秘密の器 Ⅲ

 ひよこは鶏から生まれ、林檎は林檎の樹に成り、蜂蜜は蜜蜂の巣から採れる。これら世の当然の決まりと同様、全ての人間には母親だけでなく父親がいる。言い換えれば、母親と父親がいなければ、個人は存在しえないのだとは、セレーヌだって知っていた。自分にはこの世かあの世のどこかに父親なる者がいることも。まあ、その存在を意識したのはつい最近――フィネと結婚し、彼を通して彼の父の存在を知ってからだったが。

 セレーヌにとっての父とは、刻を知らせる教会の鐘と大差ないものだった。ベルナリヨン家にも居間に一つ備え付けられている時計さえあれば、いささか煩わしくもある鐘の音など不要である。

 たとえ一度でも前院長か母が父がどんな人間なのかを語ってくれていたら、まだ見ぬ彼に時折思いを馳せもしただろう。しかし、父という存在は真白の襯衣に飛び散った汚れさながらに、セレーヌのこれまでの人生から徹底的に排除されていた。

 だからセレーヌは、自分の父親について何かを考えたことなど一度もなかった。結局のところセレーヌが求める親とはマリエットだけで、母が自分の側にいてくれるのならそれで良かったのだから。

 なのに、どうして。何故今になって、いないも同然であった男が、自分の人生に割り込んでくるのだろう。しかも、その父親がこの国最後の王の弟であり、国王夫婦亡き現在ではただ独りとなった王族だったなんて。とてもではないが信じられない。

 呼吸すら忘れた少女のか細い指から、茶器の把手がごとりと滑り落ちた。半分以上残っていた液体の飛沫は机に叩き付けられた陶器から溢れ、真白の卓布に染みを作る。けれども密やかな吐息すら木々を騒めかせる風の声に聞こえる静寂の中では、洗い立ての白布を浸食する暗褐色などに拘泥する者はいなかった。

「……それは、わたしの父親が、ルベリク・アルヴァスだというのは、」

 一筋の光を静まり返った室内に届けていた太陽は、鈍色の雲の影に隠れた。いささか薄暗くなった室内においてもなお、白金の髪は濾された陽光のごとく輝く。柔らかに艶めく毛髪に縁どられた小さな顔は蒼ざめ、薄紅の薔薇の蕾はたどたどしく震えるばかりで用を成さなかった。

「もちろん真実でございます」

 縺れ強張る舌がついに紡ぎきれなかった問いを察したのか。老人は力強く、けれども流麗に宣言した。

 貴女は間違いなく、最後の国王の実弟が儲けた、ただ一人の子女なのだと。六百年の長きに渡りこの国を支配してきたアルヴァス朝。その開祖たる男の、もはやただ二人だけとなった嫡流の子孫なのだと。自分の言葉が信用できぬのなら、唯一神と我が命に懸けて真実であると誓いましょうと。虚実を紡ぐがゆえのどもりも、一瞬の躊躇も見せずに。ならば、いっそ喜劇じみてすらいるが、これは紛れもない現実であり真実なのだ。

「わたくしはセレーヌ様にこれまで秘め隠されてきた、紙上での説明だけでは納得していただけないだろう事実と、御身に迫る危険をお知らせするために閣下に遣わされたのです。独り子であられるセレーヌ様の存在をルベリクが思い出してしまったら、彼は貴女を何らかの策略の種として利用しようと企むでしょうから」

 セレーヌの父親だという男が、老人が語った通りの男であるのなら。どうして彼の子はセレーヌただ独りなどと断言できるのだろう。

 どんなに目を凝らしても、生命の源たる臓器の上に手を置く動作には、嘘偽りや悪質な騙りの影は見出せない。ゆえに少女はふつふつと沸き起こる疑念を押し殺し、小さく頷いた。

 王制廃止以前は国主を支える大貴族の一員として。国王が倒されてからは新たなる国を導く有力者として、市民を導く立場にいるヴェジー公が、愚にもつかない悪戯など企てるはずがない。なぜなら、まず公の屋敷があるルオーゼ北東部から、国土の中心からやや西よりのルトまで人を遣わせるだけでも相応の費用を要する。このような悪戯を企てたところで、公爵に齎されるのはせいぜい社交界からの冷笑ぐらいのものだろう。

 それに、聖俗両方のあらゆる領域で忌避される死刑執行人の一族となった町娘を王家の末裔として担いでも、公爵は利益など何一つ得られない。――ならばやはり、実感は全くないが、セレーヌは本当に最後の王子の娘なのだ。

「じゃあ、」

 顔も見たことがない父の名を知っても、歓喜や慕わしさなどそれこそ小指の甘皮ほども沸き起こらない。父だという男の人となりや行く末にも、さっさと捕まってほしいと願う他には興味など微塵も感じない。けれども、どうしても確かめねばならない事実が二つだけあった。

「わたしは、ルベリク・アルヴァスの婚外子で……しかも私生児、なのか?」

 自分は神に祝福された男女の間に、神に祝福された子供として生まれてきたのか。違うのか。自らの根底を揺るがしかねない問いを押し出した唇は、高く澄んだ声同様に震えていた。

 遙か八百年前の建国の折から現在に至るまで、一度たりとも改められなかった王位継承法は、正嫡であるか否かに関わらず王の娘から玉座を取り上げた。しかしその一方で、王の娘の配偶者には冠を戴く権利を認めたのである。事実、最後の王の母は、分家であるリナ公爵の息子を婿として迎え、自身は王妃の座に就いていた。

 歴史を紐解けば、庶出の王女の夫が即位した事例もある。もっともこれは、即位したばかりで世継ぎの無い王の急死を受け、野心を露わにした分家の当主が、修道院で育てられていた先の国王の庶子を妻としたに過ぎないのだが。

 最後から二番目の王も、王の娘の夫としては初めて戴冠した男も、男系で遡れば真っ直ぐにアルヴァス朝の開祖に行き着く。第一王朝四代目の王の忠実なる家臣に。つまり彼らは十分に王となる資格を備えていたのだが、他の候補者との差をより深いものにするために、先の国王の血を求めたのだ。いわば二人の王にとっての妻とは、政敵を薙ぎ払う剣か王冠に嵌めこまれた貴石と変わりない代物なのである。とはいえ無理やり還俗させられ王妃とされた先祖とは異なり、先代の妃は王の娘であり妻であり、ゆくゆくは母となる権勢をほしいままにしていたそうなのだが。

 王、あるいは王族の娘を得れば、どんなに細く険しくとも自身や息子に玉座へと至る道が開ける。老人曰く放蕩の限りを尽くしていた王子は、次期国王と見做されていたにも関わらず、三十を過ぎても然るべき貴族や他国の王族から妻を迎えようとしなかった。従って子を持たないはずの男が密かに子を作っていて、しかもその子を自分の子だと認知していたのなら。宮殿は次代の王の庶子姫を子息や己自身の妻として望む貴族ではちきれんばかりになっていただろう。

 だのにセレーヌが主が斃されて久しい宮殿ではなく、修道院で育てられたのは……。

「しかし、セレーヌ様は紛れもなくルベリクに認知された姫君でいらっしゃいます。王家は修道女であったマリエット様を、ルベリクの領地の都であったルトの修道院に預けたため、セレーヌ様はこの地でお生まれになったのです」

 父は娘を認めなかったという何よりの証であるのだが、老人の迷いない口ぶりは細やかではあるが重大な悩みなど寄せ付けない。

「セレーヌ様を身籠っていらしたマリエット様を聖ファラヴィア修道院に預ける際に、作成した書状もありはするのです。うち一通は現在もルトの市庁舎に、もしくは市長殿の手元で保管されているでしょう。捨て子であったマリエット様の身元調査書と共に」

 先ほどとは打って変わって柔らかに、窘めるように老人が微笑んだ途端。喜劇めいた真実にもさしたる反応を示していなかった青年は、息を呑んで傍らの少女を凝視した。とりわけ、良くできた人形と紛う甘やかで繊細な顔ではなく、それを縁どる白金色を。

 フィネはこの数か月でセレーヌの髪などすっかり見慣れただろうに。それとも、もしかして寝癖でも付いているのだろうか。だったらどうして教えてくれなかったのだろう。

 稚い不満はまろやかな花弁を割ったが、停滞した空気に紛れて泡沫となった。

 真夜中の青の瞳は静かに伏せられ、引き締まった唇は噛みしめられる。青年の面に刻まれた憂愁とも憐憫ともつかない哀切は、縄となって少女の首を締め上げ、喉を詰まらせた。

 どうしてフィネは一切の光射さぬ海のような目をしているのだろう。世間的には全くもって歓迎できない人物ではあるが、妻の父親の身元が判明したのに。

「……パルヴィニーにて研鑽を積まれたというフィネ様なら、お分かりいただけるだろうと思っておりました」

 老人は青年同様に暗澹と眼差しを翳らせていたが、しかし毅然と老いた胸を張った。

「旧来の法に則れば、この国の次なる王はフィネ様で、王妃はセレーヌ様。しかし新たに生まれ落ちた我らが国は、もはや唯一絶対の支配者を必要としていない」

 朗々と紡がれたのは、彼の主から託された――つまりは、公爵のみならず、現政権を担う者たちの総意であるかもしれない。息を止めて次なる決定の開示を待った少女に齎されたのは、予想だにしないもう一つの真実であった。

「進んで市井に下られたセレーヌ様は、情け深い御方。セレーヌ様の海のごとき度量ならば、あれ・・に連座させ、セレーヌ様を無残にも斬首せんとした議会の者たちの愚かしさをも、受け止めてくださると信じております」

 つまり、セレーヌがありもしない罪に問われあわや処刑寸前にまで追い込まれたのは、ルベリク・アルヴァスが父親であったからなのだ。

 深々と頭を下げる老人に当たり散らしては、セレーヌに理不尽な死を突き付けた者たちと同列になり下がってしまう。だから公爵の使者相手に怒りを喚き散らす無様は犯さないが、平らな腹の中の臓物は溶岩となって煮えたぎった。

 母の死を思い出してから胸の内から絶えず燻っていた炎は、絶望の黒に激怒の紅蓮を交えて燃え上がり、草一本残っていなかった虚ろな焦土に火をつけた。中央の者たちは大方、残存勢力に王家の末裔として祭り上げられかねない娘の命を、あらかじめ絶っておこうとしたのだろう。王制復活を阻止し現政体を盤石なものとするために。いかにも政治家の考えそうなことだった。それぐらいは理解できるが、納得は絶対にできない。

 セレーヌは、ルベリク・アルヴァスの顔も知らない。最後の王子の娘として生まれた恩恵など何一つ受けていない。贅沢もしていない。なのにどうして、セレーヌがどのように生まれ育った、どんな人間なのか把握しようともしなかった人間たちに、生死や運命を翻弄されなければならなかったのか。

 セレーヌはフィネの妻としてベルナリヨン家の一員になることで命拾いしたが、もしも何かが違っていたら。例えば、フィネがこの街の死刑執行人ではなかったり、既に妻を迎えていたりしたら、セレーヌは間違いなく首を刎ねられて死んでいたのだ。

 ――憎かった。セレーヌの死を勝手に決定した中央の議員どもではなく、父親だという男が。セレーヌと彼が顔を合わせることなど永久にないだろうが、もしもその機会が回ってきたら、絶対に助走を付けて殴り飛ばす。拳を握り締める少女の柔な掌は、突き立てられた爪に苛まれ血が滲んだ。

「では、無礼への償いにはなりませぬが、セレーヌ様の身辺に何らかの異変がございましたら、ご遠慮なさらずに閣下のお力を頼って下さいませ。それがわたくしどもの望みでもございますから」

 公爵邸の住所を記した紙をフィネに手渡し、台所のミリーに声をかけてベルナリヨン家から足を踏み出さんとした老人を、少女は慌てて呼び止めた。

「――待ってくれ! どうしても、あと一つだけ、どうしても教えてほしいことがあるんだ!」

「はい。何でしょう、セレーヌ様」

 全身に響き渡る鼓動を懸命に抑え、霧雨に洗われた若葉の煌めきを宿した双眸で、穏やかな口元を仰ぐ。

「その……わたしが、ルベリクとかいうやつとおかあさんの子供なのは、本当のことなんだろ?」

「ええ」

 セレーヌをこの世に生み落としたマリエットも優しかった前院長も、既に鬼籍に入ってしまっている。だからひび割れた心を癒す薬、もしくは薬が仕舞われた棚の鍵を持っているのは、この老人を置いては他にいない。

「だったらおかあさんたちは、どこでどうやって知り合ったんだ? 普通、王子と修道女が顔を合わせる機会なんてないだろ?」

 両親の出会いが、結末はどうあれ甘く優しいものだったとしたら、セレーヌは母の愛を信じられる。自分が生まれた十四年前に、一体どんな大事件があったのだろう。心の底から疑問に思うが、一方で期待もしてしまう。母はもしかしたらほんの少しは我が子のことを愛していて、だから神に祝福されざる婚外子であるセレーヌを産んでくれたのだろうと。

 母に謂れのない暴力を振るわれた原因など察するどころか、考えたくもない。けれど、もしも知らず知らずのうちに自分が母の気分を害していて、あの折檻がセレーヌの行儀の悪さを強制するために振るわれた鞭だとしたら。母が僅かにでも自分を愛してくれていたのなら、記憶の澱にこびり付いた過去の痛みも半分ぐらいは我慢できそうな気がするのだ。

 しかし老人は、何故かフィネも痛ましげに目を伏せるばかりで。

「……それだけは、わたくしにはお答えしかねます」

 再三の要求に根負けして紡がれたのは、欲する答えではなかった。

「では、わたくしはこれにて失礼いたします」

 老人は更なる追及を避けてか早急に暇乞いをする。セレーヌの望みを知悉しているはずのフィネも、品よく伸びた背中を呼び止めなかった。少女は一月ぶりに飢餓感を覚えた腹を宥めながら、形良い頤を持ち上げる。遙かなる蒼穹は依然として暗鬱とした黒雲に覆われていた。

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