嘆息 Ⅱ
骨が砕けるくぐもった音は、何度耳にしても慣れない。そして恐らくこの先も、この破壊音に――自分の職に関する全てに親しみを覚えることはないだろう。
血が滲むまでに唇を噛みしめている男の利き手は、緩やかに湾曲した二枚の金属の板の間に挟まれていた。青年はぐったりとうなだれる男の骨を締め付け粉砕した際とは真逆の方向に螺子を回し、罪人の手を拷問器具から解放する。
「これで貴方の罪は償われました」
数多の犠牲者の血と涙と汗だけでなく、憎悪と懇願の呟きを啜った木製の机には、十枚の不格好な貝殻が並んでいた。蒼き潮ではなく生温かな紅蓮を糧として成長した貝には、赤褐色の斑がこびり付いている。
何時間にも渡って太い喉から野太い絶叫を迸らせていた男は、も最後に掠れた呪詛を残して部屋から去った。力なく垂れ下がる彼の右腕の先が使用に耐える状態であったら、もう一度殴打されていたかもしれない。もっとも、男の手は鋸状の突起がある鉄板によって破壊されていた――他ならぬフィネが破壊したのだから、杞憂が現実になるはずはないのだが。関節や骨ごと壊された指はもう二度と、持ち主の処罰を決定した法官たちの思惑通り、誰かに危害を加えはしないだろう。
青年は元来やや細い目を更に細め、頬に吐きかけられた血混じりの唾液を袖で拭った。フィネは父の跡を継いでまだ五年も経っていない若輩者で、若さとは往々にして弱さと結び付けられる。言い換えれば、フィネはどうしても受刑者たちに
今しがた刑を終えた男は、血走った双眸を手負いの獣さながらにぎらつかせながらフィネを睨んでいた。彼は酔った勢いで見ず知らずの男と公衆の面前で取っ組み合いの喧嘩を始めた挙句、勢いと酒に呑まれて相手に重傷を負わせてしまった。そのために両の手の爪を剥がれるだけでなく、利き手の指を砕かれる刑に処せられたのである。
本人が責任の大部分を負うべきだとはいえ、事が大きくなるまでに誰かが制止していたら執行されていなかったはずの罰が齎したのは痛みだけではなかった。生活の糧を生み出す利き手の機能を失った働き手やその家族に待っているのは貧困と絶望に他ならない。
単純な肉体労働に従事していたのならともかく、あの男は手先の繊細な調節を必要とする木工細工の職人だった。だから彼は、誰に教えられずとも刑が終わると同時に自分の人生もまた閉ざされるのだと悟り、時に暴力も交えてまであの鉄製の指絞め器を遠ざけようとしたのだろう。
受刑者の気持ちは理解できる。しかしフィネにも支えるべき家族がいるのだから、いつまでも同情してばかりではいられなかった。ゆえに外出する際は常に胸元に忍ばせている、解剖あるいは手術の際に用いる
強かに拳を打ち付けられた肩は鈍く痛むが、あの職人が味わったものほどではないはずだ。翌日には青痣ができているかもしれないが、薬草の汁を吸いこませた湿布を張っていればそのうち元に戻る。
肉体の傷はいずれ治る。だが目に見えぬ心の傷はどうなのだろう。幼い頃に刻み込まれた深手は、傷を負った張本人でさえ忘れかけた頃に、再び鮮血を噴き出すことがある。一月前に、彼女の母の死を思い出してからのセレーヌは、まさにその例として挙げられるだろう。
『今の今までマリエットさんの死を忘れていたなんてあんまりよ、セレーヌ。マリエットさんが亡くなった時のあなたはまだ九歳だったのだから、仕方のない事だったのかもしれないけれど、それでも、』
高圧的な口の利き方が非常に癇に障る院長に真実を教えられる前から、フィネはセレーヌの母親がマリエットではないかと疑っていた。
『あの女は……』
澄んだ声が押し殺した怒りや憎悪と共に紡ぐ「マリエット」には、彼女の間近に居続けた人間でなければ再現できない迫真性が備わっていた。だが対照的に「おかあさん」は、そんなものは始めからこの世に存在しないのではないか、と時折勘ぐってしまうほど希薄で。また、セレーヌの語りに登場する頻度が一番少ないのもやはり「おかあさん」であり、その内容もこれが母娘のものかと疑ってしまう寂しいものだったから。
まだ文字を習得しておらず、一人では聖典を読解できなかった頃、聖典を読んでもらったことがある。
ただそれだけの思い出話を繰り返す少女への違和感が増したのは、彼女が生まれ育った女子修道院の前院長の墓参りが切っ掛けだった。
前院長は、実質上のセレーヌの母の役割を果たしていたのだろう。セレーヌはいわば育ての親である女性の墓所がある建物の敷地に入ると急に体調を崩したのだが、家に戻るやいなや不調はたちまち消え去ったのだと言った。
フィネがレイスと共に死刑執行人としての研鑽を積んだ母の実家には無論、フィネ以外の未来の死刑執行人も預けられていた。そういった一人に、地方都市ソンヌールの死刑執行人の息子がいた。系譜を辿れば、恐らくフィネの親類であったのだろう彼は物静かで博識な少年だったが、不幸にも繊細で気が弱い性分でもあった。
父祖代々の血塗られた職を、表面上はどうあれ内心では受け入れられていなかった少年は、死体に触れ切り開くするたびに失神し、ついにはそういった物事を耳にしたり考えるだけで身体に震えや悪寒などの支障をきたすようになったのである。
あの日のセレーヌは、父親の職を継いだ一年後に自死したと伝え聞いた彼の、在りし日の姿とぴたりと重なった。
とすれば彼女は、花束を拵えるなどして明るく振る舞ってはいたものの、本当は追い出された修道院に訪れたくなかったのだろうか。しかし墓参りは彼女自身が言いだしたのだし、倒れるまでのセレーヌの表情や言葉には嘘や演技の影は見当たらなかった。ならば、何があそこまで少女を追い詰めたのだろう。
細い身体を背負いながら、脂汗を額に滲ませ俯く彼女の不調の要因を導きだすまでには、大した時間はかからなかった。
修道院の墓地に向かったことが、セレーヌの急な体調の変化の原因なのかもしれない。けれどもセレーヌは確かにほんの数か月前まではあの修道院で暮らしていたのだから、修道院そのものを拒絶しているはずはないだろう。だが、今の今まで足を運ぼうとはしなかったその場所に、セレーヌが決して受けいられない何ものかがあるとしたら。あの唐突な変貌にも納得できる。
セレーヌが忌み嫌う存在の中で、墓場に眠っている可能性があるのは一人。しかしもしも「マリエット」が既に歿していたとしても、そのことをセレーヌがあれ程までに恐れるだろうか。セレーヌの母がやはり既に亡くなっていた。娘同様何らかの罪に連座させられていたのだと仮定したら、あの反応もあり得るだろうが……。
フィネに確証のない確信を抱かせたのは、やはりたわいのない思い付きだった。
「マリエット」が「おかあさん」だとしたら、不審感は全て解消される。けれどその仮定は母を求める少女にとっては最も残酷で、フィネとて俄かには受け入れがたい代物だった。その推測は間違っている。全てお前の見当違いの妄想なのだと誰かに否定して欲しくなるぐらいには。これなら、亡き父がセレーヌの母を処刑していた方がまだ良かった。
できるのならば、セレーヌにはもう母親探しを諦めさせたい。けれども、証拠もない一方的な推測に基づく危惧を彼女に押し付け、彼女から母親を取り上げることもできなかった。セレーヌの母親は多少愛情表現に乏しいだけのごく普通の女で、今もどこかで娘を待っているのだと信じたかったのだ。
だからこそフィネはセレーヌと共に真実を確かめに行ったのだが、待ち受けていたのは幼い少女の心身を苛む結末だった。
セレーヌは見ているこちらが心地良くなるぐらいによく食べる少女だったのに、真実を知ったその日からは、食事もまともに摂ろうとしなくなった。このままでは心より先に身体が参ってしまうのは明白なのだが、無理に食べさせるのも酷である。フィネが家を空けている間、絶望に打ちひしがれた少女を見守っている母曰く、セレーヌは時折庭の隅でこっそり食べ物を戻しているそうだから。
父を喪ったフィネの哀しみを癒してくれたのは、時の流れと――気まぐれに妻として迎えた少女だった。その彼女が萎れた花同然に塞ぎこんでいるのに、黙って見守ることしかできない現状は歯がゆい。けれどあれこれと慰めの言葉をかけたところでセレーヌは喜ばないだろうし、むしろ煩わしがるだろう。
フィネが現在のセレーヌのためにできるのは、ただ一つだけ。彼女が望むようにできるだけ早く帰宅すれば、沈んだ顔ばかりの少女も久方ぶりに笑ってくれるかもしれない。大きな瞳に立ち込める暗雲が払われ、好奇心旺盛な光が再び輝くのなら。
青年は酸化し黒ずんだ血に塗れた物体を乱雑に袋の中に仕舞う。犯罪者の身体の一部は、黒魔術や悪魔召喚の儀式の道具として熱狂的な人気を誇っており、多くの死刑執行人はそういったものを売り払って小遣い稼ぎをしていた。死刑執行時の受刑者の持ち物及び肉体は、死刑執行人の所有物となる。これもまた、死刑執行人に認められたれっきとした権利であったから。
灰になるまで燃やされ、街の娘たちに密かに伝わる、意中の相手を振り向かせる魔法の菓子とやらに練り込まれるのか。はたまた、憎い相手を模した呪いの人形の胸に埋め込まれるのか。この爪の行く末は定かではないが、いずれにせよ出来るだけ高く売り付けてやろう。そしてフィネはその金で、セレーヌに新しい服の一着でも買ってやるつもりだ。現在の彼女がそれで喜ぶのならの話だが。
死刑執行人以外に、人体やその一部の処理についてあれこれと煩慮するのは、犯罪者か医者ぐらいのものだろう。僅かながら引き締まった口元に自嘲を刷いた青年は、街はずれの牢の薄暗い廊下に靴音を響かせる。
真っ当と異常。二つの世界を繋ぐ扉の隙間からは、黄金を細く牽き伸ばしたかのごとき陽光が差し込んでいた。もう何日も拝んでいなかった気さえする光輝は、蝋燭の温かだがどこか頼りない光に順応した瞳には少しばかり苛烈であって。
反射的に目蓋を閉ざしかけた青年は、それでも自宅に続く街路の石畳を踏みしめる。
「お待ちください、フィネ・ベルナリヨン様」
嗄れてはいるが芯が通った声が彼の背に投げ掛けられたのは、その数瞬後のことだった。
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