空の檻 Ⅲ

 甘橙オレンジ巴旦杏アーモンドの花の香りが入り混じる甘やかな風が、茶色の毛先を嬲る。噴水は燦燦と降り注ぐ陽光を浴び水晶のようで、白大理石の台座に立つ女神は嫋やかに微笑んでいた。つい一年前に、国王の退位を迫る軍人と近衛兵の乱闘を、その美しい目に映したのだとは想像できぬほどに。

 南の地から伝来した唯一神教に国教の座を奪われた古い神話は、零落した後も命脈を保ち続けた。炉端で紡がれるお伽噺や、はたまた美術品の主題として。

 古の神々の像に守護された庭園は春の盛りを迎えて輝き、幾何学的に刈り込まれた庭木の群れは訪問者を宮殿へと案内する一方で、たわいのない迷路となって人々を楽しませる。

 少年であった時分は父の付き添いとして。心の臓の病のために父がまさしくぽっくりと逝ってしまってからは、当主として足を運んだ旧宮殿。現在はルオーゼ共和国の執政の場所に赴く頻度がいや増したのは、レイスの記憶が正しければ去年の秋が始まりであった。

 レイスは幾度となく議場に赴き、名高い医者や高名な学者だけでなく著名な政治家に意見を求められ、共に論議を交わしてきた。けれども一向にこの華やいだ雰囲気に慣れないのは何故なのだろう。

 正装を求められる場に参上する際のために仕立てた上質な革靴の下で、白亜の玉砂利がざりざりと擦れ合う。耳に快いとは評しがたい軋みから逃れるように頤を上げれば、広がっているのは雲一つない快晴であった。

 ――どんな時でも、しゃんと背筋を伸ばしていろ。

 ふと鼓膜を刺激した亡父のだみ声が懐かしかった。父の人使いと気性の荒さは筋金入りで、レイスとフィネは何度あの鉄拳を食らわせられたか分からない。

 少年時代は時に反抗もしたものだが、父の厳格さは息子や甥の将来を慮るが故だったのだ。国中の人間に忌み嫌われる職を継いだ現在のレイスは、父の憂慮を十分に理解しているし、とうとう最期まで言葉に出すことはできずじまいだったが感謝してもいた。堪えきれぬ嘔吐感と鼻が曲がりそうな腐臭立ち込める徒弟時代がなければ、自分が全国の死刑執行人の頭として政庁に招聘されることもなかっただろう。

 鏡のごとく磨き上げられた飴色の廊下。その突き当りの、比較的人目に付きにくい議場では、政体が変じてもなお濃い闇の中に佇む領域に光を当てられていた。即ち、未だ旧来の法に支配されている刑罰の適切性が論議されているのである。

 執行する側だからこそ余計に辟易とさせられるルオーゼの刑罰の残酷さは、近隣諸国には蛮行の最たるものとして度々非難されてきた。特に数十年を超える同胞同士の争いを繰り広げている南方からは、異端の誹りと共に声高に。

 何も峻厳なる山々の向こうから顧みずとも、確かにルオーゼの処刑法は残虐非道そのものだろう。専用の器具によって指の骨や頭蓋骨を圧迫しても、魂までは縛められない。鋭利な刃で肉を徐々に削り取っても、彼もしくは彼女の誇りをも削り取ることは不可能である。

 拷問によって得られる情報などほとんどが屑石。利用価値のない石の山からは時に金剛石が発掘されもするが、それとて一顆か二顆程度に過ぎない。収穫・・につぎ込んだ労力に釣り合うのかと問われれば、即座に首を横に振らざるを得ないだろう。

 南方ではルオーゼと雑多に纏められ異端の烙印を押される聖女崇拝の北の隣国では、現女王の御代になってから極刑はともかく拷問は廃止されている。ルオーゼが彼らの影響を受けて法の見直しに乗り出すのは至極当然の流れであった。あるいは遅すぎるぐらいだったかもしれない。

 レイスは今日の議論の槍玉に上がった刑をただ一度だけ執行した経験がある。もっとも、当時はまだ現役だった父の手伝いという立場でであったが。時に、三日三晩をも越える責苦の末の、凄惨な断末魔を。時に、あらかじめ息の根を絶やした上での、刑の執行を。為政者の意向によって苦痛の度合いが大きく左右される罰の犠牲者は、玉座に手が届く地位にある人物やその取り巻きが多かった。そして一月後にはレイスがその首と胴体を仲違いさせると決められた人物は、かつてはいずれ王位に登るのだと半ば約束された身であったのだ。

 元王弟ルベリク・アルヴァスの逃亡事件が発覚してからの政府の動きは迅速そのもの。この一件により身柄が確保され次第国家反逆罪に処せられると決定した男の人相書きは、パルヴィニー中で配られていた。王弟の逮捕に貢献する情報を提供した者には多額の報奨金が与えられる、との注意書きが目を惹く一葉は、まさしく落ち葉か花弁のごとく首都を埋め尽くしている。

 礼金の桁外れの額は文字を解する者の口から解さぬ者の耳へと流れ、華の都は目を血走らせ一攫千金の機会を掴まんとする人々の欲で賑わっていた。加えて、普段は首都の治安維持に努める憲兵に捜索の命が下ったのだから、王弟の命運が尽きる日は存外すぐにやってくるだろう。

 事件がこのまま然るべき終焉に辿りつけば、レイスは処刑場に引っ立てられた彼と顔を合わせることになる。この手で屠った元国王やその妻の顔は記憶に新しいが、レイスの頭には生憎、話題の王子の容貌についての仔細な情報は蓄えられていなかった。王子は「白金色の髪の、まさしくお伽噺に出て来る王子様のような美男子」だったらしい。だが、同じ性別に属する人間の容姿の良し悪しなど、レイスにとってはすこぶるどうでも話題であった。そんなことに費やすぐらいなら、今日の日記に書く事柄でも吟味した方がまだ時間を有効に使える。

 そう。レイスは確かにほんの数瞬前までは、元王族の顔の特徴など気に留めたことはなかった。だが――

 街を闊歩する軍人に押し付けられ、すぐさま上着の隠しに放り込んだ人相書き。ちらりと一瞥しただけの容貌が、つい最近顔を合わせた少女のものと重なってしまった。従兄の妻となった少女と王弟の間には、何らの縁もないはずなのに。

 奇妙な酷似に覚えた焦燥に急かされ、胸元に縫い付けられた袋からくしゃくしゃに丸まった紙切れを取り出す。丁寧に皺を伸ばした紙に印刷された容貌は、従弟の妻となった少女のそれと酷似していた。元来繊細な目鼻立ちに甘さを添える垂れ下がった目尻も。つんと尖った小さく形の良い鼻も。丁度いい厚みの唇の形も、何もかも。

 あの可愛らしい少女を少年にし、子供っぽい丸みを削いで二十程度年齢を重ねさせれば、こんな顔になるのだろう。似顔絵はレイスの想像をそっくりそのまま形にしていた。

 今の今まですっかり忘れていたが、あの少女の顔をどこかで見たことがあると思ったのは、勘違いなどではなかったのだ。

 セレーヌは王弟に、そしてレイスが処刑した元国王に似ている。珍しい白金の髪に明るい緑の瞳という特徴まで共通しているのだから、並べてみればそれこそ兄妹か親子のようだろう。赤の他人であるとは信じがたい、空恐ろしいまでの類似であった。だが、従弟の妻と王弟が瓜二つなのは、ただの他人の空似であるはずだ。度重なる死産や流産に加え、無事に生まれ落ちた子の相次ぐ夭折に王妃共々諦めきっていた王ならばともかく、あの王弟に限って御落胤などいるはずがない。

 品行方正な王子と見做されていた人物に関するおぞましい噂が市井に流れ始めたのは、幼い娘を持つ親に怖気を震わせる事件が頻発するようになった八年前の夏だった。十数年前から散発していた女児連続失踪事件。その犯人は、宮中に数多侍る妙齢・・の女性たちは歯牙にもかけぬ清廉潔白な次代の王で、消えた少女たちは口にするのも憚られる悪癖の犠牲になっている。最初に重い口を開いてこう語ったのは、いったい誰だったのか。

 胤が生命を育む苗床に芽吹いたとしても、選ばれた畑が更地にされてしまうのであれば。ましてやその土壌が、新たな命を育むに足る肥沃さを備えていない未熟なものであれば、胤が蒔かれても果実の収穫など望めるものか。

 慣れているレイスでも――むしろ、腐り果ててゆく死体がどういう物なのかを嫌というほどに知っているからこそ受け入れられなかった嗜好は、ただひたすらにおぞましい。流言は前後して頻発するようになった突発的な課税に反対する暴動や国王の戦争責任を問う議論のために、人々の注目の的になることはなかった。けれども耳にした者の憤りを呼び覚ますには十分に衝撃的な内容のために、なおも人々の記憶の片隅に残っているのである。

 だからこそレイスは、王弟の容貌を朧にしか記憶していなかったのかもしれない。あくまで噂に過ぎないとはいえ彼の嗜癖は、渦中の人物の他の要素を見えなくさせてしまう。処刑してこの世から滅するしか手の施しようがない行為を愉悦とする人物に、実子など存在するはずはないのだ。屍は子を孕みも生み落としもしないのだから。

 痩せこけていて見るからに路上生活者といった体をしているのに、細すぎる腿から腹部にかけて飛び散った体液を除けば奇妙に小奇麗な亡骸は、この庭園の生垣に隠れるように転がっていたらしい。

 鼻を摘まみながら宮廷を汚すの処理を王都の死刑執行人に申し付けた近衛兵は、真実の幾ばくかを把握していただろう。だが、遺体の状態を不審がった死刑執行人が、子弟に解剖を命じるとは考えもしなかったはずだ。

 結局レイスとフィネが共同で纏めた調査書は、結局は自宅の倉庫の奥深くにしまい込まれることとなったため手元に残っている。だが、見返そうとは露ほども思えなかった。蒼い花弁が散らばり澱んだ紅の蔦が這う幼女の腿など、もう二度と直視したくはない。

 この麗らかな青空と生命溢れる庭園に似つかわしい、何か明るい話題はないものだろうか。目を閉ざしたがゆえになお一層生々しく浮かび上がる過去を頭を振って追い払った青年は、ひっそりと佇む菫を見出し微笑んだ。開いた若芽の初々しさは、従弟が何とはなしに口にしていた喜ばしい出来事を連想させる。

 新年の祝いの後に自分たち一族の仲間入りを果たした少女は、十四年前の春の盛りに生まれてきたらしい。とすればあの少女は、もう誕生日を迎えているはずだ。従弟たちはきっと、叔母が拵えた豪勢な料理を囲って、家族三人だけの誕生会を開いたのだろう。そして彼らは様々な日常と非日常を積み重ね、決して短くはない時間をかけながらも着実に夫婦になってゆくのだろう。

 背を伸ばして眺める首都は様々な活気に彩られている。青年の頬を撫でる春風は、近くて遠い旧都にも吹き渡るはずだった。

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