涙雨 Ⅰ
唐突にもたらされた衝撃的な真実は、指で突いた途端に砕け散ってしまう飴細工の花のようなものだった。その繊細さは人々の目を愉しませはするが、一方でもしも壊れてしまったらと危惧させる。硝子の箱で厳重に保護された花は、食用とするには儚すぎるのだ。けれどもセレーヌは、不用意に求めて泡沫の花を散らしてしまっては恐れながらも、その飴の味――自分には縁がないものだったはずの愛情の欠片の甘さへの好奇心を抑えられなかった。
あの作り物の花弁は、セレーヌが想像しているような素晴らしいものではないかもしれない。もしかすると、色粉の力を借りて艶やかに装っているだけで、実際は焦がしすぎた
一たび噛みしめればねっとりと奥歯に絡みつく焦糖は、セレーヌがあまり好まない数少ない甘味の一つだった。勧められれば他人の気分を害しないためにも口に含みはするが、自分からは決して手を付けない嗜好品。幼子の幻想を糧として、少女の空想の中でのみ咲き誇る花は、眩いばかりの笑顔の下に醜い影を潜ませてもいるのだ。
虫食いや強烈な日差しに蝕まれ欠けた葉や花弁は、どんなに目を背けようとしても視界に入ってしまう。幼き日のセレーヌが自ら小箱の中に封印したものの、長じてから意図せずにその鍵を開いてしまったために、堰切って溢れだした過去の苦痛や悲哀同様に。
「なあ、わたしの父親っていうのは、いったいどんな奴だったんだ? お前、パルヴィニーで暮らしてたんだから、噂ぐらいは聴いたことあるだろ?」
母の愛を求める少女は、膨らむ疑問の答えを夫から聞き出そうと執拗に試みたが、
「君の父親だという人は、あまり表に出てこない――言い換えれば目立たない人だった。だから噂とかそういうのは、あまり……」
青年は適当にはぐらかし、やんわりと追求から逃れるばかり。何も減るものでもないのから、噂ぐらい教えてくれてもいいだろうに、この対応である。
「あの、お義母さん」
「ああ、セレーヌちゃん。ちょうどいいとこに来てくれたね。ちょっとその鍋をかき混ぜてくれないかい? 玉葱が焦げちゃうとこの汁は台無しになっちゃうからさ」
普段はセレーヌの味方をしてくれる義理の母も、何故か今回ばかりは息子と歩を揃えていた。セレーヌが父親の話題を切り出そうとすると、ミリーはたわいない出来事を持ち出し、開きかけていた小さな口を封じるのである。
「少し待っててね。そしたら昼食ができるから」
「あ、はい」
義理の母である女性は、一時の食欲不振から解放されたが、線が細くなってしまった少女の肉付きを以前の状態に戻そうと奮闘してくれていた。義母が作る料理はどれも美味しい。
嬉しげに自分の食事風景を見守る義母を失望させないためにも、滋味深い料理を口に運ぶ。けれども少女が真に欲っする、幻の花を育む水分は、ついぞ手に入らないままだった。
生きとし生ける者全てを育む雫の供給を絶たれた植物は、幾ばくもしないうちに萎れてしまう。
数少ない頼れる相手からの援助を得られなかった少女は、日々大きくなるばかりの
セレーヌは母に愛していると言ってもらうためなら、あるいは母の愛を証明するためなら、どんな屈辱も甘んじて受けられる。大いなる愛に包まれる喜びを想えば、一時イディーズに傅く恥辱など、無いも同然であった。念願叶った暁には、大嫌いな神にだって、心からの感謝の祈りを捧げられるだろう。しかしセレーヌは前回の訪問の際にイディーズの気を損ねてしまっただろうから、ただでは助けなど得られるはずがない。
イディーズは自分の失敗はすぐに忘却するか、他者にその原因や責任を押し付け、自らの過失をなかったことにしてしまう。なのに、他人が同じことを仕出かした際にはいつまでもその経緯を頭の中に刻み、ふとした折にそれこそ奥歯に挟まった糖菓子よりも執念深く責め立てるのだ。
あの女がセレーヌの暴言を覚えていないなど、セレーヌが珈琲を蜂蜜や牛乳の手助けなしに飲み干せるようになるよりもありえない。形だけの謝罪をして機嫌をとるにも、そもそもセレーヌはもうあの修道院の敷地に入れて貰えないかもしれない。だがそれでも、母への想いはどうしても諦めきれなかった。
母の愛を洞窟の奥に隠された財宝とするなら、セレーヌは宝を守る竜にだって躊躇いなく挑むだろう。もういっそ、密かに修道院に忍び込んで、良く研いだ包丁でも突き付けてあの女を脅すしかないのだろうか。いや、それでは勢い余ってイディーズを殺してしまいかねない。さすればセレーヌは、永遠に真実から、母の愛から隔てられてしまう。
苦患を平らな胸に秘めた少女は、太陽の匂いのする布団の上でごろごろと転がった。細い四肢を柔らかに受け止める上掛けは、セレーヌが手ずから干し整えたもの。真白の寝具は、懊悩に支配される脳裏に一片の可能性を過らせた。
思い煩った末に絞り出した結論は、実現しない可能性の方が高い。けれども、やらないよりはましだろう。
少女はがばりと勢いよく起き上がり、日常生活ではあまり使わない品々を仕舞いこんだ棚の深くに腕を伸ばす。ややしてか細い指は、小さな掌にはいささか大きすぎる筆記具を探り当てた。
半ば諦めていた返答がやって来たのは、手紙を出してから僅か五日後の出来事だった。いつかの飛脚組合の男から渡された手紙の宛名は、紛れもなくイディーズを示していて、頬を抓って己が正気を確かめずにはいられなかった。あの女が書面上の謝罪だけで他人を許すなんて。明日は空から槍が降ってくるのではないだろうか。
天上から武器が降ってくる。それ即ち、唯一神が坐す楽園で何らかの大事が――聖典にも綴られている一部の天使たちの反乱が再び巻き起こったということだから、もしかしたら近々世界が滅んでしまうのかもしれない。
恐るべき予感に震える指で挟んだ頬の肉が濃い薔薇色に染まっても、悪夢から覚める気配はない。ならばこれは、れっきとした現実なのだ。
思いがけない朗報に小躍りする少女は、小走りで自室に駆け込んで書状の封を切る。
――あなたが父親について知りたいと思うのは、当然のことだと思うわ。
イディーズにしては当たり障りがない文章で始められた文は、迷える子羊にとっての牧羊犬の一吠え。夜闇を歩む旅人にとっての満月だった。
――こうして手紙をやり取りするだけでは不十分だから、ぜひ遠慮せずにこちらにいらっしゃい。
神経質な印象を与えるがどこか崩れた文字は、訪問の日時を綴って終わっていた。零れ落ちんばかりに見張られた若葉の双眸は朝露に濡れ煌めく。つんと可愛らしく尖った鼻もまた赤らみ、震える喉からせり上がる嗚咽は抑えられなかった。
気たるべき時が来て、イディーズがセレーヌへの母の愛を肯定してくれたら。長年欲しかったものがとうとう手に入る。そうすればセレーヌはこれまでの憎悪から解放され、純粋に母を愛し、その死を悼むことができるのだ。
垂れ下がった眦から溢れた想いには、積年の恨みのみならず、その他様々な暗澹とした感情が溶けている。けれどもその中には確かに、母への愛も含まれていた。今や自らと母を繋ぐ紐帯となった文をひしと掻き抱く少女は、しかし慌てて己が命にも等しい一片を折りたたむ。
どうにか拳に隠しきれるまでにした手紙をどこに隠そうかと逡巡している間に、どこか荒々しい足音はセレーヌの部屋のすぐ前まで迫っていた。
「セレーヌ? 入ってもいいかい?」
控えめに扉を叩く音と同時に姿を現したのはフィネの顔を、直視しきれなかったのは何故なのだろう。
「君、手紙を受け取ったようだけれど、それもしかして俺宛のじゃ……」
誰にも相談せずにイディーズに助力を求めた以上、密かな企みが知られては不味い。少女は慌てて生成りの一葉を握り締めた手を背後に回したが、鋭い双眸は隠しておきたかった秘密の尾すらも見逃してはくれなかった。
「セレーヌ。怒らないから、今隠した物を俺に見せてくれないか?」
元来やや細目の双眸を獲物を狙う狼のごとく細めた青年は、母親ではなく父親に似たという、どこか酷薄な唇の端を吊り上げる。初めて出会った日の、死神めいた彼を彷彿とさせる笑みは、か細い背筋を戦慄かせた。
眇められた濃紺は、人の子の恐れを呼び覚ます真夜中そのものの青。猫の爪よりもか細く痩せ衰えた三日月のみを頂く、獣の遠吠えが木霊する真夜中の森に放り込まれたのかと錯覚する恐怖は、即ち死の恐怖でもある。
「少しだけ。用が済んだらすぐに君に返すと約束するから」
互いの吐息がかかるほど間近で紡がれた囁きは、甘く柔らかく耳に響く。だがそれは真冬に食む氷菓子の甘さだった。焼き菓子や果物の蜜漬けの、心を和らがせる甘味ではない、心胆を寒からしめる……。
「どうしても嫌なのかい? なんだったら、今日の夕飯のおかずを一品君に譲ってもいいんだけど。そういえば、今日は君が好きな馬鈴薯と牛肉のパイ包みを作るって母さんが張り切っていたよ」
魂の奥底から沸き起こる恐れを抑え、自らをついに壁際まで追い詰めた青年の面を仰ぐ。すると潤んだ視界に飛び込んできたのは、これまで浴びせられてきたありとあらゆる冷ややかな感情を含む微笑であった。
自らの縄張りに迷い込んだ仔兎の愚かしさを蔑み侮る狐にも似た。脆弱な獲物を平らげた狐の慢心を哀れむ一方で、その毛皮がいかほどの値で売り飛ばせるか思案する猟師を連想させる残酷には、一抹の疑念が混じっている。
どうしてこの子供は自分に抗おうとするのだろう。悲しげに伏せられた目は、そう雄弁に物語っていた。セレーヌがフィネに力で劣るのは明白な事実なのに、どうして無駄な抵抗を試みるのかと。
「……い、いらない」
それでも縺れる舌を叱咤し拒絶を押し出すと、室内の空気は氷柱になった。急激に真冬に戻ったかのような空気に覚えた違和感は、たちまち右の手首に奔った鈍痛に蹴散らされる。
セレーヌはフィネに腕を掴まれ、背の後ろから引っ張り出された。今の自分の状況に気づいたのは、床に押し倒され両手を頭上で捻り上げられた直後だった。
「君が囚人用の足枷を嵌められた上に、部屋に閉じ込められたいと望むような物好きじゃないのなら、父親について何かを知ろうなんて一切考えないほうがいい」
やめろと叫びたい。脚を振り上げて拘束を解きたいのに、四肢どころか気力すら戦慄くばかりで使い物にならなかった。もっとも、もしも手足が動かせたとしても、圧し掛かる大きな身体や、左手だけでもセレーヌの両の手首の骨を易々と締め上げる力に抗えられなかっただろうけれど。
「お願いだよ、セレーヌ」
項で唇の動きが読み取れるまで近くで紡がれるのは、懇願を装った命令に他ならなかった。
「君はその……多少利かん気が強いけれどいい子だから、俺が言うことを理解してくれると信じているよ」
人を屠るために鍛えられた指が、戦慄く唇の曲線をそっとなぞる。陽光を濾して紡いだ絹糸のごとき髪を撫でた手は少女のか細い腕を伝って這い上がり、そして秘密に辿りついた。
蛇を前にした小動物さながらに身を竦め、骨の軋みに耐える少女が見守る最中、尾を握られた秘密はその巣穴から引きずり出される。
「君は俺が守るべき大切な妻だからね。君にはずっと無垢なままでいてほしいんだ」
一瞥だけでその全容を把握したらしき青年は、なおもその薄い唇の端に穏やかな笑みを浮かべながら、手中に収めた手紙を引き裂いた。
「
硬い掌は絹糸めいた髪とまろい頬をなだめるようにそっと撫でる。青年が部屋から去った後、少女は乾いた悲鳴を奏でて破かれた企みの死骸をかき集めた。揺れる瑞々しい瞳に映る、判読不可能なまでに細やかな断片にされた紙は、どんなに足掻いても元通りにはならない。けれども最も重要な情報――指定された訪問の日時は既にセレーヌの頭の中に移されていた。
それからセレーヌは手紙のことなどなかったかのように、何気ない日常や家事に没頭する振りをしながら、監視の目をやり過ごした。
狂おしいまでに待ち焦がれた約束の日。少女は処刑場へと向かう夫の姿を確認し、厚い雨雲に支配された空の下を歩んだ。彼女が希望の在り処に辿りついたのは、灰色の空が不穏な翳りを増し始めた頃だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます