空の檻 Ⅱ

 華奢な器の中で揺れる赤みがかった琥珀色の液体の香気も、白磁の皿に盛られた薔薇の花弁を煮詰めた甘煮の味も、故郷のものとは微妙に異なる。山岳地帯に位置するが故に、国土に様々な気候帯を含んでいたペテルデ地方。その東部の比較的温暖な地域こそがエルメリが生まれ――もう三十年近く前に、家族や持ち運びできる資産と共に命からがら逃げ出した故郷だった。

 多くは草原から成る東部と、沙漠すら存在する乾いた西部の境界線でもあった山脈。そこで育まれる植物の風味は、いずれも素朴だったが濃厚で力強い。一方、小さな卓の上に並べられた嗜好品の後味はすっきりとしているが、洗練されすぎていてどこか物寂しかった。しかし、両者をあれこれと比較して優劣を付けるのは愚かな行いである。どちらも共に、他では得難い馥郁とした素晴らしさを備えているのだから。

 透き通った窓の向こうに広がる自然もまた、今でも目の奥に焼き付いている懐かしい風景とは異なっている。

「あなた」

 けれども最もエルメリの過去と現在を隔てるのは、向かいの席に座って一枚の手紙に目を落とす男の存在だろう。

「そんなに睨んでいると、手紙に穴が開きますわよ。……なんて言っても、今のあなたには何も聞こえていないでしょうけれどね」

 久方ぶりの息子からの書状に食い入るように目を落とす夫の耳には、やはり妻の囁きなど入らなかったらしい。夫はその伏せた目をエルメリに向けてはくれなかった。彼は熱中すると周りが見えなくなる性分だから、仕方がない。手紙には余程重要なことが記されているのだろう。

 エルメリの夫アランはより深淵で幅広い知識を求め、首都の大学で勉学に励んだ好学の士であった。一般の高位貴族は、子女の勉学は専属の家庭教師を雇って済ませて当然とされていた時代に、である。

 国内有数の大貴族の家に生まれながら、そちらの方がより多くを学べるからと、平民の友人と共にこれまた貴族出身ではない教師の下で青春を費やした夫。彼の変人の誉れは学生時代から既に名高かったが、その名誉ある・・・・称号を閉鎖的な貴族社会に知らしめたのは、しがない亡命貴族の娘エルメリとの結婚であろう。

 学生が多くたむろする街区での偶然の出会いと数回のたわいのない逢瀬の後、いきなり結婚を申し込まれた時は、これは性質が悪い冗談に違いないと憤慨したものだった。

 母国から神と国家の敵なる烙印を押された、位だけの異国の貴族の娘を正妻として娶って得るものなど何もない。それは、エルメリ自身が痛いほど理解していた。そんな自分がまともな結婚の機会を掴むなどありえないことも。事実、若かりし頃のエルメリに申し込まれたのは、数多の妾と庶子を抱えた貴族や、既に孫もいる好き者の資産家からの申し出ばかりだった。それも、妾に迎えたいとの。

 エルメリは財産や家柄はともかく、生まれ持った容貌にだけは恵まれていた。既に斜陽に差し掛かっていた帝政が故郷を支配していた頃、皇帝の後宮に入らないかと中央から派遣された官吏に誘われたこともある。君の美貌なら皇帝の妃の座も射止められるだろうから、と。

 一人の夫に一人の妻を定めた唯一神の教えに逆らう愚物や色魔の囲い女となる屈辱を味わうよりかは、自決して誇りを保った方がまだ幾分かましである。だが家族の命と生活がかかっていては、いつまでも我を通してばかりではいられない。

 後宮に入れとの腹立たしい申し出は、父がどうにか断ってくれた。だが頼りの父は故郷から離れてからは日増しに窶れ、なけなしの財産もどんどんすり減ってゆく。ゆえにエルメリは、困窮に近づく家族のためにも、本意ではない縁談を了承するしかないと決意していた。だからこそ、これが最後の輝かしい時間となるだろうと了承した逢瀬の際、唐突に薄闇に覆われていた人生に射した一筋の光を直視することができなかったのだ。

 それから結婚に至るまでには紆余曲折があったが、こうして二人きりで心穏やかに午後の一時を共有するに至るまでは案外短かった。

 他方は学問に、他方は武芸に。妙な拘りが父親に似てしまったが実直な一人息子と、可愛い義理の娘が共に自分たちの下から巣立って久しい今、エルメリの最大の幸福は、息子夫婦の近状を知ることであった。

 ルオーゼの文語を完全には習得しきれていないエルメリが子供たちと手紙をやり取りするには、夫の助力が必要不可欠である。エルメリ同様に異国で、しかも海を越えた大陸西部で生まれたレティーユは、幼少期にルオーゼの貴族の令嬢が授けられる教育を受けたため、それなりに文章を読み解けるのだが。

「ジリアンは、何て?」

 白磁の陶器の口に優雅にくちづけ、香り高い液体で舌を湿らせた女は、もう一度夫に声をかける。

「――ああ、エルメリ」

 すると夫はようやくそれらしい反応をしてくれた。噛み砕くように丁寧に語られたのは、現政権を担う者たちにとっての悪夢が現実となってしまったという知らせであった。約半年ぶりに娘が屋敷に帰ってくるのは喜ばしいが、その原因を思うと複雑である。

「……あの王弟殿下が離宮から逃げた?」

 エルメリ達ナスラキヤ人は一般的に、廃されたルオーゼ王家に対して良い心情を抱いていない。それは数十年前の、領土拡張を目指した大軍の派兵のためである。夫の兄を始めとする多くの将校や一般兵が死した戦は、ルオーゼにも深刻な影響を齎したのだが、戦場となった故地の被害もまた酷いものだった。ナスラキヤ人は、国家の分裂の騒乱に付け込み、火事場泥棒同然の賤しい手段で自分たちの土地を毟り取ろうと目論んだ王の浅ましさを絶対に忘れない。故国の皇帝同様、ルオーゼ最後の王もまた廃位されて当然の人物であった。

 エルメリがかつての王家を、特に渦中の王弟を忌み嫌うのにはもう一つの理由がある。故国から逃げ遅れた親類たちは皆、貴族の無差別大量処刑の犠牲となった。革命勃発当時は十二歳の少女だった娘や、生まれたばかりの赤子も、全て。その報を受けたエルメリや父母の眼から涙を搾り取った悲哀にも匹敵する出来事への怒りは、八年の歳月が過ぎてなお胸の奥で燻っている。だからこそ息子には一刻も早く逃亡者を捕まえてほしいし、それは夫も同様だろう。

「でも、離宮から脱出したはいいものの、これからどこに行くつもりなのかしらね?」

「そうだな。目指す場所が分かれば逃亡経路を割り出しやすくなる。きっとジリアンも今頃、私たちと同じことを考えているだろうね」

 かつてのルオーゼは現在のノルバとトラスティリア両王国の領土を版図に治め――海に面する国土を多く有していた。しかしその土地は第一王朝の崩壊に伴う、諸侯たちの玉座を巡る百年の戦乱を経て失われてしまっている。

 新たに内陸の農業国として蘇ったルオーゼはそれでも立地に恵まれており、大陸中部の北と南を分ける山脈と、国土の東側に広がる森林地帯や湿地帯が、外敵の侵入を阻んでくれている。時折大陸東部から侵入してくる東方の異民族は、北の半島に位置するノルバ王国の海軍が追い払ってくれるのだから、ノルバと条約を結びさえすれば北の防衛に頭を悩ませる必要もない。

 東西に自然の障壁が存在しないために、遙か昔から多くの異民族の蹄の侵入を受けたペテルデ人からすれば、羨望の的であるルオーゼ周辺の地形。けれどもそれは、他国への亡命が困難であるとも言い換えられるのだ。唯一あり得る可能性としては、国土を西に抜けてトラスティリア王国に庇護を頼みにするとの仮定が挙げられる。だが目下の情勢は、その可能性を否定していた。

 かつての大帝国の栄華を再び手中に収めるためならば手段を選ばないトラスティリア王国は、レティーユの故郷アルラウト帝国の内乱に積極的に介入している。これほど長引くとは誰も予想していなかった戦乱に加担している国が、ルオーゼとの戦争の引き金ともなり得るお荷物を抱えるなど。正常な神経と思考回路を持つ者ならば、一笑に付しそうな無謀極まりない夢物語だった。

 すっかり冷めてしまった紅茶で喉を潤し、最後の薔薇の花弁を匙で掬う。舌の上でふわりと広がる芳香は甘やかでありながら清冽で、すっきりと筋が通った鼻をも喜ばせた。

 ちらと再び思考の迷宮に足を踏み入れた夫の側を見やれば、小皿の中の鮮やかな紅色は一口分も減っていなかった。

 行儀の悪さを自覚しながらも、繊細な透かし細工が施された皿の縁を指で持ち上げる。エルメリが貴族の夫人にしては食い意地が張っているのは、過去が影響しているのかもしれない。

 困難を極めた逃亡生活。特に、ルオーゼとナスラキヤを隔てる万年雪を戴く山脈を超えている最中の食糧と言えば、干からびた麺麭と干し肉に干し果物だけ。飴を始めとする手の込んだ甘味など、夢でしか味わえなかった。

 子供たちの前では自制していたし、夫も大目に見てくれているはずだ。エルメリが空にした皿を元の位置に戻しても、夫は妻の行動に気づかない。しかし給茶器サモワールから二杯目の紅茶を注ぎ、そっと彼の前に差し出した途端、気だるげに伏せられていた目蓋がはっと持ち上げられた。

「――ルトだ」

「な、なあに? ルトがどうかしたの?」

 がしがしと髪を掻き乱し、ペンと紙はどこだと騒ぎ立てるのは、大切なことを思いついた際の夫の癖でもあった。夫は程なくエルメリの眼差しと指摘から上衣の隠しに収めた筆記具に思い至り、真白の平面の上に黒い線で簡略化したルオーゼの地図を描く。首都から伸びた街道の一つの先にあるのは、あの王弟の領地であり、国難が生じれば臨時の首都の役目を担うこともあった旧都だった。

「君も知っているだろうが、ルトはあいつの領地であった関係上、王家を支持する輩が――そのほとんどは一部の上流階級や王家から支援されていた聖職者たちだが――多かった。一年前に王制廃止の声明を公表した際、危ういところで食い止めたとはいえ、暴動まで起きかけたからな」

「ええ、そうね」

「だからこそ、現在でも表向きはどうあれ、内心では王家の復活を狙う輩がいるだろう。それにルトなら、人込みに紛れ、外国に向かう商人にでも化けて国外に脱出できる。それに、」

 夫の真摯な表情は、過ぎ去った冬の慌ただしい出来事を連想させた。短い人生を無残に閉ざされるはずだった少女が、新たな人生を歩み出すに至った経緯を。

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