第二部 血
序 逃亡
煌々とした輝きに闇を暴かれる夜は脱出には不向きである。しかし金色の枠で囲まれた濃青に浮かぶ満月は、暗闇を歩む旅人にとってはこの上なく頼もしい守護者であった。
男はまんじりともせずに月光の糸ごとき白金の頭を傾け、夜を支配する円盤を仰ぎ見る。長きに渡る捕囚生活の間、細部の彫刻まで脳裏に焼き付くほど目にした黄金の窓枠。冷めた月光を跳ね返す金属に触れるのも、これで終いになるはずだった。
『承知しました、殿下』
――今宵始まる己が命運を賭けた旅の計画が始まったのは、僅か半月前のこと。男は月に一度は離宮に派遣される聴罪司祭の不満を煽り、ついに彼を己が陣営に引きずり込んだのだ。現政権によって自分たちが冷遇されていると信じ込む司祭は、男が彼の現状に憐れみと憂いを寄せる素振りを見せると、砂の城のごとく陥落したのである。
男の兄が斃される以前は、王に次ぐ第二位の権力者として聖界と俗界の一部に君臨していた聖職者たち。長年の奢侈に慣れ切った彼らの一部が、表面上は理想として掲げる清貧の修道生活などに戻れるはずはない。ゆえに聖職者は、与えられていた土地や財産が次々に国有化されゆく世情を憂いていたのだ。表向きは現政権の介入を受け入れて生き残りを図ったものの、どこにも行き場が無く露わにすることも赦されなかった嘆きと怒りは、かつて自分たちを保護していた王家の末裔への忠誠に容易く変じる。
怨嗟の炎を質素な黒衣の中に秘め隠した司祭を抱き込んでからの、事の成り行きはあっけないものだった。司祭は頼んでもいないのに自ら新たな仲間を探し出してきたのである。なぜ平民出の上官の命などに従わねばならぬのだと憤る、貴族出の若い士官を。
男が幽閉されている離宮の警備を担う部隊に所属する士官は、単純極まりない退屈な青年であった。抱えた野心と実力が見合わぬ、軍部の要職が貴族出身の軍人のみで占められていた時分でも、大した昇進はできなかっただろうと一目で判ぜられる程度には。
だが若さゆえの盲目的な実直さと、ありもしない己の才覚に対する過信は大変に御しやすい。お前を不当に貶める忌まわしい平民たちに復讐する絶好の機会だ、と吹き込めば、男は瞳を期待に爛々と輝かせた。そして、仲間たちに毒を盛り、男の脱出の手助けをすると誓ったのである。
若い士官が何らかな不手際を犯していなければ、
居室で独り運命の刻限の訪れを待つ男には、愚かにも王家に刃向かった者たちが息絶える瞬間を目撃することはできない。しかし一人また一人と、哀れなる者たちが喉を掻き毟り泡を噴きながら死んで逝く様は、さながら愉快で滑稽な喜劇の一幕のようだっただろう。惜しむべくは、冷ややかな床に倒れ伏す彼らが壮年の男や、五十年ほど昔に盛りを過ぎ、乾物同然に皺が寄った醜い老婆などだけであることか。
もしも男のために命を散らした者たちの亡骸に、年若い少女のものが混じっていたら。男は逃亡中の慰みとして、生命を喪った肉体を持ち去っていたかもしれない。滑らかな腹部が淡い青色に変色し、細い四肢が崩れ腐汁を滴らせるまでの期間は泡沫のごとく短い。であるがゆえに、刹那の快楽はより一層深みと趣を増すのだ。
労働を知らぬ繊細な指が外界と内部を隔てる透き通った板を撫でる。その冷たさは男が好む氷の肌が纏うものに似ていたが、蕾を付けたばかりの花特有の肌理細やかさと朽ちかけた百合の香りを欠いていた。そして、男が己が手で屠り弄んだ少女たちの肉体のように全てを柔らかく受け止めはない。
もしやあの司祭か士官が急に恐れをなし、自身の身の安全と引きかえに計画を密告したのではないだろうか。
待てども待てども、約束の刻限が過ぎても、男を迎えに訪れるはずの士官は一向に姿を現さない。何度振り払っても意固地に頭の中にしがみ付く最悪の可能性は、募るばかりの焦燥と死への不安をいや増した。
陶器の細工めいた指が眼前に
男の苛立ちを嘲笑うかのごとく夜空に坐す満ちた月は、既に天頂から転がり落ちている。この白金の円盤はいつか地平線に呑みこまれ、入れ違いに天空に這い出た燃える朱金の玉が暁の訪れを告げるだろう。それこそ男の命運が尽き、司祭に告げられた処刑日が早められると定まる刻なのだ。
――支配者として生まれ、支配者となるべく育てられた私が、あのような場所で絶命するなど。
男はもがく。遍く神の栄光に満ちたこの世への本当の誕生を果たさんとする雛鳥が、一度目の誕生以来己が身を守ってきた薄い鎧を鋭い嘴で割るように。籠れと強制された強固な卵の殻を苛み続ける。
そして、幻聴が聞こえるほどに焦がれた、軍靴の跟が磨かれた廊下を闊歩する硬質な音を耳で捕らえた瞬間。薄い胸の裡で一度は潰えかけた希望は爆発した。
「失礼しました、殿下」
「――随分と遅かったな。待ちくたびれたぞ」
若い士官が入室すると、決して狭くはない一室には鉄錆の臭気が立ち込めた。良く鍛えられ筋が浮いた片手は、
「毒の効きが弱かった者や、警備のために夕食を後で取ることになっていた者の掃除に手間取ったのです。殿下の眼前にこのような御見苦しい姿を晒すこと、申し訳なく思います」
整えられた毛先から紅い雫を垂らし、肉が薄い頬を血飛沫で彩る青年は、さほど剣の扱いに慣れてはいまい。真に腕が立つ軍人ならば――例えば、男の護衛を鮮やかに切り捨て、仕えるべき主君に刃を向けたあの青年であったら、軍服の大部分を血で汚し、
「それだけにしては随分と息が荒いが、もしや、手傷を負ったのか?」
「ええ。まあ、あの忌々しい平民出の大尉が一口で異変に気づきまして。やつを切り捨てるのには骨が折れました」
痺れた手足を満足に動かすこともできぬ輩から反撃を食らう無様は仕出かさないはずだ。この青年、前々から使えぬとは思っていたが、頭の方も予想以上に愚鈍らしい。命じられもしていないのに己が失態を捲し立てているのが、その何よりの証だ。
このような足手まといを連れていたら、今後の逃亡生活に支障を来しかねない。
「さあ、バルノー殿が首を長くしていらっしゃいますので、はやく外に」
「分かった。そなたの労苦と今宵の傷の事は覚えておこう――私への献身の証として」
胸中に芽生えた思惑など欠片も見せぬように部下を労う。万が一の事態が起きても身を守れるように、と手渡された短剣を握り、逞しい背の後ろに続きながら歩む道の全てが懐かしかった。
男の頬を撫でる夜風の、なんと心地の良いことか。春を謳歌する樹々の葉の騒めきと夜を楽しむ鳥の囀りの饗宴が、これほど耳を楽しませるものだったとは。
一国を支配する血族に生を受けた男は、選りすぐりの料理人の手による手の込んだ料理や、豪奢な芸術品に埋もれるように育てられた。もはやほとんどこの世にはいない身内の誕生日が巡って来れば、国一番の楽団や宮廷に侍る貴族たちを交えて誕生会が開かれていた。一家で連れだって観劇を鑑賞するのは、半ば義務ですらあったのだ。
折々の機会で耳にした楽曲は、迫りくる断末魔と激痛に怯える少女の悲鳴には及ばない。ゆえにその仔細はいずれも曖昧であるが、今この時の自然が奏でる楽の音の足元にも及ばなかったはずだ。
鼻腔をくすぐる湿った大地と緑の匂いは、これほどまでに香しいものであったのか。そして久方ぶりの再会を果たした外界との旧交を温める妨げをする、青年の荒い息がこれほどまでに煩わしいものだったとは。
掌中の短剣に目を落とす。良く手入れされた鋭い刃は月光を反射して鈍い銀色に煌めいていた。これならば、いつ首筋を掻っ切られるかも分からぬにうかつに獲物を手渡し、あまつさえ背後を許す愚か者の息の根を止めるのは容易いだろう。
決心してしまえば、実行に移すのもまた容易かった。
「では、あちらに逃亡用の物資と馬車を控えさせておりま、」
不意を衝いて太い首の皮膚の下に潜む主要な血管を引き裂けば、夜目にも鮮やかな紅の花が咲き、青年は呆然と鮮血が噴き出す傷口に手を当てる。
信じられぬとでも言わんばかりに呆然と目を見開いた青年の頭部を踏みつけ、彼の絶命を確認する。死体はこの場に捨て置いても構わないだろう。彼の仲間を屠った者の仕業だと判ぜられるはずだ。
男は天を仰ぐように倒れ伏した亡骸の、他者の古い血と自身の真新しい血に濡れた手を踏みしめ、進むべき道を辿る。宮殿と離宮を結ぶ道とは真逆に位置する、街路に続く小路の分岐路に留まる馬車では、黒い影が蠢いていた。
「ああ、殿下。ご無事で――」
藍色の夜よりも暗い色合いの衣を身に着けた司祭は、男の肌や衣服に付着した僅かな返り血に目を丸くする。
「そ、その血は?」
「案ずるな。これは私のものではない」
「では、もしやあれを……?」
「恐らくはそなたの想像通りだ。この先あれを連れていても、役に立つとは思えなかったのでな」
けれどもその驚きはたちまちなりを潜め、司祭は御英断でございましたとの一言と同時に、用意させておいた変装用の衣服を差し出した。
「……これは、何だ?」
「申し付けられていた平民の服です。鬘も用意しております。殿下の体格ならば誤魔化せるでしょう」
「それは私とて理解しているが、なぜ女物なのだ?」
若草色の布地を押し付けられ、男は困惑した。困惑せずにはいられなかった。致し方なく受け取ったそれは露出を抑えてはいるがひらひらとしていて、どんなに好意的に判断しても妙齢の夫人用でしかない。
「ただ衣服を平民の物に改めただけでは、追手に見破られてしまうやもと考慮したがゆえです。ご無礼をお許しください」
「……それは、そうかもしれぬが」
男は成人男性の平均程度の身長を備えてはいるものの線が細く、優男と称された顔立ちは、甘やかで繊細な造りをしている。司祭が指摘する通り、長い髪の鬘を被り女物の衣服を纏えば、逃亡は幾分か楽になるに違いない。けれどもしかし、王子たる自分が、女装に手を出すなど。
「火急の事態ですので」
しばしの逡巡の後に男が選んだのは誇りではなく、生命と安全であった。女の服を着ても死にはしないが、正体を知られた先に続いているのは、処刑場への引きかえせぬ一本道である。
「良くお似合いです」
手早く変装を済ませ最後に差し出された栗毛の鬘を被ると、どこか投げやりな賛辞を掛けられた。女装姿を褒められても嬉しさや喜びなど覚えるはずはない。むしろ即刻袖を通したばかりの衣装を脱ぎ捨てたくなったのだが、取り敢えずはそうかと受け流すのみに留めた。
「ではルベリク殿下。これから殿下の領地リナの――わたくし共の身内の下に向かいますが、」
「とうに承知している。夜が明けぬ裡に都を出ねばならぬのだから、一刻も早く馬車を走らせよ」
喉元は隠し胸には詰め物もしたのだから、互いの吐息がかかるほどに間近に接近されなければ、真実の性別を見破られはしないだろう。外貌ばかりは女を装った王子は煩わしい裳裾の下ですらりと伸びた形良い脚を組む。王の弟として授与された爵位と共に与えられた、一度も訪れたことはない領地の名は記憶の澱を刺激し、若葉の瞳はけぶる睫毛の影ではない翳りを宿した。
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