終 絶望の色
セレーヌは耐えていた。
「――どうして? わたしは過去に一度、愚かしい誘惑に負けて戒律を犯したけれど、既に罰を受けたのに」
柔な頬を
「……おかあさ、」
「どうしてまだ、悪魔がわたしの側にいるの? あの罪は既に清められた、と司祭様もおっしゃっていたのに」
些細な失敗をしでかし、母の気を損ねてしまうたびに振るわれる折檻と、
「どうしてあの時、誰も助けてくれなかったの? だからわたしは、今でも、」
そのたびに呟かれる意味の分からぬ戯言に。
「――おかあさん!」
呼べども呼べども、母に応えられぬ虚しさに。肉体の痛みをも凌駕する魂のひりつきに。
幼い娘が常軌を逸した狂態に震える上がり、腫れた頬を抑えて泣きじゃくっているのに、母は助けと慰めを求めるセレーヌを一瞥すらしない。まるでセレーヌという子供は始めから存在していないとでも言わんばかりに。
「……だわ」
ぶつぶつと、いっそ呪詛めいてすらいる神への祈りはいつの間にか途切れていた。普段の静謐とはまた趣を異にする、どこか不穏な静けさを取り戻した女の空色の瞳には、仄暗い光が宿っている。打たれた頬を抑えて蹲る娘が見守る最中、狂信的な輝きは僅かに残っていた正気を瞬く間に食い荒らし、そして彼女はとうとうセレーヌの母親ではなくなった。
「……ああ、そうね。わたしが間違っていたわ」
敬虔なる修道女――マリエットはその白く小さな、鈴蘭を連想させる貌に儚い笑みをほころばせる。
「古の偉大なる聖人や聖女様方の受けたものに比べれば、わたしの罰など足元にも及ばないわ。穢れなき方たちさえ言語を絶する苦痛を舐めなければならなかったのだから、罪を犯したわたしがそう簡単に赦されるはずない」
頭巾から溢れた一筋の黒髪と薄紅に上気した頬は、女の清らかな容貌を際立たせていた。地上に残された創造主の足跡と微かな影のみを見据える瞳は硝子玉よりも明るく澄んでいる。既に一児の母であるというのに少女めいた細い声を紡ぐ唇は、目が奪われるほど艶めかしかった。
「なのにわたしは、深淵なる配慮の意味を一瞬でも疑ったりして……」
跪いて感謝の言葉を述べる女は、拷問吏の刃で心臓を貫かれ死に逝かんとしている殉教者そのものであった。死の直前でさえも我が身を苛む苦痛など知らぬ顔で、神の下に旅立つ幸福を語る聖者たちの笑顔を浮かべた女は、恋い慕う母とは似ても似つかない。
少女は頬を伝う涙を拭った手を握り締め、柔な掌に爪を喰い込ませる。別の苦痛で紛らわせなければ、無防備な心はたちまち哀しみに吹き飛ばされてしまいそうだったのだ。
「弱さゆえに悪魔の
しかし文字通り血が滲む――幼い爪が震える掌を突き破るまでの努力は虚しかった。確かに存在しているはずの我が子を幻影だと断言する残酷な響きは、毒が塗られた鎌となって脆い魂を千々に引き裂く。
わたしは、こんなものに劣るのか。傍らの血を分けた娘よりも、どんなに呼びかけても応えない、凍てついた石の塊を選ぶなんて。
もう一つの紅く生臭いそれではなく、透明な苦痛の雫をとめどなく零す双眸が捉えたのは、聖堂に祀られた預言者の像に他ならなかった。
至尊なる者の姿を映しているとはいえ、命もぬくもりも宿さぬ、凍てついた石の塊。こんなものがあるから、セレーヌは母に愛されない。
こんなもの、存在しなければいい。そうすれば母も、物言わぬ彫像と血肉を通わせた我が子のどちらを愛すべきか分かってくれるかも……。
一拭きで掻き消える炎よりも幽き希望を胸に試みたのは、一種の賭けでもあった。所々が痛む小さな身体に残ったありったけの力をかき集め、尊大に立ちはだかる預言者の現身に挑みかかる。しかし小さな拳で強固な大理石を打ち砕けるはずもなく、悶絶して床に転がった幼子は誰にも顧みられぬまま、己が敗北を噛みしめた。
分かってはいたのだ。もし仮に、セレーヌの目論見が成功したところで、母は自分を見てくれはしないだろうと。ただ、もしかしたら、崇拝する偶像が無残に崩壊する様を目の当たりにすれば、母も正気に戻るかもと、一縷の望みに縋らずにはいられなかった。
こんなものにいくら語りかけても、応えが返されるはずがない。――それは、あまりにも虚しい答えであった。
少女は黒衣を纏う華奢な背に憎悪の籠った一瞥を放ち、まろやかな唇を噛みしめる。母親とは、子供を愛する者ではなかったのか。
たとえばセレーヌが第二の母として慕う院長は、セレーヌが寂しさと人恋しさに駆られて居室を訪れるたびに温かく迎え入れ、時に手製の菓子を振る舞ってくれる。院長は、遠い昔に喪った幼い一人娘のことを今でも夢に見ると零していた。聖典では、いたるところで我が子のためならば自らの命さえも進んで投げ出す母親の勇姿が讃えられている。なのに。
幼子は悲嘆のあまり暗闇に沈みゆく意識をどうにか保ち、仄白く浮かび上がる面を見つめる。母は、目蓋を降ろして跪いていた。セレーヌの存在が目ざわりで仕方ないと言いたげに。
とうとう目蓋は降ろされ、暗闇に埋め尽くされた眼裏で鮮やかに蘇ったのは、ある聖者伝だった。母の愛と神の温情の深さを知って改心し、偉大な修道士になった男の人生についての。
遠い昔に生きたある母親は、制止を押し切って家を飛び出した挙句身を持ち崩し、数年後に身一つで戻ってきた放蕩息子を温かく迎えたはずだった。大切な我が子が生きてくれているだけで十分だと。この数年間、お前のために、お前の無事を想って神に祈り続けたと。お前のことを想わなかった日など、ただの一日たりともなかったと。
セレーヌは何も、院長の膝の上に座り共に貢を捲って学んだ物語が称賛する愛がほしいのではない。
抱きしめてほしい。何か喋りかけたら、無視せずに応えてほしい。どんなたわいのない事でもいいから、微笑みながら会話をしてほしい。遠い遠い天上から地上を冷ややかに見下ろす唯一神などではなく、母の側にいる自分を見てほしい。そのためなら、母が望むのならどんなことでもやるから。
幾度となく痛めつけられてもなお光を捨てきれなかった幼子は、最後の望みを込めて母を呼ぶ。
「……おかあ、さ」
「どうか、わたしが悪魔の影などに悩まされず、常に貴方を想って心安らかにいられますよう――」
けれども闇夜を照らす炎はあっけなく掻き消され、子供の世界は忍び寄る絶望に浸食された。
少女は行き場を失った手と怒りで燃え上がる身体を床に投げ出す。冷え切った石材は腫れた頬の火照りを吸いとってくれたが、猛る漆黒の炎の勢いは治まらなかった。
薄れゆく意識の中、セレーヌは生まれて初めて誰かを呪った。あんな女はいなくなればいい。いっそ死んでしまえ、と。
あんな女が、わたしのおかあさんであるはずがない。
もう一人の自分がけたけたと嗤う中、マリエットを母と認めぬ感情が芽生えたのはいつだったのだろう。母を憎む一方で母の愛情を求める心はやがて分裂し、同様に母の像も二つに――おかあさんとマリエットに分離した、この時ではなかっただろうか。
だって、そうしないと苦しくて、哀しくて、仕方なかったから。母に愛されない嘆きに喉を締め付けられて、呼吸すらできなかったから。自分を無い者とし拒絶する母を愛し慕い続けるには、セレーヌも母を拒絶しなければならなかったのだ。
自ら生み出した嘘は、母の死後も小さく愚かな創造主を騙し通した。
「セレーヌ。君のお母さんが亡くなっていたことは残念だけれど、あの頭がおかしい女が言っていたことなんて、気にする必要は、」
少女は、青年の慰めを振り切って自室に駆け込み、痛みと悲哀が一杯に詰まった四肢を寝台に投げ出す。
封印を解かれた瞬間に堰切って溢れだした、星明かりなど容易に呑みこむ暗闇に覆われた数多の思い出。許容できなかった諸々を沈めた深淵からついに浮かびあがり、漆黒の水面を揺らして岸辺に打ち上げられた仄暗い感情は、自らを否定した主を糾弾した。
もはや触れることすらできぬ母の嫋やかな手が過去のセレーヌを打ちのめすごとに、現在のセレーヌの心は張り裂ける。粉々に砕け散った希望の破片は、打ちひしがれた少女の心身に突き刺さった。
血が滲む唇から荒い息が漏れ出るごとに、激しく波打つ臓器には針をねじ込まれるかと錯覚する痛みが奔る。脈打つ左胸を抑える手をそっと見下ろすと、指先には血の飛沫一つ付着していないのが不思議だった。哀しみという杭を打ち込まれた心はこんなにも血を流しているのに。
『たった一人の母親が亡くなったことすら忘れて、今までのうのうと生きていたなんて。私にはとても信じられない薄情さだわ』
脳内をぐるぐると駆け巡る嘲りは、紛れもない真実であった。
母は九年前の冬、あっけなく神の下に旅立った。セレーヌは彼女の葬儀と納棺に立ち会ったのに、何故今まで忘れてしまっていたのだろう。
――どうしてわたしを独りにしたの? どうしてわたしを一緒に連れて行ってくれなかったの?
喉も裂けよとばかりに叫んでも答えが返ってこないのは、その絶叫が実際は紡がれていないから。階下で呆然と立ち尽くしているだろう青年には聞かせてならないと、心中のみで発せられたものだからだろうか――違う。セレーヌの求めに一切応じてくれないのは、母の生前からだった。
セレーヌはこの世でただ一人の母親が死したことを記憶の底に封印し、あまつさえ母を憎んですらいた。成人した女にしては著しく小柄で非力な母に与えられた痛みの大抵は一刻も経てばなかったことにできる、痣すら残さない代物だった。けれども脆く幼い魂は身体の代わりに数多くの傷を拵え、癒えぬ生乾きの傷口からは生温かい血を流し続けたのだから。
『やめて。やめてやめてやめて。来ないで!』
どんなに手酷く拒絶されても、「マリエット」にされたことならば耐えられる。「おかあさん」に嫌われてはいないのだから、大丈夫だ。優しい母が、我が子にあんなことをするはずない。その証拠に、セレーヌが手を伸ばせば、きっと……。
少女は重く痺れる頭を上げ、母の温かな面影を追い求める。
『どうか、わたしが悪魔の影などに悩まされず、常に貴方を想って心安らかにいられますよう――』
けれどもマリエットは、幻になってさえセレーヌに微笑んではくれなかった。永遠に目を背けていたかった記憶の澱を探ってもなお、母の愛は見つからなかった。探り出せたのは、暴力と拒絶だけで。
白金の髪が張り付いた頬と目を手で覆う。そうすると目の前が真っ暗に――母の髪と絶望の色に染まった。
いつか母に再会し、彼女に愛していると言ってもらうという望みは、最初から絶たれていた。生きる
「おかあさん、ど、して? どうし、て、わたしを、愛してくれなかった、の?」
痛切な嘆きに応える声はやはりなく、少女は緩やかに目を閉じ、凋落した渇望の果実の苦みを味わった。
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