真実は鍵が壊れた箱の中 Ⅰ
農作業で鍛えられ節が目立つ指から染み出た汗は、認められた宛名を滲ませる。雀斑が散る頬を蒼ざめさせた女は、滲みが広がらぬようにと細心の注意を払い、託された手紙を脅かす雫を拭った。懐に収めた小袋の中の貨幣は歩を進めるごとに弾む。まるで、これから成されようとする行為の罪深さを、テレーズに教えるように。
一か月に身を寄せた修道院の院長であるイディーズに特別な用――とはただ体裁を繕うだけの文句で、実際はただの使い走りを仰せつかり、渋々ながら久方ぶりに俗世に足を踏み入れて早くも半刻が過ぎた。
末端の貴族の娘として生まれついたテレーズが幼少期を過ごした修道院は、王制廃止の余波を受け閉鎖に追い込まれた。もはや顔どころか名すら覚えていない家族の許になど、帰れるはずもない。嫌がる幼い娘を修道院に放り込んだ挙句、手紙の一つも寄こしてくれなかった家族は、生死すら定かではないのだから。終いには自らの気力と体力のみを頼りにルトまで辿りついたテレーズにとっては、一刻程度の徒路など散歩も同然である。だが、日に焼けた額には汗の珠が噴き出し、自慢の健脚は徐々に重くなっていった。
それもこれも、自分が必要のない労働を課せられていることも含めて、全てフィネ・ベルナリヨンとその妻が悪いのだ。ただ独りの娘の持参金すら用意できぬ貧家に生を受けたために、嫁して家庭を築く道を閉ざされ、否応なしに修道院に押し込まれた自分は生涯掴めぬ幸福を手にするだろうあの夫婦が。
嫉妬が大罪の一つに数えられていることは充分に承知しているのに、白金の髪の人形と見紛う少女への羨望を抑えきれない。
あの少女は逞しい男の腕で抱きすくめられ、大切に守られていた。テレーズは仲睦まじい夫婦の様子をあれ以上は直視できそうになかったから、あの少女たちを修道院から追い出したのだ。本当は、あの青年が死刑執行人であるかなんて関係なかった。彼らを拒絶するに足る理由を得られて安堵したのは確かだけれど。
内心では院長の座に相応しからぬ高慢な女だと忌み嫌うイディーズの助力を乞わせ、けれども羞恥のあまり口外できなかった感情は、若い胸の裡を劫火で炙り苛む。あるいは院長はテレーズが弄した虚実などお見通しで、その懲罰としてテレーズを選んだのだろうか。いずれにせよこの責苦から抜け出すためには、命じられた小用を済ませなければならない。
気を抜けば手紙を握り潰しかねない衝動をどうにか抑え、視界の端にちらつく人影を物色する。中心市街の喧騒からは縁遠い郊外の、それでもかつては首都であった街の一部には、様々な男の姿があった。
一瞥して農村の者だと判別できる身なりの赤ら顔の男は、傍らの妻らしき女と楽しげに談笑しながら、青々とした野菜を詰め込んだ荷車を押している。修道女はいかにも満ち足りた横顔から速やかに目を背け、商人風に装った男の仔細を窺った。
体格も容姿も凡庸。口髭以外には特段に目を引く特徴のない中年の彼にも、テレーズが密やかに欲しつつも決して手に入らない幸福の影があった。中年の男には、妻だけでなく跡を継ぐ親思いの孝行息子や溺愛する娘も一人や二人はいて、毎日楽しく食卓を囲んでいるのだろう。でなければ、年頃の娘が好みそうな服飾品を扱う店になど入るものか。
俗世から隔絶されて育った修道女が流行などを解せるはずはない。だが、男の頼りない背が吸い込まれていった店内に陳列された品々は、テレーズの足をその場に縫い止めた。
テレーズは取り立てて醜くはないが、だからと言って他者の目を惹きつける美しさを持ち合わせてもいないことは、自分が一番良く分かっている。日射しで痛んだ榛色の髪は艶やかとは称せられない。同じく燦燦と降り注ぐ陽光に苛まれ続けた皮膚は、元来の白さを想像できなかった。顔立ちもまた地味で平凡の一言に尽き、貴族の娘として育っていたところで、誰かに花束と愛の言葉を捧げられるなど夢物語も同然だっただろう。だが、時々夢想してしまうのだ。
こんな私だって、着飾ってお化粧をして――雀斑を隠して、髪に
脳裏に過ったのはあまりに幸福で、あまりに虚しい願望であった。可愛らしさも財産も持ち合わせていない年増を妻に望む男などいるものか。
愚かしいにも程がある幻影を追い払うべく掌に爪を食い込ませ、今度こそ課せられた任務を遂行するため一番近くにいた男に声をかける。
「ねえ、そこのあなた。少し、頼まれごとをしてくれるかしら? 勿論、お代もたっぷり弾むから」
いかにも恵まれぬ労働者といった風采の男の、ひび割れた唇が紡いだのは了承の返事だった。
「こいつを買う金に困ってたところだから、丁度よかった」
酒瓶を弄ぶ男の吐息は生ぬるいが、瞳は酒気に侵されきってはいなかった。多少の不安は残るが、これなら大丈夫だろう。
「では、よろしく頼むわね」
修道女はぎこちなく唇の頬を動かし、手紙と上質の葡萄酒一本を購うには十分な貨幣を男に手渡す。銅貨は女の柔肌と下着越しに伝わる体温を吸い、すっかり生ぬるくなっていた。
「この手紙を、この街の飛脚組合の所まで届けてほしいの。私は場所が分からないから」
儚い熱と湿り気を纏った金属を掌で受けた男は、ほんの僅かに眉を顰める。修道女はその動作を男が宛先の姓名を忌避したためだろうと思い込むことにし、踵を返して聖なる神の家へと急いだ。
◆
綿菓子と見紛う雲が浮いた空は、曇天の鉛色を交えぬ爽やかな青色であった。これなら洗濯物もよく乾くだろう。うっすらと隈が残る目を擦った少女は、それでも籠に詰められたとりどりの衣服の一着を掴んだ。
力の限りを尽くしてもなお絞り切れなかった水分を含む布は重く、非力なセレーヌのみで全ての作業を完遂するのは少しばかり骨が折れる。けれどもそれが己に課された仕事である以上は、誇りと責任を持って取り組まねばならない。これしきのことで音を上げていては、洗濯物を洗ってくれた義母に申し訳なかった。
三人分の衣服を春の盛りの陽光と吹きつく風に晒し終えた少女は、満足げに頷いて気に入りの心地良い木陰に腰を下ろす。緑の天蓋の隙間から降り注ぐ日差しは、仄かな薄紅に色づいた華奢な指を、滑らかな紙片に刻まれた差出人の名をも柔かに照らした。
腹立たしい文面をもう一度黙読し、既に皺だらけになった手紙を躊躇いなく握りつぶす。そして決して見落とさぬようにとの意図の下で強調されたに違いない日時を念入りに確認し、少女は堪えがたい憂鬱を漏らした。何度見直しても、明日に迫っている。
――あなた、まだ生きていたのね。しかも、死刑執行人なんかと結婚したらしいじゃない。おめでとう。
最後に付け加えられた言祝ぎの文句の効果を無にするどころか、負の方向に傾ける戯言によって始まる手紙。開封するやいなや大地に叩きつけてしまいたくなった一葉が届けられたのは、思わぬ来客がベルナリヨン家に訪れてから数日後の午後のことであった。
「そこの、金髪のちっちゃいお嬢ちゃん」
庭園の花に水をやっていた少女は、生垣の向こうから唐突に響いてきた声に耳を澄ませる。きょろきょろとあたりを見渡すと、死刑執行人の一族と一般市民の住まいを隔てる囲いから現れたのは、ルトの飛脚組合に属する男の上半身に他らなかった。
「あんたのところに御届け物だ」
野兎さながらに速やかに。けれども警戒しながら近づいてきたセレーヌに、男は半ば投げ捨てるように手紙を渡した。
少女もまた男に背を向け、封の裏面に刻まれた差出人の名を確かめる。整ってはいるが細やかにすぎ、神経質な印象と醸し出す文字にはあり過ぎるぐらい覚えがあった。
これは間違いなく、イディーズの字だ。でも、どうしてあの女が今頃自分に接触してくるのだろう。
襲い来る不吉な予感と高鳴る動悸をどうにか宥め、震える指先で封を切る。ただの黒い線の連なりであるはずなのに強烈に忌み嫌う女の気配を立ち上らせる文面は、セレーヌとフィネが修道院を訪れた後のちょっとした顛末を綴っていた。まず最初に、若い修道女が死刑執行人と接触した罪に苛まれて告解に訪れたことを。告解の内容は当事者同士の秘密なのに、こんなにべらべらと詳らかにしていいのかと、思わずセレーヌが考えこんでしまうぐらいに。
――選りにもよって人殺しを生業とする悪魔のような方と一緒になるなんて、と思ったものだけれど、あなたにはお似合いかもしれないわね。末永くお幸せに。
纏めの文章を視界に入れた瞬間に沸き起こった凶悪な衝動は、手紙の端と端を掴む指先にも流れ込む。憤怒は頼りない紙を引き裂く力に変じ、限界まで引き伸ばされた紙片はびりとか細い悲鳴を上げたが、怒気の勢いは衰えなかった。
こんなふざけた手紙は、暖炉の中に放り込んで灰にしてしまいたい。だけど、このまま放置していると、セレーヌだけでなくフィネやミリーにも迷惑が掛かってしまうかもしれない。でも、このままこの手紙を持ち続けているのも不愉快極まりない。
千々に破り風で彼方に飛ばそうとしていた文の最後の確認で、これまでは目にも入っていなかった約束を発見してしまったのは運が良かったのか、悪かったのか。
何が、末永くお幸せに、だ。そんなこと小指の甘皮ほども思ってないくせに、よくも。
白々しい祝福によって煽られた炎の勢いが命じるまま、苛立ちの根源を、ついでに約束とやらの証拠も真っ二つにせんとした途端。
「庭先で手紙なんか広げて、何やってるんだ?」
計ったような頃合いで庭に顔を出した青年は小さな手から手紙を取り上げ、少女の試みを阻んだ。
「破いたりしたら、差出人に失礼だろう?」
「……分かってる。でも、」
引き締まった口元に揶揄いの影を乗せた青年は、セレーヌでは飛んでも跳ねても届かない高い位置に手紙を掲げて、頬を赤らめる少女を煽るようにひらひらと動かした。
「ほら。もうあんなことしないと約束してくれたら、君に返してあげるよ」
不可能を承知で奪還を試みるが、腕を伸ばしても、助走をつけて跳躍しても、たなびく端すら捕まえられない。
「……約束するから、それを返せ」
それから数分後。五回目の挑戦の際に広く硬い胸に強かに打ち付けた額を抑えながら、少女は震える声で降参した。
「君は聞き分けがいい、いい子だね」
頭を撫でる掌の熱は普段と変わらないはずなのに、今回だけは妙に気恥ずかしい。セレーヌが小さいからといってあんな風に揶揄うなんて、フィネはやっぱり
「一週間後――と言っても既に明日になってるけど――六時課の半刻前に、院長室に来い、か」
少女は怒りではなく恥じらいの紅を頬に昇らせたまま、長い指が指し示す文章を読み進める。手紙は今度こそ、「どうしても確かめたいことがあるから、私のところにいらっしゃい」で終わっていた。冗談ではない。どうしてセレーヌがイディーズの一方的な要求に従わなければならないのだろう。
「……お前は、どう思う?」
衰える気配が一向にない激高が滲む声で、少女は青年に問いかけた。こんな人の指図には従わなくてもいいんじゃないか、との返事を期待しながら。しかしそのささやかな祈りは届かなかった。
「ああ、そうだね。この日は仕事が入っていないから、一緒に行こうか」
少女は濃紺の目から隠れるようにそっと。疼きだした蟀谷を抑える。この日この瞬間から、セレーヌの長い鬱屈の日々は始まったのだ。
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