秘密の器 Ⅱ
「ルベリクが逃亡してからの経緯はご理解していただけましたか?」
老紳士の慈しみに溢れた眼差しは、前院長を思い出させた。母以外の肉親に恵まれなかった自分に祖父がいるとしたら、こんな人だったらいいと、甘ったるいにも程がある夢想に浸ってしまうほどに。
「ああ、うん」
急にこみ上げてきた懐かしさは、すっかり冷えてしまった珈琲で流し込む。数か月前は大量の蜂蜜や牛乳を投下しなければ賞味できなかった飲料とも、セレーヌは最近すっかり仲良くできるようになっていた。あの独特の苦味に慣れたからではなくて、食欲の低下と共に味覚が鈍り出したから。
何を食べても砂を噛んでいるようにしか感じられなくなった頃は、こうしないと怪しまれるだろうと珈琲の味を調整していた。けれどもだんだん面倒くさくなって、いつしか以前のように振る舞うことをやめてしまったのだ。
他の味覚は殆ど感じ取れなくなったのに、僅かながらも頑冥に存在を主張し続ける苦味が、幼い舌を刺激する。口内から胃の腑にまで広がる不快感をやり過ごすのにも、もう慣れてしまった。
「……でも、あんたのとこの若様も大変だな。同僚が沢山亡くなっただけでも辛いのに、それを悲しむ暇もなく王弟の討伐隊を率いることになったなんて」
努めて平静を装いながら、とりとめもない雑感を呟く。老人、及び彼の主である公爵がセレーヌに何を求めているのか分からないので、本当にこれぐらいしか反応のしようがないのだ。
「ええ。ですがわたくしどもは、若様ならばきっと此度の任務の責任に耐え抜き、見事な成果を上げて下さるだろうと確信しているのです」
最後の王子に謀られて若い命を散らした青年たちを哀れみ、また老人の「若様」とやらに頑張ってほしいとは、心の底から思っている。しかし老人は、どうにか絞り出したなけなしの感想に、元来色艶が良い頬を更に赤らめさせた。
「若様は、御幼少のみぎりからそれはそれは活発かつ利発で、尚且つ女神のごとくお美しい奥方様譲りの美貌も兼ね備えているという、大変に恵まれたお子様でありました。ですが決して驕ることなく、わたくしたち使用人どもへの気配りを忘れぬ、大変お優しいお子様だった若様なら、どんな困難も成し遂げられましょう」
「ふうん。それは凄いな」
「旦那様が亡き御友人のご息女を養女として迎えられてからは、兄君としての御自覚を得られたのでしょう。兄君となった若様はより一層鍛錬に励まれるようになりました。子供ながら並みの大人が恥じ入るほどに自らの心身を鍛えぬくあのお姿は、今も眼裏に焼き付いております」
にこやかに口の端を吊り上げた老人は、優秀な孫を自慢する祖父そのもので、この話が長引くのだと覚悟せずにはいられなかった。なぜなら彼の微笑みは、前院長が自身や友人たちに関する長い昔語りをしていた際のものと、そっくり同じだったから。
自分から話を振ったからには、何らかの反応を返さなければ失礼だろう。だが面識どころか縁もゆかりも何もない人物の幼少期の逸話など、セレーヌの関心の範疇には欠片も入っていない。ゆえに、老人がこちらの世界に戻ってくるまでは、適当に相槌を打ちながら昔語りを聴き流すしかないのだ。
「勇猛にして崇高な志は限界を知らず、若様は十を越える頃にはいつかは熊に挑むのだと、勇ましく夢を語っておられました」
「えっ? く、くま? 熊って、茶色くて獰猛だけど木の実が好きだっていう、あの熊なのか?」
「ええ。その熊でございます」
――と思っていたのに、突然に割り込んできた獰猛なる森の獣たちの主が齎した衝撃は、さらりと受け流すには大きすぎた。
かつて国内有数の大貴族に数えられていたヴェジー公爵家は、爵位が単なる名誉称号に過ぎないとされる現在においても十の指に入る由緒正しい名門である。どのくらい由緒正しいのかと言えば、第一王朝の断絶以前にまで起源が遡れるぐらいに。だのに、長きに渡る伝統と誇りを受け継ぐべき跡継ぎが、熊に凝ってばかりで良かったのだろうか。周囲の者は、特に両親たる公爵夫妻は止めなかったのだろうか。
「以前は我が主の領地であった北東部には、“熊を斃した者は英雄になれる”という伝承がございますゆえ、若様も憧れていたのでしょう。フィネ様も、一度は経験があるのではございませんか?」
北の隣国や大陸東部の国々との境界線となる、ルオーゼ東北部の広大な森林地帯の大部分は、王制廃止以降もなおヴェジー公爵家の私有地である。
唯一神の光を拒むかのごとく鬱蒼とした森は、古き神々に贄を捧げていた遙かなる太古は、森の主にして獣の庇護者たる神の聖地でもあった。ゆえに旧公爵領付近には、彼の神の使いたる熊を神聖視する文化が残っているとは耳にしていたが、それにしても行き過ぎではないだろうか。
「いや、俺は熊に挑もうなんて一度も……」
「……左様でございますか」
きっと同意して貰えるものと信じていたのだろう。セレーヌと、そっと目を伏せたフィネに向けられた老人の眼差しはどことなく痛切で。善意に基づく施しを貧者に拒絶された聖人を彷彿とさせる目をしていた。
「……わたくしともあろう者が、少しばかり話を脱線させてしまったようですな。紙面上だけの説明だけでは納得していただくことが難しい事柄を、セレーヌ様にご理解いただけるまで口頭で述べるために派遣された身ですのに。いやはや情けない」
程なくしてセレーヌたちがいる所に帰還した老人は、老いた喉を震わせて不可思議な質問を紡ぐ。
「時にセレーヌ様は、お子様がどうやって出来るか存じていらっしゃいますか?」
すると明後日の方向を見つめていたフィネは瞬時に、何故だかとても心配そうにセレーヌの目を覗きこんできた。
「……それは俺も前々から気になっていたけれど、まさか、“祝福された畠の
はっきりとした眉の下の濃紺には、隠しようのない不安が湛えられていて。これほどまでにフィネが真摯な目をしているのは、共に暮らし始めた数か月で初めてだった。セレーヌはそんなことも分からないぐらいの子供だと見做されているのだろうか。
――わたしはもう十四歳になったんだから、いつまでも子供扱いされてたまるものか。
少女は怒りと屈辱を堪えながらも、幼き日の前院長とのやり取りを記憶の底から探り出す。
「やり方は色々あるけど、だいたいは、男と女が一緒の寝台に入ってれば、運が良かったらできるんだろ? わたしはもう子供じゃないんだから、それぐらい知ってるんだぞ!」
しかし、何度考えても、どうして男女が一緒に眠るだけで子供ができるのか分からなかった。前院長は深く愛し合えば愛し合うほどできやすいのだとも言っていたが、ならば共に褥に横になる必要はないだろうに。もしかして、寝台云々は何かの比喩なのだろうか。
子供を作るにおいて互いの心が通じ合ってさえいれば良いのなら、ごく普通に会話をしただけでも、愛が深まりさえすればその結晶が誕生するはずである。それはつまり街中や首都の雑踏で不意にフィネに手を握られ心臓が跳ねたあの瞬間、セレーヌはフィネの子供を身籠っていたのかもしれなくて――考えれば考えるほど訳が分からなくなってきた。
前院長は男女の精気が結合すれば子ができるとも語っていた。つまりこの世には気が結合してできた子供と、愛が結合してできた子供の二種類がいるのだろうか。
「ああ、良かった。セレーヌ様が既にご存知で。……幼気な少女の夢を壊さなければと考えると、どうしても胸が痛むものですから」
少女は脳内で渦巻く疑問と混乱をひとまず彼方に放り投げ、安堵の溜息を吐く彼らに見せつけるべく、誇らしげに腕を組む。その瞬間、老紳士の瞳は獲物を見つけた鷹のごとくきらりと光った。
「セレーヌ様」
「な、なんだ?」
「先程のセレーヌ様のお考えが正しいとすれば、神の前で一生を共にすると誓っていない男女の間にも、子供は出来てしまいますよね。そうでしょう?」
愛とは唯一神に誓ったか否かに関わりなく発生するものである。だからたとえば、敵対する家に生まれた――つまり決して結婚を認められない男女の間に愛が芽生えることもあるだろう。
「それは、その、とてもふしだらなことだけど、そうだな……」
白桃の頬を熟れた林檎にした娘は、ふと悟った。男女が無意識に放つ精気とは愛情の補助をするもので、本来ならばただ深く愛し合ってさえいれば子供はできるのだと。ただ、ごくたまにいる、十分に愛し合っていなくても早急に子供を作る必要に駆られた者たちは、致し方なしに精気に頼ろうとする。具体的には、より男の気が女の奥深くに入り込みやすいように、互いに服を脱ぎ捨て密着するのだと。そしてそれこそが世に言われる「淫らな振る舞い」なのだと。
「ええ。セレーヌ様のおっしゃるように、婚姻関係を結んでいない女性と関係を持つのは歓迎されざる行いです。ですが世の中には、唯一神が定められた掟を蔑ろにし、放蕩の限りを尽くす方々もいらっしゃるのです。実は、渦中の王弟ルベリク・アルヴァスもそういった者の一人でした」
「ふうん。それは最低だな」
素っ裸になって引っ付き合うだけの行為の何が楽しいのかも、好き好んで行いたがる愚か者の気持ちも分からない。だが、これだけは理解できる。そんな不道徳を躊躇なく、不特定多数の異性と行うのは、最低最悪の、腐りかけた塵を漁る野良犬同然の人間なのだ。
セレーヌはいつか子供を生んだら、育ての親たる老女から授けられた黄金の教えを絶対に順守させる。特に娘だったら、伴侶ではない男とは一瞬だって二人きりで同じ部屋にいさせない。血縁ではない男とは、挨拶以外は会話もさせない。そうしてできる限り男の視線にすら晒さず、清らかに、大切に育てていこう。
「ええ。セレーヌ様が仰るように、最低な方だったのです。ですが、」
老人はいささか潔癖すぎる道徳心に同調する一方で、しばし痛ましげに唇を引き結ぶ。
「残念ながら、その最低な方こそがセレーヌ様の父親なのですよ」
彼が躊躇いながらも明らかにした真実は、俄かには受け入れがたいものだった。
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