真実は鍵が壊れた箱の中 Ⅲ

 ばたばたばた、と反響する足音が耳を劈く。少女と青年が奏でる騒音は徐々に遠のき、やがて完全に消え去った。

 修道女は深い皺が刻まれた眉間に指を当て、揉み解す。陽光をてらてらと照り返す脂が滲む頬は、傷んだ豚肉そっくりの赤みが刷かれていて、広がりつつある毛穴がより一層際立っていた。

 腰巻きさながらに纏わりつく脂肪は、床に転がる護符を拾うというただそれだけの行為を難しくしたが、聖なる神のしるしを塵同然に床に転がしてはおけない。三十の坂を越えてから徐々に突き出始めた腹は前かがみの姿勢を妨げ、煩わしくなるばかりの腰痛を激しくする。

 卑小なる人の子には抗いきれぬ、加齢ゆえの苦痛。決して細やかとは称しがたい不調を抱えながらも、貶められた聖なる証を拾い上げたイディーズの、なんと敬虔なことか。それに引きかえ、今しがた去っていた男のあの態度は、嘆かわしいとしか評しようがなかった。

 地上を彷徨う悪魔に等しい死刑執行人を聖なる神の家に招き、貴き神の花嫁の筆頭たるイディーズがわざわざ相手をしてあげたのに。なのにセレーヌの夫は感謝の言葉一つ述べず、あまつさえ無礼を突きつけたのだ。――最初から期待してはいなかったとはいえ、所詮あれは俗世の羊。それも、この地上でもっとおぞましい生業によって浅ましくも生に縋る獣だったということだろう。唯一神の偉大さを解する知能を持たないからこそ、あのような暴挙を働けたのだ。

 最近ぼやけがちな目を細めても、神の象徴を模した小さな金属には傷一つ見当たらない。修道女は安堵と喜びのあまり手巾ハンカチに包んだ尊き聖具を握り締めた。いくら聖なる神の力が込められた品とはいえ、呪われた職業に就き幾つもの命を露を散らした男が身に着けた以上は、直接触れてはイディーズの無垢なる身体が穢れてしまう。己の花嫁の純潔が損なわれては神も嘆くだろうから、この聖印は直ちに清めさせなくては。

 一体誰にこの栄光ある役目を与えるべきかと憂慮しつつ院長室を出る。すると最初に出会ったのは、農民でもあるまいに畑を耕していた年若い修道女であった。

 丁度良いと彼女に鍬を置かせ、空いた手に聖なる印を直接置く。

「ええと、これは……?」

 すると女にしては太く、野暮ったい眉が顰められたのは何故なのだろう。もしかしたらテレーズは惨めったらしくこの修道院から出て行った悪魔の姿を見かけたかもしれないが、掌中の物体が悪魔の瘴気を抑えるべく犠牲になったなど知るはずがない。彼女程度の頭で、イディーズの深慮が推し量れるはずはないのに。

「見てわかる通り、聖印よ。この修道院に代々伝わる、それは見事なものだけれど、でもちょっと汚れが目立つでしょう? だから、貴女にお清めをしてほしくて」

 愚鈍な娘のために、分かりやすく丁寧に説明してあげたのに、イディーズの配慮は結局無駄であったらしい。

「汚れ……? この聖印、別に汚れては……。ああ、でも、」

 末端とはいえ貴族の生まれであるという出生をまるで感じさせない、荒れ果てた指先が燦然と輝く白銀を摘まむ。

「汚れてはいないけれど、なんだか濡れてはいますね。確かに、このまま放置していると錆びてしまうかも」

 長くも短くもない睫毛に囲まれた目は、近頃とみに火照り、汗を滴らせやすくなったイディーズの顔を注視していた。つまらぬ労働のために彼女が流した汚らしい滴とは異なり、イディーズが滲ませたのは齢という抗えぬ重石を括りつけられていてもなお、神のために身を粉にした高邁なる一滴であるのに。なんて失敬な娘なのだろう。

「分かりました。では、畑仕事が終わったらすぐに取り掛かりますので」

 自身の失言に思い至る頭もない娘を諭しても無駄であるが、このまま罪を放置していては彼女のためにならないので、罰を与えなくてはならない。取り敢えず夕餉を抜いて懲罰房に一晩閉じ込めておけば、彼女がイディーズに加えた罪も少しは清められるだろうか。

「では、院長様」

「……え、ええ。お願いね」

 形ばかりは従順に頭を垂れた娘の背が視界から消え去るのを待つ必要などない。けれどもしばしその場に立ち尽くしてしまったのは、足どころか全身が屈辱に慄いていたために他ならなかった。イディーズには聖典と向き合い己が魂を磨くという崇高なる努めがあるのに、その邪魔をするとは。もしかしてテレーズはイディーズの高潔さを妬み、少しでも足を引っ張るために先程の暴言を吐いたのだろうか。だとしたら大した根性の悪さだ。

 やはり、テレーズはいずれ地獄に堕ちてしまうに違いない。また彼女だけでなく、貴重な護符に不埒な真似を働いたあの青年にも、イディーズに無礼な言葉を投げかけたセレーヌにもいつか神罰が下るだろう。忠実な神のしもべたるイディーズが取りなしてさえ、あの不届き者たちが犯した罪は贖えない。悔い改めようともしない罪深き羊は、群れからはぐれた途端に悪魔の手に落ちてしまうものなのだ。

 修道女は自身の長年の努力の成果を無にし、真白だった毛を罪業の色に染めた恩知らずな子羊の所業に溜息をつく。イディーズが折角時間を割いてあげたのに、あの娘は夫同様、礼の一つも述べなかった。

 セレーヌは身体こそ数か月前とまるで変わらず貧相なままだったが、魂はすっかり堕落してしまったのだろう。母親の死を忘れていた薄情と愚かさを悔いて嘆くだけならばともかく、汚らわしい涙を神聖なる修道院に残してゆくなど。

 自室の床一面に聖水を振りかけるのは骨が折れるだろうから、これも配下の娘の誰かに任せるべきだ。修道女たちは院長に従うべき存在なのだから、これぐらいはして当然だろう。イディーズは腰を労わるためにも、長く屈む作業は避けなければならない。監視を怠るとすぐに怠惰を貪る、申し付けた週に一度の掃除さえも手を抜く者たちを頼りにするのは不安だが、致し方なかった。

 軟弱であるが、辛うじて聖なる領域にとどまっている神の花嫁たちの魂を導くためにも、そろそろ徹底した指導に踏み切らねばならないだろう。場合によっては全員を懲罰房に放り込めなければならないだろうが、それも彼女たちのため。思いやりと甘やかしを取り違えた前院長の方針に慣れ切った精神は、叩いて鋼鉄にしなければならない。

『あなたは子供なんだから、たまには甘いものを食べたいでしょう?』

『これ、ほんとに食べてもいいの?』

『あなたのために作ったのだから、もちろんよ』

 さもないと、あの耄碌した老女の薫陶を最も受けて育った、セレーヌのような娘が増えてしまう。だいたい、前院長があの図々しい子供の躾を怠ったから、イディーズがいらぬ苦労をするはめになったのだ。

 かつて多くの時間を共にした娘が去り際に零した悪態を想起すると、頭巾の下のあるかなきかのぼやけた眉は自然顰められた。

『だまれ』

 柳のごとき細い眉の下の、目尻が垂れさがった零れ落ちんばかりに大きな瞳は、瑞々しい緑色。細い鼻梁の先は小さく可愛らしく、これまた小さな唇は桜桃か苺めいていて瑞々しい。そして目を引く白金色の髪と、滑らかで肌理細やかな肌と華奢な肢体。

 人形のように愛らしいと称賛できなくもない容貌をしているセレーヌを可愛らしいと思えないのは、あの子供の態度のせいだった。


「あなたはこれ以上この場にいない方がいいわ。あなたみたいな子がいたら、あなたのお母さんの具合はもっと悪くなるに決まっているもの」

 元々イディーズに反抗的だったセレーヌは、まだマリエットが生きていた七年前の夏のある日を境に、益々激しい目でイディーズをねめつけ始めた。

「嘘。――あなたが倒れたのは、聖堂に来たからでしょう?」

「え?」

 イディーズは正しい指摘をして、我が身を苛む愚かで哀れな女を救ってあげようとしたのに、あの子供は慈しみを受け入れなかったのだ。そして、善意を跳ね除けたのは、子供の母親であるマリエットも同じ。

「だってあなた、ここに来る前――王都の大聖堂付属の修道院にいた頃に、聖堂でとても嫌な目に遭ったんでしょう?」

 イディーズが彼女の過去に言及した途端、冬場に下着一枚で外に放りだされたわけでもないのに、マリエットは見苦しく震え出した。

 澄み切ってはいるが硝子玉めいた淡青の双眸から零れ落ちる涙に彩られた顔は儚げで。淡く開いた唇は一面の雪原に落ちた一片の花弁のよう。イディーズはこれならば高貴とされる男の気を引いても不思議ではないと感心し、一方で彼女の容貌を哀れんだものだったものだった。

 黒髪に青の瞳の、修道院の門の前に捨てられていたマリエット。西の隣国トラスティリア風の姓と名が刺繍された御包みだけを生母から与えられた私生児は、ある出来事の結果としてセレーヌを身籠った。一般的には喜ばしいものとされているはずの清純な愛らしさは持ち主を不幸にし、死に追いやったのだ。

 どうせすぐに死んでいたのだから、彼女はセレーヌを宿した時に、あるいは宿す前に自死してしまえば良かったのだ。そうすればイディーズはあの煩わしい子供のために己を犠牲にせずに済んだし、マリエットが起こす迷惑な騒動に祈りの時間を遮られもしなかったのに。

 罪の果実を携えて聖ファラヴィア女子修道院の門をくぐり、汚辱に塗れた躰で祭壇の前に立つ厚かましい女性に、他者を慮るがゆえの遠慮を求めるのは酷というものだろう。しかも彼女に苦痛が与えられた責任の一端は、彼女自身にも存在するではないか。神に与えられた罰と贖罪の機会を甘んじて受け入れた敬虔さは称賛に値するかもしれないが、それに巻き込まれたイディーズの身にもなってほしい。

 前院長にマリエットの出自と来歴を説明された後、マリエットと初めて対面した瞬間を思い出す。彼女と初めて出会ったのは、彼女が十四の声を聴いた――膨らみが目立つようになっていた腹部を持て余していた頃。

 あどけない造作とほっそりした四肢のために少女めいた頼りない雰囲気を備えていた娘の見目は、実際の年齢よりも幼かった。装いを変えれば、俗世を駆け回る少年少女に溶け込めてしまいそうなぐらい。そして、そんな娘の本来ならば細く締まっているべき腹がまろみを帯びているのは、子供が子供を孕んだようで気味が悪かった。

 未練がましくも生に執着し死刑執行人の妻となったセレーヌも、マリエットと同じ道を歩むのだろう。セレーヌの夫と名乗った死刑執行人は、よくもあのように幼い少女を妻として迎えられたものだ。

 経緯が経緯だから、セレーヌはもう純潔を失っているのかもしれない。あの細く小さい身体を組み伏せられ、男を迎え入れて睦み合ったなど。イディーズが必死に叩き込んであげた貞潔の教えはどこに行ってしまったのだろう。

 セレーヌが娼婦まがいのふしだらさを秘め隠した娘だと分かっていたら、最初から放っておいたのに。つくづくセレーヌを矯正するために注いだ労苦を返してほしかった。それ以上に、どうしようもない母親とおぞましい趣味に耽る父親の間に生まれた子供の世話を自分に申し付けた前の院長の短慮が恨めしい。

 前院長はイディーズの類まれな資質を妬み、心身の研磨の時間を少しでも妨害するために、このような暴挙を仕出かしたのだろうか――きっとそうに決まっている。あるいはテレーズや前院長の曇った眼でもそれと分かるほどに、イディーズの身の裡からは光輝が迸っているのだろうか。いや、かもしれないではなく、それしかありえないだろう。ならばこれも、神より尊き者に課された試練として受け入れようと拳を握りしめても、噛みしめた口元から漏れ出る溜息は抑えられなかった。

 王制廃止に伴う時代の変転といい、イディーズを取り巻く世界は唯一神を蔑ろにし、高潔なる預言者の徒を軽んじる輩ばかりだ。これならば、あの家が存在していた頃の方がまだ良かった。

 自身に面倒を押し付けた諸悪の根源である者たちは、けれども聖なる領域を侵そうとはしなかった。だからイディーズは彼らとの約束を守り、セレーヌにマリエットの死を教えてあげたのだ。もう一つの真実を詳らかにしなかったのは、それが必要ないから。もしもあの娘が自身の血統を知って、驕りでもしたら。例え彼らにその価値を理解されないし、無駄になると分かっていても、悪魔に等しい人殺しと娼婦同然の少女にすら均等に温情を垂れる。まさしく神の花嫁に相応しい、素晴らしい行動だった。

 セレーヌとあの人殺しは今頃何をしているのだろう。既に家に帰ったのだろうか。そして、擦り切れた敷布に覆われた寝台の上で、獣のごとく四肢を絡ませているのだろうか――なんて汚らわしい。

 あの青年の神経は常軌を逸しているに違いないが、セレーヌもセレーヌだから似た者同士で案外上手くやっていけるだろう。彼らが永遠にイディーズの温情の価値を理解しないだろうことは腹立たしいが、元々そのために必要とされる知能を備えていないと考えれば、苛立ちもすぐに治まった。地べたを這いまわる蛇や虫けらに天高く舞う鷲の偉大さを見習えと突き付けても、無理な相談なのだから。

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