秘密の器 Ⅳ

 首都と旧都を結ぶ街路の半ばに位置する宿場街には、東西合わせて二つの関所が設けられている。首都に居住する異国人から仕入れた品物を携え、旧都に向かう商人たちが最初に一息つくのは、宿ではなく東の関所であった。

 馬車の振動からくる疲弊と、狭苦しい箱に詰め込まれるがゆえの閉塞感。二つの困苦から解放された喜びは、商人たちに見知った顔と、あるいは意気投合した者と、酒を酌み交わす約束を交わさせる。そして彼らはめいめい近頃の市場の動向についての情報を蒐集し、またその場で商談を成立させるのだろう。

 男達が連れ立って飛び込むのは、酒焼けした野太い笑い声や商売女の嬌声、そして時に罵声が飛び交う酒場か。はたまた名の知られた料理屋であるかは分からない。だが時に行き過ぎる遊蕩こそ宿場町を育む生命の雫であり光であるから、路傍に酔い潰れた紳士が転がっていても、眉を顰めずに苦笑するのがこの街の常であった。

 この街どころかルオーゼ全体の商業を賑わす出会いの場の入り口たる東の関所。その反対には、良く熟れた小麦や上質な葡萄酒、乳製品がうず高く積もれた馬車が数多詰めかけていた。

 ルト以西の肥沃な穀倉地帯で育まれた作物は、都人、あるいは諸外国の富裕層の舌を楽しませるべく西の関所から出荷される。長閑な農村で育まれた滋味豊かな食物は、一部のいささか度が過ぎた華やかさに馴染めぬ都会人たちに郷里への哀愁を抱かせるのだ。

 新旧二つの都の狭間に位置する宿場町を支えるのは、二つの門から齎される通行税。とすれば、素のままの石の塊を美々しく飾り立てるのは、商人や旅人の緩んだ財布から零れ落ちた黄金に他ならない。

 王領地の一つでもあった宿場町には、国主に任命された官吏が市長として派遣される慣例がある。その慣例はルオーゼが国王の代わりとして議会制政治を頂くようになっても変わらなかった。

 金の卵を産む鵞鳥であり、毛並みの良い尾を振って飼い主の愛撫を待つ忠犬である街の主は、保身のためにも愛玩動物の管理に勤しむ。もしも万が一の事態が起こり、愛玩犬・・・が死亡してしまえば。落命するには至らずとも、深手を負ってしまえば。自分や家族がこの世がいつまでいられるか分かったものではないのだから。つまり囲いの入り口とは、税を徴収するのみならず、宝を狙う不届き者の侵入を阻む砦なのである。

 お伽噺の宝の番人同様、関所の傍らには、常に数人の手練れが控えているのが決まりだった。通行人の身分を検め、彼らの長旅の無事を共に祈り、時に入市を認められぬ者を追い払う役目を担う自警団。その隊員は概ね街の裕福な市民の子弟であるが、しかし今日の砦は勝手が違った。

 重厚を通りすぎて威圧的な装飾が施された門の前で佇むは、年頃の娘の気を惹くべく飾り立てられた衣服ではなく、国軍に所属する憲兵のみに許される青の軍服。金属の釦が光る立て襟の上の顔はいずれも険しく強張っていた。荷を確かめるべく商人に投げかける声もまた、研ぎ澄まされた刃物のごとく張りつめている。

 交通路を一つの宿場町のみならず国そのものの血管とすれば、全身に生命を運ぶ血潮たる交通は、円滑であった方が望ましい。しかし、体内にが侵入したのならば話は別である。

 首都からの監視を厭う街の官吏たちが、今回ばかりは蔑んでならない中央の軍人たちと手を取り、口々に不満を垂れる商人の説得に尽力した理由もまさにそれ・・・・・だった。

 憲兵の監視の下で行われる検閲に協力せぬ者は反逆者、もしくは王党派の残党として処刑されると専らの評判である。だから商人たちは、彼らからすれば粗雑極まりない手つきで商品を確かめる軍人への不平不満ではなく、引き攣った愛想笑いを旅の疲れを落としきれぬ面に張り付けるのである。

「では、このままご自宅へとお帰り下さって結構です」

 長蛇の列の先頭の、ルトに居を置き小売業を商う夫婦の馬車に、出発の許可がようやく下りた。

 豊かな栗色の髪の一部を結い上げた夫人は、絹の手袋で覆われた手の片方を夫に支えられながら、微笑みで官吏たちの老を労った。顔面以外の素肌を人目に晒さぬ、いささか慎ましすぎる衣服は高雅な気品を漂わせ、甘やかで繊細な目鼻立ちと優雅な仕草を引き立てている。

 美貌の夫人にも、麗しの細君には不釣り合いなくたびれた風采の中年の男にも、彼らの積荷にも何らの怪しい点はなかった。彼らの馬車には成人男性を隠せる余裕などありはしなかったのだから。

 判を押した通行許可証を夫婦に差し出した官吏がふと頭を上げた時には、一部舗装が行き届いていない街路を走る馬車は、豆粒さながらに小さくなっていた。そして彼が四半刻後に大きく伸びをしながら彼方に目を向けた際には、豆粒から芥子粒になってしまっていた。そしてそれは、馬車の中で退屈を託っている貴人においても同様だったのである。

 がたがたと我が身を苛む振動と騒音は、もはや旅の友となっていた。 

 首元から足首までを覆い隠す深緑の衣服を纏う人物は、細い眉を顰めて薄絹の手袋を脱ぎ捨てる。現れた十本の長い指は、顔の造作に見合う作り物めいた繊細さを備えてはいるが、女のものにしては節が目立ち骨ばった、男のものでしかない指であった。

「お疲れさまでした、殿下」

 殿下と呼ばれた人物は、配偶者を労うにしてはうやうやしく頭を垂れた男をちらと一瞥する。そして、喉仏を圧迫する襟首の布地を緩め、妙齢の夫人らしく揃えていた脚を組んだ。

 本音を言えば、窮屈な女の衣装以上に煩わしく暑苦しい、栗毛の鬘も毟り取ってしまいたかった。しかし憲兵たちが急に気を変えこの馬車を追ってきて、自分たちに更なる追求を加えかねないのだから、いつ何時も人前に出ることができる恰好は維持しておくべきである。

 近年首都の上流婦人の間でもてはやされている様式に倣った不快な化粧も、一刻も早く落としてしまいたい。が、一時の不快と生命は同じ秤には載せられないのだから仕方がなかった。

 ルベリクの毛髪がごく淡く白に近い金色であることは広く人口に膾炙しており、当然追手である国軍の輩も知悉している。そのため、逃亡に際してルベリクはありふれた栗毛の鬘でもって己の目立つ髪色を覆い隠さねばならなかった。

 なぜ王子たる自分がこのようなふざけた格好をしなければならないのか、という不満は日々雪のごとく降り積もる。ついでに、パルヴィニーで仕入れた古着と申告したルベリクの変装道具の中から、嬉々として毎日の衣服を選んで差し出す元聴罪司祭に抱く薄気味悪さは、一抹どころでは済まなかった。

「そうしておられると、どこか殿下の母君であられるソフィアンヌ王太后陛下のご麗姿を思い起こさせますな」

「……そうか」

 天下の恐妻にして悪妻として。また稀代の美少年狂いとして恐れられた母に似ていると囁かれても、喜びなど沸き起こるはずはなく。ふと思い起こしてしまった、いずれも齢十を越えたばかりだっただろう寵童を次々に絞り尽くす実母の姿には、懐かしさや慕わしさなど喜び以上に覚えるはずがなかった。

「ええ。殿下は目元や口元は先代の王たる父君に似ておりますが、母君の面影も偲ばれますな。お美しい御髪の色など、ソフィアンヌ様そのもので……」

 宮廷中に淫欲の怪物として恐れられた母について、目を輝かせて語るこの男は、もしやかつての母の寵童なのだろうか。

 嫉妬深い性質だった母は、寵した少年が他の女に触れることを良しとせず、息子と然程齢が変わらぬ童子に怪しげな催淫薬を盛っていた。母は、そうして少年たちを腹上死に至るまで責め立てるのを至上の愉しみとしていたのである。

 母の寵童の大半は精どころか命そのものを絞り取られ、夜露よりも儚くなったのだとルベリクは聞いている。しかしそれでも母が無理やりに手折った若木の幾人かはどうにか生還できたらしいから、かつての怪物の餌が今に至るまで残っていても不思議はなかった。

「輝く御髪に縁どられた花のかんばせ。真珠の肌で覆われた豊満な肢体。そして、残酷なまでに艶やかな微笑。彼の方こそ、まさしく貴婦人の中の貴婦人として讃えられるべき御方でございました。……目蓋を降ろせば、今でもあの御方の貴い御姿が目に浮かびます」

 ルベリクは他者の過去になど関心はなく、また探るつもりもないから、真実は永久に霧の中である。だがいずれにせよこの男の精神は、成人するまでに何らかの衝撃に直撃され、価値観が狂ってしまったのだとしか考えられなかった。それもルベリクが知識として知る中では最も大きな――ある娘が慄きながら告白した過去に匹敵する衝撃に。

 ルベリクが手を付けた娘たちの中には、既に純潔を失った者も時折いた。その最初の娘の、これから我が身が強いられる行為を予期して震え、哀願する様は酷くいじらしかったから、現在もなお幽かながら記憶している。

 あの少女は非常に愛らしかった。だからルベリクは配下の者や死刑囚に命じて、彼女の刻を長引かせてやろうとしたのだ。もっとも、圧し掛かる巨体の重みゆえにか口を異物に塞がれたためなのかは定かではないが、その少女はあっけなく死んでしまったのだが。

 侍従に清めさせた肌理細やかな肌に刻まれた紅の花弁を唇で辿りながら、熟考した謎は現在でも覚えている。あの時、己が貫いた花を最初に散らしたのは誰なのだろう。

 答えるべき者を喪った問いには、答えなど永遠に返されない。だからこそルベリクは、その徴候・・・・を示す娘に巡り合ったら、そうではない娘の場合よりも趣向を凝らすようになったのかもしれなかった。

 まだ固い蕾を最初に散らしたのが見ず知らずの男ではなく、身内の者であれば。直ちにその男を宮殿に伺候させ、目の前で番わせる。これこそ、どんな演劇や曲芸も及ばぬ、至上の催しであった。その過程で落命した少女もいはしたが、元より生命のぬくもりを備える肉体にはさほどそそられないから構わない。むしろ、息の根を絶つ手間が省けたので、一時はこの趣向に熱中したものである。

 信頼していた父や兄、もしくは伯父や祖父。またあるいは一族の男全てに踏みにじられた痛みを抱えて泣きじゃくる幼女の血を流す心を開くには、料理人に拵えさせた菓子が一つあれば十分だった。零落した貴族や破産寸前の商家の娘であった彼女らは、きっと菓子一つ満足に与えられていなかったのだろう。

 円らな目に縋るような色を浮かべ己を見つめる彼女らは、無残に引き裂かれた襤褸布に代わる一着を差し出すと、愛らしく頬をほころばせた。その無垢な笑みが恐怖と絶望に移り変わる様は、どんな歌劇を鑑賞するよりも胸が躍った。彼女が絹の衣服に袖を通したところで身内の男を呼び寄せ、絞め殺させた瞬間も。しかし、最初は新奇であった余興も、見馴れれば悦びは半減する。

 新たなる娯楽を求めたルベリクに侍従が提言したのは、飽いた寸劇の改良版でしかなかったが、面白くはあった。つまり、困窮際まって娘を売りに来た貧乏貴族の耳に、彼らが王宮に連れてきた娘を犯して殺せと囁いたのである。自らがはした金と引きかえに売り飛ばした娘を貫き、柔らかな首に手を回した際の男に刻まれた苦痛は、甘美なる悦楽を引き立たせる得難い調味料であった。

 とにかく、ルベリクも女を着飾らせた経験はあるのだから、その楽しみの幾ばくかは理解できる。しかし、五つかそこらの少女に着せるのならばともかく、三十を超えた男である自分に喜々として女物を寄こすなど、変質者でしかない。

 人目を避けるべく採光窓を片目で外部を覗ける程度にしか穿たなかった箱の中は薄暗い。そのかつての己の寝室にも通ずる薄闇は、気まぐれに過去の快楽を貪る男の最も鮮烈な記憶を呼び覚ました。

 ルベリクはかつて一度だけ、数週間前に脱出した離宮でもなければ、宮殿内の自室でもない場所で女を抱いた。そしてその娘は、王子たる己が死を望みながらも手に入れられなかった唯一の存在でもあった。

 今まさに己を閉じ込める馬車同様に狭苦しい部屋を照らしていたのは、扉の隙間からの僅かな空気の流れによってすら脅かされる焔のみ。幽き光を浴びる肌の白さは長く癖のない黒髪と魅惑的にして鮮烈な対比をなしていた。

 一面に振り積もった新雪さながらの肌理細やかな皮膚には、死斑の紅紫こそがもっともよく映えただろう。だが、あの肌に世に二つとない、泡沫の印を這わせることは叶わなかった。

 生命までは奪わない。それが彼女を手に入れるために、聖会と交わした約束であった。ゆえに十五年前のルベリクは、せめてと思い醜悪な脂肪の影すらも射さぬ、清らかな胸に唇を落としたのだ。あの娘の亡骸が己が手元に運び込まれるように、彼女が死を望むようにと願いを込めて。彼女が首を括らずにはいられなくなるように、あの華奢な肢体の隅々を穢した。

 あの神に仕える娘は結局、ルベリクの物にはならなかった。けれども彼女はルベリクにある者を齎したはずなのである。慌ただしい報告を受け取りその場で処遇を決定してからは、徐々に関心の対象から逸れ、ついにはすっかり忘れ去っていた贈り物は、確か――

「殿下? 如何なさいましたか?」

 男は用心深く回避していた採光窓から、質の悪い硝子の向こうに目を凝らす。しかし春の緑の瞳が捉えられたのは、男が望んだ領地の風景ではなく、厚い暗雲に覆われた太陽を背に飛び交う雲雀ひばりつがいだけだった。

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