこちらに送られてきた時、王家の使いが持ってきた書類でも見せましょうか?」
院長は手持無沙汰な様子でなみなみと茶が注がれた陶磁器を揺らし、たったの一口分だけ冷めた茶を啜った。彼女の線がぼやけた目の向こうにある窓には、ざあざあととめどなく雨が打ち付けている。
「やっぱり、折角淹れてもらったのにそのまま厨房に返すのは何だから、一杯だけでも頂いていかない?」
「いや、いい」
イディーズの二つの提案を――母と共に修道院にやって来たという書類と、薬草茶の誘いの両方を跳ね除けたかったので、押し出した拒絶の語調は妙に荒々しくなってしまった。
「そう。それにしてもあなた、王子様が父親だと分かっても、あまり浮かれないのね」
人肌よりも冷たくなった器を両手で包む女は、鼻を鳴らして不快感を訴える。
「私はてっきり、あなたが真実を知ったら、あなたは自分の血筋を誇るあまり周囲の方々に敬遠されるようになると思っていたのよ。だからあなたのためにも、これまで父親については明らかにしようとしなかったの」
そうして曝け出されたのは、普段通りのイディーズの顔だった。イディーズはいつもこちらがやってくれと頼んでもいない、むしろやられた方が迷惑なことを散々仕出かしておいて、当然のごとく感謝を要求する。
「今更この国で、王家の血なんか引いてても何の足しにもならないだろ。第一、わたしはあまり評判が宜しくないらしい奴の婚外子なんだから、誇りに思うことなんて一つもないな」
この会話が終わるまでセレーヌは、白磁に湛えられた黄緑のごとく凪いだ心を保たなければならないのだが、その志を貫徹できるか早速不安になってきた。
「あら。あなたにしては殊勝な心がけね。汚らわしい生まれだということを念頭に置いて、それでもあなたが生きることを赦してくださった唯一神の慈悲深さに頭を垂れるのは、称賛に値する行為だわ」
「……そうか。それより、わたしが教えてもらいたいのは、」
少女は自らの心の平穏の保持を潔く諦め、一刻も早くこの院長室から立ち去る方法を模索する。早まった挙句、雨に打たれて高熱を出して肺炎になったとしても、これ以上この女と同じ空気を吸っていたくなかった。
「それぐらい分かっているわよ。あなたと違って敬虔な修道女だったマリエットさんが、どうして唯一神が定めて掟に反してまであなたみたいな子を産んだのか。それと、どうして一介の修道女と王子様が子供を作るような仲になったのか、でしょう?」
神に祝福されない間柄の男女の子であるセレーヌの出生は、お世辞にも喜ばしいと讃えられるものではない。けれどもそれはセレーヌの責任ではなく、父母が背負うべき咎であるはずだ。なのに何故、セレーヌはただこの世に生まれてきただけでこんなにも嘲けられなければならないのだろう。
「――おい」
「なあに?」
「……そんなにわたしの生まれが汚れているというのなら、どこがどう汚れているのかはっきり教えてくれないか?」
小さな心臓には到底収まりきれない感情のせめぎ合いは、心の臓から全身に送られる血流の流れに乗って細やかな指先にまで伝わり、穏やかだった生ぬるい海を波立たせる。
怒りを堪えきれなくなった少女は、本来は垂れ下がっている目尻を吊り上げ、机上の聖典に手を置く女をねめつけた。
「ええ、そうね。じゃあまず、子供の作り方の確認から始めましょうか」
「は?」
しかしイディーズは能天気にも、訳が分からない方向に会話を逸らす。
「いくらあなたでも、もう結婚して数か月は経つんだから、子を作るためだけに神に赦された行為の浅ましい快びももう経験しているわよね?」
「……」
「で、世の中には、春を
「どうも何も、そんな屑は死ぬまで牢に入れて隔離していろとしか……」
肥溜めに湧いた蛆虫以下の存在に、これ以外にかけるべき言葉などあるだろうか。それに、こんなことを話している最中なのに、イディーズはどうしてこんなに笑っていられるのだろう。
「あら。あなたでもそんな風に思うのね」
少女が細く形のよい眉を顰めるやいなや明らかにされた真実は、密やかに育まれた甘やかな幻想に振り下ろされる巨人の拳であった。
「だって、あなたはマリエットさんが暴行されて出来た子なのに」
――なのに、選りにもよってあなたがこんなことを言うなんて、おかしいわね。
儚く砕け散った欠片を喜々として踏み潰すのは、無論夢物語を打ち壊した巨人の踵であって。
幻想の飴細工が破壊される音は女の悲鳴に似ていて、磨かれた床に崩れ落ちた少女の心身を苛む。自ら追い求めたはずの受け入れがたい真実は、脆く稚い心を、小さな手から滑り落ちて大小の破片となった茶器同然にした。
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