挿話 現実 Ⅰ
ふぎゃあ、ふぎゃあ、と猫が鳴く声がどこかから聞こえた。わたしたちの修道院では書物を守るために猫を飼っているから、鳴き声が聞こえても不思議ではない。だけどこの声は、部屋の外から聞こえてきているとは思えないほど大きかった。これだけ声が大きいということは、この猫はよほど大きな猫なんだろう。虎みたいに。
――こんなことを言うと、あなたはきっと笑うのかしら、オーリア。変なマリィ。猫みたいに大きな虎なんているわけないじゃないって。そして、その次の瞬間には私が大好きなあのいたずらっ子の笑みを浮かべて、背中に隠していた仔猫を見せてくれるのだ。
オーリアさお姉さまたちから任された餌やりの仕事を毎日毎回欠かさずこなしているから、修道院の猫たちにも信頼されている。オーリアならば、まだ目も空いていない仔猫を抱っこしようとしても怒らないぐらいに。
去年の冬、私が酷い高熱を出して魘された時、オーリアはある猫を連れてきてくれた。その年の春に生まれた何匹かのうち、とりわけ可愛らしい二匹を。
白に茶色のぶちがある子は、とびきり元気ですばしこかった。飴玉みたいな目をきらきらさせてはねずみを咥えてきて、わたしたちに褒められるのを待っていた。だけどオーリアは、同じ春に生まれた猫の中でただ一匹、真っ黒な毛をして人見知りをする猫が一番可愛いと言っていた。そして、他の猫より一回り小さな黒猫に、特別多く餌をあげていた。
それがなんだか悔しくて、ついこう言ったことがある。その子を特別扱いするのはやめたら、と。そしたらオーリアは怒って、数日は口も利いてくれなかった。だけど私が熱を出して倒れた晩は、食堂にも行けなかったわたしのために、食事を運んできてくれたのだ。
無言で、だけど心配そうな目をして額の汗を拭ってくれたオーリアに見つめられると、まるであの猫になったような気がした。あの小さくて弱い黒猫に。そして、オーリアがあの黒猫を可愛がっていた理由が分かった。オーリアは、あの黒猫が私に似ているから可愛がっていたのだ。これは、もしかしたらわたしの勝手な思い込みかもしれない。だけどわたしの看病をしてくれている間、オーリアはあの子たちを見つめる時とそっくり同じ目をしていたから。
「……ごめんなさい」
痛む喉を振り絞ると、ばか、と拗ねたような声が降ってきた。次いで、汗ばんだ額を小突く指先と、
「わたし、あの子に、あやまりたいわ」
得意そうな満面の笑みも。そしてオーリアは、猫を私が横たわる敷布と上掛けの間に潜り込ませたのだ。こうしていればあったかいし、癒されるでしょう、と。外は寒いから、この子にとってもこうした方がいいから、と。でも、お姉さまたちには秘密だよ、とわたしの唇に人差し指を当てて。
「でも、抜け毛を見られたらどうするの?」
くすくすと軽やかな笑みに釣られて、頬を緩ませながら問いかけると、あの子はこう笑ったのだ。
「大丈夫だよ! だってその子はマリィと同じだもの」
……人間の毛と猫の毛の違いが敏いお姉さまたちに分からないはずはない。私たちのたわいのない秘密は、熱が下がったか確認しに来てくださったお姉さまにあっさりと見抜かれてしまった。オーリアは大目玉を食らって泣きべそをかいていたけれど、そのふてくされた顔がまた可愛くて……。わたしはきっと、あの顔をみたら何度でも元気になれる。笑えるような気がする。
だから、どうか、早く教えて。今度の猫はどんな毛色をしているの? 今度の子は、あの白と茶色の子なのかしら?
もしかして、あの時わたしはお姉さまに怒られなかったことを根に持っていたのだろうか。オーリアがあんまりにも焦らすので、耐えかねたわたしは寝台から身を起こそうとしたけれど、できなかった。
お腹が、脚の付け根が――お腹や股だけでなく、全身が痛くて、重い。
目を空ける。普段ならば息をするのと同じくらい簡単に出来ていたはずのことすらも酷く難しかった。
「ああ、目覚めたのね!」
朧な視界に映る人はオーリアじゃなかった。だけど、間違いなく知っているはずの人で……。でも、どこで会ったのか、どんな人なのかは思い出せない。
あなた、だれ。
必死に押し出した疑問はほとんど音にはならなくて、知らない筈なのに知っている女性は、困ったような顔をして、腕に抱いていたお包みをわたしに差し出した。もしかして、これが先程の鳴き声の正体で、この人はオーリアに頼まれてわたしに猫を見せに来てくれたのだろうか。
「良かったわ。この子も丁度お腹を空かせて、泣いていたところだから」
鈍痛を堪えて今度こそ身体を起こし
オーリアがわたしのために選んでくれたのだから、きっととびきり可愛い猫なんだろう。そう期待して覗き込んだお包みの中身は、猫ではなかった。そしてわたしは、全てを
「あなたは初めてお乳を飲ませた後、失神したのよ。疲れていたし、安心しすぎて力が抜けたのね。無理もないことだわ」
そうだ。オーリアがここにいるはずがない。今までのは、全て夢だったのだ。オーリアが猫を見せてくれたことも、オーリアと氷菓子を食べたことも。寝坊してしまって、あの子と二人で修道院の中を走っていったことも。
でもだったら、どうしてわたしの側には悪魔がいるんだろう。もう終わったと思ったのに。あんなに痛くて辛くて、死にそうな思いをしたのに、わたしはまだ赦されないのだろうか。わたしの罪は、そんなに重いものだったのだろうか。
……わたしの、罪? そもそもわたしは、何か悪いことをしていたのだろうか。だって、オーリアと二人でこっそり修道院を抜け出したのは夢だったのだから、わたしは何もしていないはず。それとも、これは悪魔が見せる幻で、実際のわたしはオーリアとの二人部屋の寝台で悪夢に魘されているのだろうか。でもそれにしては、わたしの腕の中にいる化物はあまりに温かい。それこそまるで猫みたいに。
「あ、あなたには似ていないけれど、可愛いでしょう?」
だけど、
「……この子、若葉みたいな緑の目をしているのよ。将来はきっと、人形みたいに可愛い子になるわ。だから……」
どこか遠慮がちな言葉に促されるように、小さな怪物は目を開く。すると露わになったのは、緑の、大聖堂でわたしを食い荒らした悪魔と同じ目で――
きもちわるい。
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