真実は鍵が壊れた箱の中 Ⅱ

 聖ファラヴィア女子修道院の修道院長の居室は、その他の修道女たちが寝食を共にする本館には備えられていない。本館とは渡り廊下で繋がれた別館の、滅多に訪れぬ旅人や神の庇護を求めて修道院に駆け込む者のために設えられた客室。その真上に広がる、古今の著名な神学者や修道士の著作が収められた書庫の右隣に位置する部屋こそ、現在はイディーズの牙城となってしまった院長室であった。

 幼き日には喜び勇んで駆け上った階段を、必要以上に鈍重な足取りで登るのは、無論わざと。少しでもイディーズと顔を合わせる時間を遅らせよう。少しでもいいからあの女に一矢報いようという反抗心の現れである。

 しかし、とうとう二階に上がってしまえば、嫌でも樫の木材の取っ手を引かざるを得なくなる。

「久しぶりね、セレーヌ。あなた、ここから出る・・前と少しも変わっていないわ」

 小鹿に似た細い脚を踏み入れるやいなや、飛び込んできたのは優しげに装っていはいるが奥底の居丈高さを隠しきれてはいない囁きであった。

 ――ここから出る・・だと? ……お前がわたしを追い出したくせに!

 少女はこみ上げる怒りをどうにか押し殺し、数か月ぶりに対面する女の顔をねめつける。

 身体の線を露わにしない黒の修道服の上の、意識して留めなければたちまち記憶の澱に埋没してしまいそうな、凡庸で特徴がない造作。長い歳月に間に少しづつ蓄積された脂肪によってたるみ、二重になった顎。そこにいたのはイディーズに他ならなかった。

「で、そちらがあなたの夫である、死刑執行人の――」

「お初にお目にかかります」

 まるで汚物か道端に転がる腐敗しかけた小動物の死体に寄こすような視線を投げかけられた青年は、それでも世の常識に倣って会釈した。イディーズは既に赦しがたい暴挙を仕出かしたのだから、そんなことはしなくていい。むしろ、あの二重顎に拳をめり込ませてもいいぐらいなのに。

『あの、これを。……院長さまに、必ずお渡しするようにと言いつけられたものですから、どうか』

 案内役を買って出た修道女が、悪魔除けの護符をフィネに押し付けた瞬間から、セレーヌのはらわたは人を人とも思わぬ無礼に煮えくり返った。なのにどうしてフィネは別にいいと呟くだけで、声を荒げもしないのだろう。

 何はともあれ、当の本人が怒りを堪えている以上、セレーヌだけがいつまでも憤慨していていいはずがない。仕方なく苦い憤懣を呑みこんだが、紅蓮の焔は少女の小さな身体を焼き尽くす勢いで燃え続けた。このままでは、ただ顔を見ているだけでもイディーズに殴りかかってしまいかねないが、それは流石に避けなければならないだろう。

「さっさと要件を言え、イディーズ。お前は世間話をするためにわたしたちをここに呼んだんじゃないんだろ?」

 自分が何か問題を起こす前にこの部屋から立ち去るべく、不作法を承知しつつも口を開く。中年の女はきつい物言いに少しばかり鼻白んだものの、すぐに気を立て直して腕を組んだ。

「……あなた、マリエットさんを探しているそうだけれど、」

 彼女にしては珍しいぐらいに躊躇いがちにある女の名を口にしたイディーズは、向かい合うセレーヌのをひたと見つめた。じろじろと、不躾と称されても仕方がないほど熱心に。僅かな異変すら見逃すまいと主張する瞳にたじろがないわけではないが、少女は気圧されてなるのもかと声を張り上げる。

「そうだけど、それがお前に何か関係あるのか?」

 確かにセレーヌはマリエットを追い求めているが、それは彼女と共にいる母と再会するため。イディーズは身体の不調を訴える母を辛辣な文句で追い詰めていたし、マリエットとも決して良好な関係は築いていなかった。その彼女が、どうしてマリエットのことをここまで気にかけるのだろう。

「お前、もしかしてあの女の居場所を知ってるのか? だったら早く――」

 渦巻く疑念は真実を希求する吐息となり、薔薇の蕾の唇の合間から漏れ出る。少女は高鳴る鼓動の勢いと歩調を合わせて蟀谷に奔る痛みを堪えながら、次の言葉を待った。

 返答次第ではセレーヌはついに、母がいる場所での道順が記された、希望の地図を受け取ることができるのだ。針で指先を刺した程度のちくりとした刺激など、長年の飢えを癒すためならば、いくらでも我慢できる。

 顎の輪郭同様に線がぼやけた唇が開く瞬間が待ち遠しい。今回ばかりは、いつもは鬱陶しくてならないイディーズの言葉が欲しくてたまらなかった。

 もったいぶってこちらの顔色を窺う女の口が開かれた途端、か細い脚は今にも崩れ落ちてしまいそうに震えた。胸を焼き尽くす希望と歓喜と焦燥と不安。その他の様々な感情は縺れ合いながら血の流れに乗って広がり、頭頂から足先までをも満たす。

「やっぱり、覚えていないのね……」

 けれどもようやく与えられたのは、まるで意味を成さない答えであった。

 ――やっぱり・・・・覚えていない? イディーズは、セレーヌが何を忘れたと言っているのだろう。

 真意を問いただすべく、目の前で溜息をつく女をひたと睨み付ける。しかしイディーズは懸命に尖らせた緑の眼差しなどまるで意に介さず、独りよがりな独白を始めた。

「……確かに、あなたにとっては辛いことだったでしょうね。あの人の――マリエットさんのお墓は修道院の敷地内にあるのに、一度も参りに行かなかったことも、今考えればおかしかった。だけど、」

 何でもないことのように明らかにされた真実は、研ぎ澄まされた剣よりも鋭利に少女の心を切り裂く。

 大嫌いな、幼かったセレーヌに何度も理不尽な暴力を振るった女が死んでいた。ただそれだけなのに、マリエットがまだセレーヌの側にいてくれた時分に幾度となく夢見たことが現実になっていただけなのに、胸が張り裂けるほど悲しい。――どうして彼女はセレーヌをおいて逝ってしまったのだろう。

「セレーヌ」

 崩れ落ちた少女の華奢な背を撫でる青年の手は優しいが、長年求め続け、今しがた永遠に手に入らないと宣告された女のものではなかった。

 冷たい棺桶と土の中のマリエットの肉体はとうに腐敗し崩れ落ち、この世に残る彼女の名残は骨だけになっているだろう。苦悩から解放された魂は生前にあれ程焦がれていた唯一神の許で、永遠の安らぎに包まれているのだ。そして彼女はもう二度と、セレーヌに振り向いてくれない。

「今の今までマリエットさんの死を忘れていたなんてあんまりよ、セレーヌ。マリエットさんが亡くなった時のあなたはまだ九歳だったから、仕方のない事だったのかもしれない。それでも、」

「……もう結構です、院長殿。俺たちは御暇しますから、」

 双眸に宿した光とは相反する感情を――哀しみを頬に貼り付けた女は、制止などなかったかのように更なる衝撃を白日の下に引きずりだした。

「たった一人の母親が亡くなったことすら忘れて、今までのうのうと生きていたなんて。私にはとても信じられない薄情さだわ」

 青年は大粒の涙を流す少女を抱き寄せ、小さな耳をそっと硬い掌で塞いだ。しかしとどめの一言は隙間から外界の音を拾う器官に侵入し、穏やかな言葉の連なりは柔な胸を魂ごと引き裂く。

 地面に叩きつけられた玻璃の器のごとく粉々に砕け散った心からは幻の血が溢れ、暗く翳っていた視界を紅蓮に染めた。黒と赤が入り混じる風景は何故か徐々に明るみを増す。そしてついに四年前の冬の日に吹き荒んでいた雪の色に、母が横たわっていた敷布の色に変じた。


 汗ばむ額に冷えた布を置いた小さな手を跳ね除ける力すら失い、ただ黒々と長い睫毛に縁どられた淡青の双眸を閉ざして寝台に横たわる母は、セレーヌだけの物だった。

 元々あまり丈夫ではなかった身体を度重なる沐浴によって更に損ね、とうとう重篤な肺の病に陥ってしまった母。その儚い身体を拭き清める、という名目で自分自身すらを欺き、意識のない女の修道服を脱がせる。かつて自分がここにいたなど俄かには信じがたい平たい腹部を見つめていると、その中に戻りたくなった。セレーヌと母が一つだった、母に触れても咎められなかった、記憶にはないあの頃に。母の胎内で憩っていたあの頃こそがセレーヌの至福で、母の胎内こそがセレーヌの楽園であったのに。なのにどうして自分はこの世に生まれてきてしまったのだろう。

 後悔しても、時が遡らない以上はどうにもならない。少女は堪えきれない哀愁に駆られ、乳を強請る仔猫さながらに薄っぺらな腹部に頬を擦りつける。数日前から眠り続けたままの母は、微かに上下する薄い胸をまさぐり薄紅色の突起にしゃぶりついても、やはり応えてくれなかった。がしりと歯を立てても渇望する甘いものは出てこない。

 虚しくて、寂しくて、けれども嬉しくて仕方なかった。母に元気になってほしいはずなのに、ずっとこのままでいてくれればいいとすら願ってしまう。自分と母の部屋の扉を椅子で塞いで、自分以外の誰も入ってこれないようにすれば。そうすれば母はやっとセレーヌだけのものになってくれる。

「おかあさん……」

 だいすき。だいすき。だいすき。だいすき。だいすき。だいすき。だいすき。

 母と自分だけの世界で、こうしてずっと母に愛を囁き続けていれば。いつか目覚めた母も、セレーヌだけを愛してくれるかもしれない。その思いつきはあまりに甘美で、少女は身の裡から迸る喜びを分かち合うべく、華奢な肢体を抱きしめた。細い四肢を力なく投げ出した女が、長い別離を強いられていた恋人であるかのごとく固く。一輪の木春菊であるかのようにそっと。

 物心ついてからは初めて母の側で見る夢の中で佇んでいたのは、何故かは分からないがマリエットであった。娘であるセレーヌも間違えてしまうぐらいに母に酷似したマリエットは、母の腕に飛び込んできた幼子を容赦なく突き飛ばすのだ。

 ――消えて。

 少女めいたか細い声で、何度も突き付けられる拒絶を、もうこれ以上は聴きたくなかった。小さな身体に宿るありったけの力でまだ柔らかな塊を押した幼子の背が震えたのは、察知した異変のため。

「……つめた、い?」

 悪夢に慄く指が触れたのは、一切のぬくもりを喪失した死体の肌で。初めて直面した異変に怯え錯乱した少女は、喉も裂けよとばかりに絶叫した。

「だれかきて! いんちょうさま! いんちょうさま!」

 

 そして気づいた時には、セレーヌはうっすらと霜が降りた冬の大地に開いた、暗く深く大きい口の淵で、業突く張りの空洞が大きな木製の箱を呑みこむ様をぼんやりと見つめていた。

「ねえ、いんちょうさま。おかあさんは、どこに行ったの?」

「セレーヌ。あのね。……マリエットは、神様と預言者様の所に逝ってしまって、だから、」

 もう何度目になるのかも分からない問いを零すと、傍らの老女の面は深い悲しみに歪んだ。

「だったら、いつかもどってきてくれる? わたしをむかえにきてくれる?」

「それは、無理よ。あなたのお母さんは遠い所に行ってしまったのだもの」

 いい加減に、院長様を困らせるのはやめなさい。近くで聴いてる私たちまでうんざりしてきたわ。

 吐き捨てられたのは到底受け入れられない真実であり、少女は拳を握り締め、土が被せられる柩の扉を睨み付ける。

 いつも聖典を読んでくれる優しくて大好きなおかあさんと、突然理不尽な暴力を振るうマリエット。セレーヌが恋い慕うのは前者だけで、後者は憎んですらいた。そっくりな二人はふとした拍子に魔術のように入れ替わるから、柩の中の女はおかあさんではなくマリエットなのかもしれない。そもそも、この葬儀だって、マリエットに騙された皆が、セレーヌから母を奪うために繰り広げている喜劇ではないなんて、どうして言い切れる。瞬きよりも素早く母と入れ替わってきたマリエットだから、地中の棺の中から抜け出すぐらい造作もないだろう。大体、イディーズは度々嘘をつくから、今回の事だって信用できない。

 母が自分を独りぼっちにして死んだりなどするものか。母はまだ生きているに決まっている。そうだ、あの憎らしい女が、セレーヌから母を奪ってどこかに行ってしまったのだ。セレーヌがあの晩見た夢は夢ではなくて、母を連れ去ろうとしていたマリエットと、偶然に遭遇してしまったのだろう。――そうだとでも思い込まねば、とても正気でいられそうになかった。母が、ついに自分に一言の愛の言葉も贈ってくれないまま、手の届かない場所に逝ってしまったなんて。

「セレーヌ? どうしたの!?」

 子供は母の亡骸と共に自身の記憶の一部を埋葬し、咎める声を振り切って葬儀の場から逃げ出す。強風に煽られた厚い雲の切れ間から覗く太陽の光は、真昼であるというのにか細かった。

 

 秘密と母が埋められた墓所に来てはならないという戒めが解かれた瞬間。少女の心身を苛んだのは激痛だった。

「……おかあさん!」

 マリエットは母だった。セレーヌがどれ程渇望しても、一欠けらの愛情も寄こしてくれなかった、世界で一番憎い――けれども大好きな、たった一人だけの母親。

 自らの手で何重にも鎖で封印し記憶の澱に沈めた禁断の小箱。長い長い捕囚生活を終え、日が当たる場所に出てきたいくつもの過去が齎す苦痛は、これまで舐めてきた辛酸とは比べ物にならなかった。

 四年前の冬の日には影も形も見当たらなかった涙がとめどなく溢れ、院長室の床を濡らす。

 もうこんなところには、母の面影が色濃く残る場所になどいられない。少女は最後の力を振り絞り、萎えた足で立ち上がる。

「あら。あなた、もう帰ってしまうの? 折角だからマリエットさんのお墓参りぐらい、」

「だまれ」

「セレーヌ!」

 一目散に駆けだした少女の背を、彼女の夫の呼び声が追いかける。

「院長殿。貴女は大切な人を喪うどころか、他人のために悲しんだこともないのでしょう。だからあの子の気持ちが理解できないのでしょうね」

 別れの挨拶の代わりに冷ややかな文句を紡いだ青年が慌ただしく去った後に残ったのは、幾つかの涙の粒と投げ捨てられた護符。

「……」

 そして釈然としない面持ちの壮年の女の顔であった。

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