空の檻 Ⅰ

「お帰りなさい、お兄さま」

 橄欖石ペリドットの瞳を煌めかせ、珊瑚の唇をほころばせた妻を、今すぐ抱きしめたい。しかし青年は迸る衝動を抑え、青の上衣を脱ぎ捨てた。上下を合わせれば幼児一人分に匹敵する鉄の重りを仕込んだ服を着ていては、妻の豊満な肢体の柔らかさを堪能できない。それに、レティーユが痛い思いをしたら可哀そうだ。

「ただいま、レティーユ」

 どすっ、と衣服にあるまじき衝撃音を発して床に崩れ落ちた一着には目もくれず、愛しい妻を抱きしめる。

「いつ聴いても相変わらず、凄い音ね……」

 普段は穏やかで柔らかな彼女の声が引き攣れていたのは、聞き間違いではないだろう。何故かは分からないが母は、ジリアンが十代半ばから始めたこの訓練を気に入っていない。折角私そっくりの顔に生まれたんだからだの、世間に知られたら恥ずかしくて外を歩けなくなるから止めなさいだの、事あるごとに手紙で小言を述べて来る。この鍛錬を始めてからジリアンの握力は増強し、また攻撃の速度や切れ味、速度も飛躍的に上昇したのに。第一、母はほとんど父の屋敷で過ごしていて、屋敷の敷地から出るなど年に数回あるかないか程度なのに。

 小言を「仕事の役に立っているから」と跳ねのけ続ける息子に業を煮やしたのだろう。母は最近、養女でもあるレティーユを自分の陣営に引き込んで、ジリアンを懐柔しようとし出した。

「ねえお兄さま。身体を鍛えるのはいいことだけど、何かの拍子にその服が足の小指に落ちて、骨折でもしたら大変だわ」

 この次に紡がれる言葉は分かり切っている。だから服に重りを仕込むのはやめにしたらどうかしら、だ。

 気に入らないお決まりの文句は、くちづけで封じるに限る。途端に力が抜けた肢体をさらに強く抱き寄せ、二つの白桃の間に顔を埋めると、指先にまで絡んでいた緊迫感が少し和らいだ。

 乳脂クリームのように滑らかで肌理細やかな皮膚から立ち昇る香りを胸一杯に吸い込み、頬に吸い付くぬくもりを堪能していると、妻をそのまま寝台に横たえたくなってくる。だがその欲望は抑えなくてはならなかった。

「お兄さまったら。夕食もまだなのに、気が早すぎるわ」

 彼女が指摘する通り、自分たちはまだ晩餐を済ませていないし、レティーユに伝えねばならないことがあるのだから。

「もうお食事にしましょう? お兄さま大分お疲れみたいだから、しっかり栄養を採って、ぐっすりお眠りになった方がいいわ」 

 労わりに溢れた囁きは、忘れかけていた食欲と、昨日の朝食以降はろくに食物を口に入れていないのだという事実を思い出させた。広大な館を抱く茫々たる森をほぼ一日中駆けずり回っていたのに、その間ちらとも空腹感を覚えなかった理由は明らかである。

 伯父が死した戦を最後にルオーゼが他国と刃を交えていない関係上、ジリアンは実際に戦場に立った経験はない。それでも国防を担う軍人になるべく育てられた自分ですら一瞬は目を逸らしかけ、気の弱い部下たちは嘔吐を催してしまった光景は、細部は薄れかけたとはいえ今でも眼裏まなうらに焼き付いてしまっていた。何より、帰宅する直前に拝命された任務の重みは、たわわなふくらみと接する胸板の奥を締め付ける。あまりにも突然生じた出来事の詳細は、繊細な最愛の妻であり妹に少なからぬ衝撃を与えるだろう。けれどもたとえレティーユには秘密にしていてくれと使用人たちに頼んでも、いつかは彼女の耳に入ってしまうに違いなかった。ならば自分自身の言葉を用いて、既に起こったこととこれから起こることを伝えた方がよい。

「レティーユ」

「今日の晩御飯の主品メインは、お兄様が大好きな海老よ」

「……それは嬉しいけど、違うんだ。僕が言いたかったのは、そういうことじゃなくて、」

 ひしと抱き留めていたぬくもりから腕を離し、長い睫毛に囲まれた双眸を真っ直ぐに覗きこむ。ルオーゼにおいては類まれな瞳には、僅かな不安と嘘偽りを許さぬ真摯な光が宿っていた。

「話したいことがある。だから、」

 夕飯の時に、と後に続くべき言葉は、

「分かったわ。でも、それは入浴を済ませて――寝室に入ってからにしましょう」

 しなやかな人差し指を薄く整った唇に押し当てた妻の悪戯っぽい微笑によって、あっさりと封じられた。

「食事の時ぐらい、仕事のことを忘れてくつろがないと駄目よ。お兄さま、ただでさえお仕事に励みすぎているんだから」

 細い顎や首筋から鎖骨の線を確かめるように撫でた手は、細くとも鋼のごとく鍛え上げられた筋肉を纏う腕に巻き付いた。

 妻に促されるまま、妻と共に食卓に着く。一日半ぶりの温かな食事は強張りかけていた舌の根を解きほぐし、一時は惨憺極まる光景を頭の片隅に追いやった。

「それで、私にお話したいことって?」

 積もり積もった疲労と汗を温かな湯で洗い流し、夫婦の寝台に腰かけたジリアンの傍らには、寝間着を纏ったレティーユの姿がある。

「あいつが――ルベリクが離宮から逃亡したんだ」 

 火影を映し艶めく頬は、八年前に彼女を、そしてジリアンをも苦しめた男の名を押し出しすやいなや、一切の血色を喪失した。

「レティーユ! 大丈夫かい?」 

「……ええ」

 支えを失って崩れ落ちた肢体を掻き抱く。今腕の中に在る肉体は、森の中の宿営所に転がっていた痛ましい亡骸が失った熱を備えているのだと確認するために。


 軍部どころか新政府の面々の沈痛の種となった騒動は、ある兵士のたわいのない配慮から発覚した。

 首都パルヴィニーを守る憲兵は、ジリアンが束ねる第二中隊の他に、各界の要人が集まる元王宮にして現政庁付近を警護する第一中隊によって構成されている。将校へと上り詰める門戸が平民には閉ざされていた時分に入隊し、王制廃止を機に大尉に任じられた男が治める部隊の警護域には、ルベリクが幽閉されていた離宮を抱く森も含まれていた。

 第二中隊はもちろん、第一中隊も幾つかの分隊に分かれて交代で任務をこなしている。だが、その長を含む隊員たちが、交代の時間になっても戻ってこない。この事態を不審がった第一中隊所属の新兵は数人の同僚と共に森の宿営所に赴き、地獄を発見したのである。

 逞しく日焼けした顔から涙と汗を滴らせ、時に口籠りながらも、目の当たりにした惨状を伝えてくれた新兵。彼の求めに応じ、部下と共に赴いた現場に待ち受けていたものは――

「……た、隊長。これ……」

 数十人の男たちの遺体の群れ。彼らが息絶えたのは夕食時だったらしく、そこここに陶器の破片や、食卓から転がり落ちた匙が散乱していた。食卓を濡らす水差しの中身や冷めた汁物が、床までにも。

 水分を吸ってふやけた麺麭パンを踏みしめる感触は不快そのもので、吐瀉物の饐えた臭気、乾酪チーズと微かな鉄錆の匂いは鼻腔を刺激する。面識があるとまではいかなくともどことなく顔に覚えがある者や、親しく言葉を交わした者たちの喉元には、掻き毟った痕があった。

「……今は、泣くな」

 倒れ伏す彼らの中に友人の姿を見つけたらしき部下の一人の肩に手を置き、苦悶に歪んだ面を直視する。

「死因は――夕食に毒を盛られたんだろうな」

 一度にこれだけの、しかも国軍に所属する軍人が殺害されるなど。ただ一人を除く被害者たちにこれといった致命傷が見当たらない点を踏まえても、毒殺以外は考えられなかった。

「で、でも隊長。カヴール殿は……」

 普段は騒がしい雀斑顔の部下ユーグは、宿営所の遺体の中でただ一人血に濡れた剣を握り、身体に多くの傷を刻んだ男の亡骸の側で呆然と立ち尽くしていた。軍部での階級は同等ながら、息子と同じ年頃のジリアンとも対等に接してくれた男は、見るも無残な有様だった。厚い胸に、太い首に、逞しい四肢に、おびただしい刺傷がある。彼の妻子が目にすれば、その場で卒倒するか泣き崩れてしまうだろう。

 軍服を己が血で染めた男の死の有様が示すのは、ただ一つの事実であった。

「こういったことはあまり考えたくないが、内部犯の仕業だろう」

 離宮の捜索に向かわせていた部下の報告によると、やはりルベリクの姿は離宮からは消えていて、館の周辺には銃で額や心臓を撃ち抜かれた遺体があった。つまり、職務からルベリクに接触する機会がなくはない第一中隊の隊員の誰かが仲間を裏切り、逃亡に手を貸したのだ。

 犯人はまず夕食に毒を混入することで、同僚の命を無残に奪ったのだろう。宿営所の食事は、麺麭や乾酪等のその場で拵えるのが困難な物以外は、食材を持ち込んで休憩時間中の皆の手で作られていた。第一中隊に属してさえいれば、計画の実行に移すのは容易である。そしてその後犯人は、見張りに当たっていたために夕食の席に現れなかった者たちは、そのまま離宮で殺害したのだ。カヴールは何らかの異変に気づき毒で痺れる手足を叱咤して犯人を制止しようとしたものの、力及ばず反撃を被ったのだろう。

「じゃあ、犯人は……?」

「それはまだ分からない。昨日離宮の警備に当たっていた者の中で、この場に遺体がない者がいたら、まず間違いなくそいつだろうが、」

「……遺体は全員分あります。その、お一人だけは、他と様子が違っていましたけど」

 宿営所の前に並べられた遺体のうち、震える指で指し示された遺体を見分する。物言わぬ冷たい肉塊となって横たわる男の首筋には、生々しい赤桃色の裂け目を晒した傷口が刻まれていた。

 彼に致命傷を与えたと思わしき裂傷は、他とはあからさまに異なっていた。毒によっては死に導かれなかった男達のほとんどは銃撃によって落命しているのに、その死体には銃創が見当たらない。だが男の傷は、同じく剣によって絶命したカヴールのものともまた違う。カヴールを絶命に至らしめたのは国軍によって支給される銃剣だとその傷口の様子から判断できる。だが、青年の首を傷つけたのはまた違う刃物だ。

 またカヴールの身体の傷はその数といい、深さといい、何らかの執念と不安が感じられた。仕留めそこねて反撃されてはと恐れ、必要以上に執拗に刃を振り下ろしたかのように。けれども青年の傷は、彼はそれなりに剣の扱いに慣れた何物かの、迷いない手によって一撃で屠られたのだと示していた。

 本来この森の中にいるべき人物で、訓練を受けた軍人には及ばずとも、ほどほどに武器を扱える人物は誰か。その答えを導きだすまでに要した時間はごく僅かだった。

 最高の教育を施される王族。特に、次代の王となるだろうと噂されていた男が、剣の扱い方を知悉していないなどありえない。あの人間の心を持たない化物ならば、離宮からの脱出が半ば成功しかけた時点で、青年を躊躇なく切り捨てても不思議ではなかった。

 この仮定が正しいとすれば、あの男には他にも協力者がいるはずだ。ならば一刻も早くこの一件を上層部に報告し、全軍で警戒態勢を敷いてルベリク確保を急ぐべきだ。

「――行くぞ」

 遺体を積んだ荷車を押しながら森を出た刻には、太陽は既に天頂から転がり落ち、昼食時などとうに過ぎていた。

 部下たちはジリアン同様、食欲が湧かなかったのだろうか。それとも、気力で堪えていたのか。いずれにせよ部下たちは皆、藍色の空で金銀の星が瞬く頃合いになっても、空腹も疲労も訴えずに、事件の後始末に専念してくれた。

 ある者は首都に居を構える遺族に連絡を取り、ある者は地方で暮らす遺族に送る手紙を認める。身寄りがない兵の埋葬の手続きについて相談するため、教会に駆け込む者もいた。一方ジリアンは上層部の面々と共にこれから取り掛かるべき措置について論議を重ねる。

「亡きカブールに代わって、無残にも命を落とした同胞のためにも、必ずやあれを捉えよ」

 数刻に及ぶ論議の末、最終的に下されたのはどんな手を使ってでもルベリクを再び首都に引きずり戻せ、との命令であった。

 ジリアンはそれから早急に形成された捜索隊と共に、ルオーゼ全ての関所に通達を出すべく奔走した。通りかかる全ての馬車は必ずその乗員どころか荷物まで検めさせるために。


 そうしてジリアンはようやくレティーユの下に帰って来たのだが、

「だから、僕はこれから忙しくなる。屋敷に帰れない日が続くだろうし、そのうち首都を離れることになるかもしれない」

 一時の帰宅は、愛しい妻とのしばしの別離の始まりでもあった。

「あいつが潜伏しているかもしれない首都にレティーユをいさせたくない。ほとんど殲滅したけれど、王党派の残党がどこで騒ぎ出すか分からないし、しばらく父上と母上の所にいて欲しいんだ。父上たちには手紙を書いて連絡するから、できるだけすぐに」 

「……ええ。分かったわ」

 普段はしっとりと甘やかな声は、哀れに震えてしまっている。

「どうか、無理はなさらないで」

「勿論だよ」

 互いの熱が離れることを惜しむ青年は肌理細やかな肌に口づけ、女は引き締まった背に腕を伸ばし夫に応えた。

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