嘆息 Ⅰ

 白々とした陽光は空中に漂う埃を、寝台の上に散る白金の髪を煌めかせた。小さな採光窓からの一筋の光は少女を穏やかな眠りの世界から連れ戻す。

「……ああ」

 薄い目蓋を持ち上げた少女が眩しさと同時に覚えたのは、夜明けが訪れたことへの絶望であった。けぶる睫毛に囲まれた新緑の瞳は一月前までは燦燦と輝いていた生気を失ってしまっている。世界が暗黒に呑みこまれてから――母の死を思い出してから、闇を照らす希望の光は消え失せてしまったのだから。

 ふと仰ぎ見た蒼穹は麗らかで優しく、どこか懐かしい青に染まっている。ちらほらと浮かぶ白い綿雲に彩られた晴天など、この世に生を受けてから数えきれないぐらい目にしてきた。美しいが有り触れた景色に訳が分からない感傷を抱くようになった理由も、嫌になる程理解している。

 空の青はマリエットの瞳の色だ。だからちらと眺めただけでも恋しくなって、胸が苦しくなる。

 セレーヌに一欠けらの愛も与えず、あまつさえ置き去りにして神の楽園に旅立った母は、今は天上の楽園で安らかに微睡んでいるのだろう。そう思えば、今すぐあの世に乗り込んで、やられたことをやり返したくなった。けれどもマリエットがこの世でただ一人の、自分を産んでくれた、最も愛おしい存在であることには変わりはない。

 今ならば分かる。セレーヌはずっと、念願叶って母と再会できたなら、真っ先にあの染み一つない薄い頬に平手を打ち付けるつもりだったのだ。ずっと昔、まだ一人で厠にも行けない幼児だった頃、幾度となくされたように、何回も。

 震え、助けを求める母の長い髪を掴み、細い肢体に馬乗りになる。そして母が自分を認めてくれるまで、柔らかな下腹に拳を埋めるのだ。それでも母が自分に応えてくれなかったら、四肢の骨を全部折ろう。母がセレーヌの側から勝手にいなくならないように。そして、毎日身体を綺麗にして、毎日触りたいと思っていた黒髪を梳いてあげるのだ。

 母がようやくセレーヌを受け入れてくれたら、今度は優しく怪我の手当をしよう。母は最初は怯えるかもしれないけれど、大丈夫。自分たちは外見は欠片も似ていないけれど、確かに血が繋がった親子なのだから、きっと仲良くなれる。なぜならセレーヌはマリエットが大好きだから。いつもいつもマリエットのことだけを見て、マリエットのことだけを考えていたのだから。なのに、どうして母はセレーヌの愛を受け取ってくれなかったのだろう。

 前院長に文字を習って初めて、拙いながらも懸命に母へのありったけの想いを綴った手紙は、目の前で破り捨てられた。大好き、と前院長にせがんで教えてもらった告白を隙間なくびっちりと記していたのに。

 どうしてと尋ねたところで、応えは返ってこない。かつて母が生ある存在としてセレーヌの側にいた時も、セレーヌという存在はあの澄み切った硝子の目には映らなかったのだから。

 答えを齎せる唯一の者が失われた問いは、小さな頭の中をぐるぐると駆け巡り、薄い胸を塞がせる。

 眼裏で浮かびあがる在りし日の光景の名残が消え失せた瞬間、少女の偏狭な世界はかつての――母を埋葬した日と同じか、それ以上に物寂しい冬に逆戻りした。幻の厚い暗雲は若葉の目を曇らせ、地面に降りた霜の鋭い冷気は脆い心に突き刺さる。

 自分自身の手で施した稚拙な封印を解いた途端に溢れだした、永遠に小箱の中に閉じ込めておきたかった記憶の澱は、幼い主を容赦なく苛める。日増しに増幅する苦痛に蝕まれた心身は既に疲弊しきっているが、それでも少女は己が手で生を断ち切ろうとはしなかった。

 一つは、あの薄情な母に対する意地のため。

 自分に痛みばかりを味わわせた女の死を悼んで自死する。そんな愚かしい真似など、誇りと燃え上がる怒りが許さない。

 四年の長きに渡って守り続け、セレーヌの行く末を明るく示してくれていた燈火は、既に吹き荒ぶ寒風に吹き消された。代わりに虚ろな胸に灯ったのは、憎悪を糧として燃え上がる漆黒の焔である。

 数え上げれば片手の指で足りる母との優しい過去の情景すらも焼き払う炎は、小さな足で歩むべきいばらの荒野をも灼熱の舌で舐め、地獄に変貌させた。しかし未だ過去の傷跡が生々しく刻まれ、一月前に開いた裂傷から血を流す心が灰燼に帰してしまっても、セレーヌは生きていたかった。

「……起きているかい、セレーヌ」

 不甲斐ない自分を支えてくれている、大切な人達。彼らが悲しむようなことは絶対にしたくなかったから。

「……うん」

 身の裡に深く根を張る仄暗い感情を押し殺し、穏やかな日常に相応しい顔を作る。幼少期のセレーヌは、母から刻まれた怪我を手当してもらう時はいつも、これは自分の不注意で負ったものだ、と訝しがる前院長を言いくるめていた。近しい人を騙すことには慣れているから、さほど意識せずとも仮面はすんなりと被れた。

「もうすぐ朝食だからそろそろ居間に降りてきてくれって、母さんが」

「そうか。分かった。すぐ行く」

 少女は仮初の陽気を纏った返事で、扉越しに聞こえる低く落ち着いた声に応える。彼女自身知らぬ間に魂を焦がす感情からは、寝間着を脱ぎ捨てるようには簡単に逃れられないのだとは気づかぬまま。


 一家三人が揃う居間は、食卓の上の花瓶に庭の草花が飾られていて華やかなのだが、白金の髪についた寝癖に気づきもしない少女が発する瘴気は如何ともしがたい。

 専用の椅子に坐したセレーヌの前には、舌に乗せずとも美味だと判ぜられる朝食が並んでいた。焼いた新鮮な卵と茹でた腸詰が添えられているのは、これから仕事に出かけなければならないフィネの分。フィネは仕事として罪人の骨を折り四肢を切断し、金属製の拷問道具を使用するので、相応に体力を使う。だから軽い食事だけでは物足りないらしい。

 少女は自分の昼食に匹敵する量の食事を賞味する青年の姿を眺めつつ、義母の皿と同じ、橙色の半球が二つ並んだ目玉焼きをつついた。塩のみで味付けされた、素材本来の濃厚な風味が際立つ卵は間違いなく美味い。なのにどうしてセレーヌの舌は喜びや満足よりも、煩わしさを覚えてしまうのだろう。

 絶妙な加減で焼かれた卵の他にも、香ばしい麺麭や牛乳は、以前のセレーヌなら瞬く間に平らげていた品々である。大好物を前にしているのに、成長期の食欲は萎えるばかりでぴくりとも刺激されないのが本当に不思議だった。

 どうにか目玉焼きを残さず口に運び、杏の蜜漬けがたっぷりと盛られた麺麭を一口だけ齧る。そして少女は口内の水分を残さず奪う、常人ならば胸焼けする一口を牛乳で流し込むと、

「これ、お前にやる。……今日の仕事は大変なんだろ?」

 端が欠けた麺麭が乗った皿を夫に押し付けた。

 どちらかといえば甘味よりも辛い物を好む、ごく一般的な成人男性の味覚を持つ青年は、山盛りの蜜漬けを直視した途端に肉が薄い頬を引き攣らせる。

「あら、セレーヌちゃん。もういらないのかい?」

「ええ。もう満腹なんです」

 義母の気づかわしげな視線を背に受けると心が軋むから、少女は駆け足で汚れた皿を流し場に運んだ。

「俺はいいから、これは君が食べるべきだよ」

 けれど台所から居間に戻ると、真っ先に自分の席の前に戻された皿が視界に飛び込んできて。

 ここ最近のセレーヌの食欲不振を知るフィネは、少しばかり線が細くなったセレーヌの身体を気遣ったのだろう。

 きちんと食事を摂ることは生活の基本だから、それだけは蔑ろにしてはいけない。

 穏やかだが有無を言わせぬ口調でこんこんと諭す青年が正しいことは、十分承知している。だけど無理に詰め込むと、後で堪えきれない吐き気に襲われてしまうのだ。

 一度嚥下した食物が胃の腑からせりあがってくる不快感や、喉を焼き尽くす饐えた酸の味は筆舌に尽くしがたい。けれどそれ以上にセレーヌの胸を蟠らせるのは、折角ミリーが用意してくれた食事を無駄にしてしまったという事実だった。

 こっそりと吐き出されてしまうぐらいなら、フィネの糧となって本来の役割を全うする方が、食べ物たちにとっても幸福だろう。

 迷い悩んだ末に辿りついた結論なのだが、フィネは中々セレーヌの葛藤を理解してくれない。

 もしくは、フィネがセレーヌの申し出を頑なに拒絶するのは、弾みで娶った妻のことを嫌いになってしまったからだろうか。彼はもしかしたら、セレーヌとの結婚を後悔しているのかもしれない。修道院から追い出されたばかりの大して役に立たない子供ではなく、もっと気が利く妻を貰えば良かった、と。だから一週間ほど前の、誕生日を迎えた日の夜に「独りは寂しいから一緒に寝たい」と頼んでも、首を縦に振ってくれなかったのだろうか。

 セレーヌはただ、夜毎繰り返し見る過去の悪夢から守ってくれる、人肌のぬくもりと安らぎを欲しただけなのに。なのにフィネは「そんなことをしたら男としての俺は母さんに殺される」と意味が分からない言い訳を弄してセレーヌを拒絶したのだ。マリエットと違って、普段の扱いはどうあれ確かに息子を愛しているミリーが、フィネを手にかけるなんてありえないのに。

 なにはともあれこれはきっと、堅実に築き上げてきていた夫婦仲にひびが入り始めている兆しだろう。

『私の夫は違ったけれど、殿方というのは、特に貴族階級の男性は得てして飽きっぽい生き物なのよ。私の昔の友人の夫なんて外に愛人を、それも三人も作っていたんだから。しかもうち一人は結婚前からの付き合いで、子供もいたんですって。ほんと嫌になるわよねえ』

 貴族の夫人だった頃の友人の結婚生活について教えてくれた前院長の溜息は、芽生えかけた疑心を煽り、大きくする。

 母だけではなくフィネにまで見捨てられてしまったら、セレーヌはこの世で生きている意味を今度こそ本当に失ってしまう。

 ――だから、どうかわたしを捨てないでくれ、嫌わないでくれ。

 少女が打ち捨てられ雨に濡れた子犬の眼差しで無言の懇願をすると、潤んだ瞳には久方ぶりに光が灯った。

「仕方ないな」

 どうにか数十回目の「今回だけ」を引き出すと、どうやら自分はまだ見離されていないらしいと安堵できた。

 青年は山盛りの杏どころか、汁を極限まで払いのけた麺麭をどうにか口に押し込んだ。

「……なるべく早く帰ってこいよ。約束だからな」

 長い朝食も終わり、夫の逞しい背を見送った少女は割り当てられた家事に普段以上に素早く取りかかる。忙しなく手や頭を動かしている間は、母の面影から逃れられることが何よりも嬉しかった。

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