秘密の器 Ⅰ

「ただいま」

 待ち焦がれていた声を小さな耳が拾ったのは、昼食の準備をしている最中だった。少女は彼女にしては珍しく、滲み出す喜色を隠しもせずに足早に玄関へと急ぐ。

「お帰り、フィネ! 今日は仕事がいつもより早く終わった――」

 しかしまさしく人形か咲き初めの木春菊マーガレットのごとく可憐な笑みは、さも当然という落ち着き払った顔で夫の隣に立つ人物によってあっけなく崩された。

「お初にお目にかかります、セレーヌ様」

 セレーヌが知るベルナリヨン家の客人たちの中で最も、他と比べることが申し訳なくなるぐらい礼儀正しく身なりの良い、白髪の紳士。世間一般には、礼儀や敬意を示すには値しないと認識されている死刑執行人の妻であるセレーヌにさえ丁重に頭を垂れた彼は、一体何者なのだろう。

 華美ではないが仕立てのいい衣服や物腰から、老人は上流階級に属する人物なのだろうと察することはできる。だが、そのような人間がこの家に足を運ぶ理由は皆目見当もつかない。

 大きな若葉の瞳に宿っていた束の間の光は困惑と懸念によって曇り、細い眉の間には隠しきれない懐疑が刻まれる。

「では、お邪魔いたします」

「あ、は、はい。……どうぞ」

「わたくしは御用が済みましたらすぐにお暇しますので、ご心配なさらずに」

「い、いえ。そんなことは気にせず、ゆっくりしていってください」

 老人は家人の反応にはお構いなしに、家と外界の境界の先へと歩を進める。彼の背筋は外見から窺える年齢の割にはしゃんと伸びていて、手足はきびきびと動いていた。 

「――分かっているよ。君が訊きたいことはだいたい分かるけれど、今は堪えてくれないか」

 青年は零れ落ちんばかりに目を見開いて立ち尽くす幼い妻の肩に手を置き、老人の後に続いて居間に向かえと促す。

「……ああ、うん」 

 少女は暗雲のように胸中に広がる戸惑いを押し殺し、夫の指示に従った。

「さ、フィネ様やセレーヌ様も早くお掛けになってください」

 まるでここが我が家であるかのように、しかし決して無礼に陥りはせず、あくまでも上品に居間でくつろぐ老人の側には、きりりとした上がり眉を顰めた義母がいた。玄関での騒ぎを聞きつけ、昼食作りを一時中断し台所から出てきたのだろう。

「フィネ」

「母さん」

 丈高い息子に詰め寄る同じく長身の彼女の目元や口元には、呆れは刻まれていなかった。しかし代わりに劫火さながらの怒気に吊り上げられていて、許されるのならば直ちにこの場から逃げ出したくなった。傍で静観しているセレーヌでさえそうなのだから、フィネはなおさらだろう。

「お前、また・・どっかから人を拾って来たんだね?」

 息子を詰問する声は、普段よりもなお一層に迫力に満ちていて、少女の心胆を寒からしめた。セレーヌが激高した義母の姿を目の当たりにするのはこれが初めてではないし、これ以上に憤っている姿を見たことも何回もあるが、未だに慣れない。

「“また”なんて人聞きが悪いな。俺が何回も見ず知らずの人を家に連れてきたことがあるみたいな言い方だけど、そんなことただの一度も――」

 ひたすら静かに嵐の終わりを待つセレーヌとは対照的に、フィネは果敢にも母への反論を試みる。

「あっただろう?」

 しかし怒れる女はあっさりと息子の反撃を下した。剣呑に細められた濃紺の眼差しの先には、無用な横槍を入れてはと口を噤む少女の姿があった。

「……確かに、こればっかりは母さんが言うことが合っている。だけど、」

 青年は母譲りの瞳に妻を映した途端、歯切れ悪くも母の言葉を肯定した。セレーヌとフィネの結婚の経緯は「セレーヌがフィネに拾われた」と要約できなくもないから、ミリーの発言は実に的確である。セレーヌでさえ、説得力に欠けるなと感じてしまったのだ。鋭い義母が息子の論拠の隙を付けないはずがない。

「犬や猫やセレーヌちゃんなら、最期まで面倒見る覚悟があるのなら、拾ったって何の問題もないさ。だけどこの爺さんには帰る家があるだろうし、万が一のことがあったらとはらはらしながら、一刻も早い帰りを待っている家族もきっといるんだよ。お前、そういうこと考えて行動したのかい? こういう場合、家の場所を聞き出してちゃんと送っていくのが道理だろうに」

 義母が自分を犬猫と同じ枠に分類しているらしいことは気になるが、今は深い追及は控えるべきだろう。

「あの、母さん。少し黙って俺の話を、」

「だいたい、どこの徘徊癖か痴呆を抱えた爺さんか知らないけど、家に連れてきたって何もできやしないんだよ。ここは救貧院じゃないんだから」

 青年は早口に捲し立てる母の糾弾の勢いと形相に気圧されながらも、暴風を宥めるべく奮闘していた。いい加減に、卑小なる人間の身で大いなる自然の災禍に挑むなど、無謀が過ぎると自覚すればいいのに。

「……痴呆、ですか。確かにわたくし程の年齢にもなりますと、若かりし頃の頭脳の働きを手放し、過去や夢の世界と戯れてばかりになる者もおりますが」

 一方的に「家から飛び出し周囲を徘徊する癖がある、頭の働きが怪しい老人」と断じられた紳士は、哀愁を帯びた吐息を吐き出す。

「しかしわたくしは、ご友人の方々に気前よく振る舞うあまり、ご自身の酒代をお手持ちのお金では払えなくなった旦那様に、銅貨を五枚お貸したこともしっかりと記憶しているのですけれどね」

「はあ」

 親子の言い争いに幕が降ろされる――言い換えれば、じりじりと瀬戸際に追い詰められていく青年が観念する刻を待つことしかできない少女は、暇潰しがてら老人の昔語りに耳を傾けた。

「あれはもう三十年以上前。旦那様が念願叶って首都の大学で勉学に励んでいらした頃のことでした。それに、あの時の旦那様は酔いが回っておられましたので、そもそも覚えていらっしゃらないかもしれません。ですがわたくしは旦那様を信じ、貸したお金をきっちりと返済して頂くまでは、あの日のやり取りをしかとこの白髪頭に刻み付けておこうと決めているのです」

 「旦那様」なる言葉は、この老紳士には主と仰ぐ人物がいるという事実を示唆している。老人は、彼自身が上層に属しているのではなくて、上流階級に長年仕え続けた使用人なのだろう。

 老人の主が、身分ではなく資産という目盛りで計る階級の頂点に近い位置にいることは、仕立てのいい衣服が明らかにしている。一介の使用人にすらこのような衣装を与えられるのは、それなり以上の財産を蓄える富豪でなければ不可能だろう。もっとも、老人が「旦那様」について語る際の親しみが籠った声色や年齢から察するに、恐らく彼は数多の使用人たちを束ね、相応の給金を弾まれる立場に就いているのだろうが。

「……少し尋ねたいことがあるんだけど、いいか?」

 推測の正否を確かめるべく、決着など始まった瞬間からついていた口論を見守る老人に語りかける。

「わたくしの力が及ぶ限りなら、どんな事でも」

「あんた、どっかの金持ちに仕えてるんだろ?」

 すると白髪の紳士は、久方ぶりに訪ねてきた孫に相対するかのごとく、穏やかな目を細めた。

「まだご説明していないのに、よくお気づきになりましたね。セレーヌ様は大層賢くていらっしゃるのですな」

「……べ、別に、これぐらい誰でも分かるから、お世辞はいい。で、その、今日は“主の言いつけ”とやらでここに来たのか?」 

「ええ。これまたご明察です」

 老人は温かな木の枝のような指を皺一つない上着の隠しに伸ばし、取り出した封筒をセレーヌの眼前に差し出す。細い指が触れた生成りの紙面には、真紅の封蝋が落とされていた。

 端麗な筆跡で綴られた差出人の署名と、柔らかな蝋に刻まれた交差する二振りの剣の家紋。これらが指し示すのは、ただ一つの事実。王制廃止前は国内有数の帯剣貴族であり、長い歴史の過程で王女が降嫁し、数世代前には王妃を輩出しさえしたヴェジー公爵家の当主から、この封書は送られてきたのだ。

「わたくしは主であるヴェジー公アラン様の言いつけで、セレーヌ様にあることをお知らせするために参上したしたのですよ」

 十四年の人生のほぼ全てを俗世から隔絶された修道院で過ごしてきた少女でさえ、その名を知っているような大貴族が、自分に一体どんな用があるのだろう。まさか、またありもしない罪を着せられて牢獄に送られるのだろうか。

 過去の経験から否応なく湧き出てくる猜疑心は、どれ程手を尽しても駆逐しきれない庭の雑草さながらに生い茂り、警戒の花を咲かせた。

 しかし嘘や騙りの不実な影を探るべく、半ば睨みつける勢いで皺に埋もれた双眸を凝視しても、

「如何なさいましたか、セレーヌ様。もしや、この老いぼれの顔に麺麭屑でも……?」

 穏やかに受け流されてしまえば自然肩から力が抜けてしまう。

「――ほら! 聞いただろう、母さん。この人はあのヴェジー公の使いの、きちんとした身元の方なんだって!」

「……そうみたいだね。こればっかりはあたしが間違ってたと認めるよ」

 母と息子の長い言い争いは、大層稀なことに息子の勝利で幕を閉じた。呆け老人扱いして悪かったと老人に謝罪した女は、今度は客人をもてなすべく台所に向かう。

「公爵様のところでいいもん食ってるあんたの口には合わないだろうけど」

「このようなお気遣いは無用ですのに。いやはや、ありがたいですな」

「じゃ、あたしはあっちで昼食拵えてるから。別にあたしはいなくてもいいみたいだから、構わないだろ?」

 もうすぐ昼食時だという事情もあり、腹が減っていたのだろう。老人は、ミリーが運んできた芳しい珈琲を啜り、これまたミリーお手製の焼き菓子を一瞬の躊躇いも見せずに摘まんだ。香ばしく焼き上げられた菓子を頬張る仕草は上品なのに、ふっさりと蓄えた口髭に欠片が付いているのは、愛嬌と親しみやすさを感じさせる。

「さ、フィネ様とセレーヌ様も。少々長い話になりますから、わたくしに遠慮などせずに、」

 大きく骨ばった手に釣られ、桜貝の爪で飾られた白磁の指は手ごろな一枚を掴んだものの、それきり菓子が盛られた籠に手を伸ばそうとはしなかった。もうすぐ昼食の時間だというのに、食欲が全くなかったのだ。

「……で、わたしに用があるみたいだけど、それは一体どんな?」

 夫と老人に怪しまれないように、休息にこみ上げてきた虚無感から逃れるべく、せめて温かな湯気立ち昇らせる紅茶で乾いた口内を湿らせる。

「それを説明する前にはまず、セレーヌ様にお渡しした御手紙をお読みになっていただなければなりません。さ、どうぞセレーヌ様。ひとまず封を破って中を検めてくださいませ」

 ――待ち受けるのは、もう二度と戻りたくない牢獄か。それとも、もっと恐ろしい運命か。

「……は?」

 震える指を叱咤しながら、手触りだけで一級品だと判別できる紙を開く。

「ルベリク・アルヴァスが逃亡した?」 

 そこには、何度見直しても、見間違いではないかと穴が開くほどに注視しても、だからどうしたのだとしか反応しようがない報せが綴られていた。

 離宮から元国王の実弟が逃げ出した。それはまさしく大事件であろうが、その事件とセレーヌの繋がりが分からなかった。もうすぐ処刑される予定だったという最後の王子と自分に、一体どのような関係があると言うのだろう。あれもこれも、この先を読み進めれば分かるのだろうか。

 端に皺が寄るほどに文を掴む指を強張らせた少女は、疑問を解決する糸口を探り出すべく、封筒の署名同様に端正な文字の連なりを追う。己の夫や老人がしばし息を止め、繊細な横顔に不安げな一瞥を投げかけたことに気づかぬまま。  

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