挿話 過去 Ⅳ

 嵌めこまれた薔薇窓を通過した光が磨き抜かれた白の大理石の床面に、淡い灰青色の側面に散っていた。

 子供のように背が低いわたしでは、首筋が痛むほどに顎を上げて見上げても、色硝子の奇跡の全容を目の当たりにすることはできない。けれども地に映った神の御業の影ならば。足元に視線を落とすだけでも、その細やかさに感嘆できるのだ。

 輝かしい太陽が坐す遙かな天空の青よりもなお濃く、見事な群青。血の色と通じる鮮やかさを備えてはいるけれど、けっしておどろおどろしくはない、清冽な赤。高貴なる紫に春の若葉の翠。透明な板に閉じ込められた色彩はどれも美しくて、時の経過を忘れて見入ってしまった。

 わたしたち大聖堂付属修道院の修道女は時折、大聖堂で催される礼拝に参加することを許される。しかしそれはごく一部の限られた――長く研鑽を積み、唯一神への献身によって心身を磨かれた者ではなければ許されない名誉であるはずだった。……なのにどうして、まだ見習いの面紗ベールを脱いでもいないわたしがここにいるのだろう。

 朝食の席で今回の礼拝に連れていく人員を告げられた修道院長さまは、一番最後に食堂から出るわたしをこっそりと呼び止めた。

『ああ、それと、貴女もね』

『――え?』

 そして院長さまは密やかな声音で光栄だけれどとても畏れ多い決定を語られたのだ。わたしは何度も辞退しようと――その名誉に相応しいお姉さまをわたしの代わりに連れて行ってくれるように懇願したけれど、

『これはもう決まったことなの』

 院長さまは頑なに取り合ってくれなかった。普段は穏やかでお優しいのに、しまいには声を僅かに荒げて一喝までなさって。院長さまの迫力に反論の言葉を封じられてしまったわたしは、訳も分からないうちにここに連れてこられて、そして今に至る。

 せめて、側にオーリアがいてくれたら。どんな時でも物おじせず、生来の明るい好奇心を発揮させる友人がいてくれたら、不可解なこの状況を心の底から楽しめたのかもしれないのに。

 もしもオーリアがいれば、彼女は目を大きく見開き、この聖堂の美を余すことなく脳裏に焼き付けようとするはずだ。そして典礼が終わって修道院に帰ったら、参加できなかったお姉さまたちや他の見習いの子たちと、今日体験した出来事の素晴らしさを分かち合う。おそらくは、聴衆の期待を膨らませるために少しばかり話を膨らませて。

 わたしにはできないこと、難しいことをすらすらとこなすオーリアこそ、このほまれに似つかわしかったのに。

 普段はしゃんと伸ばしている背を心持ち前に傾けられた院長さま。その後ろから見る典礼の煌びやかさは、わたしの貧相な語彙ではとても言い表せそうになかった。

 祭壇を背にして立つ司祭さまの法衣は、採光窓と薔薇窓からの光を受けて、輝かんばかりに白い。だけどその眩さは、わたしの瞳には少しきつすぎた。良く響く声で紡がれるお言葉が、分不相応なわたしがこの場にいることを攻めているように聞こえるのは、気のせいだと分かっている。けれどもわたしはこの典礼の一刻も早い終わりを願い、硬質だがどこか優しい白亜の床に散る色彩にしばしの心の慰めを求めずにいられなかった。 

 だからわたしはいつの間にか煌びやかな時間が終わっていたことにも、ありがたいお言葉に耳を傾けていた人々の姿が周囲からなくなっていたことにも気づかなかったのだろう。

「その娘ですか」

「ええ」

 説教壇と信徒席の隔たりをものともしない朗々とした声が、そう遠くない位置から聞こえてくる。不可解な出来事ばかりの一日の中でもとりわけ理解を超えた事件は、わたしの小さな胸を騒めかせた。

 跳ね上げるように、だがおずおずと視線を上げると、予想した通りの人物の――司祭さまの顔がすぐ側にあった。

「――成る程、あれらの報告通り・・・・・・・・確かに美しい。これならば殿下も気に入るでしょう」  

 秀いた額に年齢相応の皺を刻まれた司祭さまは、何故か悲しげに眉を顰められた。

「ねえ、貴女に尋ねたいことがあるの。だから正直に答えて頂戴」

 院長さままでもが、哀愁に満ちた溜息を漏らす。自分が犯した罪をつまびらかにするのはとても恐ろしい。わたしは祭壇に捧げられる犠牲の子羊になった気分で、院長さまの質問に答えた。

 ……確かにわたしは一週間ほど前、奇妙な男達に出会っていた。菓子屋の主人の忠告を忘れて、修道院への近道だからと足を踏み入れた細く薄暗い道。その行方を阻むように立ち塞がった男達は、わたしの顔や身体をじろじろと見つめてきた。まるで青果市場に並べられる果物の山の中から適当な一つを取って、それが買うに値するかを批評しているみたいにに。

『あの御方、こういうの好きだろ? ――確かに顔はいいけどガキ臭い、貧相な体型なのが』

『ああ。これは、もしかして、かなり、』

 頭上でかわされる不躾な会話は大層不躾なものだったが、わたしはただ黙って彼らのやり取りが終わることを待つことしかできなかった。羞恥心や怒りがこみ上げるよりも先に、成人した男二人に囲まれているという状況が、怖くて仕方なかったのだ。

『少しだけでいいから、ちょっと俺たちに付き合ってくれねえか?』

 強引に掴まれた腕を振り払いたくとも、意気地のない四肢は震えるばかりで、わたしの言うことを聞かない。

 そんなわたしを助けてくれたのは、やっぱりオーリアだった。

『このガキ!』 

 オーリアはわたしの腕を握る男の不意を突いて脛に跟を振り下ろし、わたしを解放してくれた。

『今のうちに! 早く!」

 そしてわたしの名を呼んで自由になった腕を掴み、一目散に人通りが多い表通りまで駆けだし、修道院に辿りつくまで一言も喋らずに脚を動かした。……色々あったけれど、オーリアのおかげで正午には間に合ったから、あの日の一件はばれていないと思っていたのに。

「――貴女も神に全てを捧げる修道女の端くれとして、よく覚えておきなさい。偉大なる創造主たる神は常にこの世の出来事に心を砕かれていて、ゆえにわたしたち迷える子羊が犯した罪の全てもご覧になっているのだと」

 司祭さまはやんわりとした口調ではあるけれど、確かにわたしの出来心と軽率を美男された。

「は、はい。……ですから、どんな罰であっても平伏して受け止め、自らの罪を悔い改める覚悟、です」

 審判の場に引きずり出された卑小な咎人であるわたしは、頭を垂れて裁判官が述べる判決と慈悲に縋ることしかできない。

「確かに貴女は道を踏み外しましたが、それも一時の事です。慈しみ深い主は、どんな罪人にでも救いの手を差し伸べるもの。ですから、」

 涙で滲む視界に上質な黒皮で覆われた爪先が飛び込んできたのは、

「貴女は今から罰を受けますが、そのために命を落とすことはないでしょう。私が直々に、そのように取り計らわれるように頼んでおきました」

 司祭さまが断罪の文句を言い終えた直後だった。

「……っ」

 金糸や銀糸の精緻な刺繍で飾られた、これまた溜息が出そうなほど美しい白絹の袖から伸びるすらりとした腕。上衣の色に合わせた手袋に納まった長い指が、項垂れていたわたしの頤を持ち上げる。

「――大した期待はしていなかったが、中々どうして美しい娘だ。気に入った」

 涙でぼやけた瞳に映るのは、年若く、美しい男だった。白金色の髪に縁どられた造作は、冷ややかな声色とは相反し、甘やかで繊細。そして何より、動作や身に纏うものが洗練されている。

「ことが済んだら褒美を出そう。そなたの望むものを申せ。何なりとくれてやる」

 一目で特権階級に属していると察せられる容姿の男は、優美な唇の端に冷笑を刻んだ。薔薇窓の翠の硝子のような双眸が細められた途端、わたしの背筋は凍り付いた。

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