挿話 現実 Ⅱ
この聖堂は光輝に満ちた神の偉業を伝えるには薄暗すぎる。分厚い灰色の石の壁に開けられた採光窓は、心細さを覚えるほど小さない。ここにはもちろん、様々な色硝子を組み合わせて聖典の一幕を表現した薔薇窓はないけれど、だからこそ安心できた。まだ建築技術が未発達だった頃に建てられた聖堂は、王都のあの光溢れる豪奢な聖堂とは似ても似つかないから。
遙かな高みから差し込む一筋の光が舞い散る埃を照らす様子は、すっかり澱に埋もれてしまった記憶を呼び覚ましてくれる。……いつもわたしの側にいて、明るく笑っていてくれたあの子は、どんな名前だったのだろう。
あの子と別れて十年も経ってはいないはずなのに、もう顔もぼんやりとしか思い出せない。それとも、昔とても仲が良い友人がいたというのは、わたしの空想なのだろうか。
数年前からぶちぶちと――脆い糸がちぎれるように途切れ始め、ところどころ穴が開いた記憶。ぽっかりと口を開けた虚無を埋めるために、無意識のうちに創造した登場人物が「彼女」なのだろうか。それならば、ふと我に返った時にわたしの側にいる小さな悪魔も、わたしの弱さが見せる幻なのだろうか。
偉大なる修道士様方を惑わし堕落の道を歩ませようと目論みながら、最後は唯一神の力に負けて地の底に逃げ帰った賤しき悪魔たち。あの悪しき者たちさながらにわたしの贖罪と祈りを妨げる悪魔は、いくらいないものとして扱っても一向に消え去らないけれど。でも、このままあの囁きに耳を傾けることなく、ただ神のみを見つめていれば、あの悪魔も諦めるはず。だからそれまでは、祭壇の燭台に灯した小さな燈火を頼りに耐えなければ。
獣脂製の、お世辞にも質が良いとは言えない蝋燭が燃える臭いは、あまり快いものではない。けれども、個人での礼拝のために蝋燭を分け与えてもらえるだけでも、ありがたいことなのだ。だから、この修道院の院長様には感謝しなければならない。
『ねえ。貴女、ちゃんとあの子の面倒を見てあげている? その、あの子はいつもたった一人で遊んでいて――たまにお転婆が過ぎて怪我をこしらえてしまうようだから、少し心配なのよ』
彼女は時々訳の分からないことをおっしゃるけれど、とても慈しみ深い御方だなのから。それに、多くを望むことは、厳かな木製の身体を通してわたしを見守って下さる預言者様の教えにも反している。
仄暗い闇の中に浮かぶ、小さな橙色の炎。ふっと息を吹きかければ儚くなってしまいそうな光は、初めて悪魔と出会った時に灯っていたものとよく似ていた。聴罪用に備えられたあの部屋はもっと狭く、蜜蝋特有の甘い香気で満たされていた。だけど優しい香りは何物にも例えがたい生臭さと混じり合い、掻き消されてしまって――こんなことを考えてはいけない。
あの日のことを思い出すと、小さな悪魔に見つかってしまう。わたしの前に現れるあれの姿を見ると、あの日のことを思い出してしまう。小さな悪魔は、大きな悪魔にとてもよく似ているから。
「……さん!」
ああ、ほら、やっぱり。この声が聞こえるということは、わたしはもう見つかってしまったのだ。そう観念した途端に、背に何かがぶつかった衝撃が奔った。
「だ、だいじょうぶ? ごめんなさい。……いたかった、よね?」
柔らかな重みを堪えきれずに床に倒れ込んだわたしの上にいるのは、想像と寸分たがわぬものだった。わたしの頬に触れ腕を掴む、ふくふくとした小さな掌と指だけは、あの日の骨ばった細長いものとは違っている。でも、その体温が。何より、ひたむきにわたしを見つめる瞳が――わたしに痛みを与えた悪魔そのものだ。
……嫌だ。またあのおぞましいことをされるなんて、耐えられない。
「やめて。やめてやめてやめて。来ないで!」
触らないで。近づかないで――どうしてわたしがあんな目に遭わなくちゃならなかったの? わたしはただ、あの子と、オーリアと、心静かに……。オーリア? それは誰のこと? もう何も分からない。
――怖い。誰か、助けて。
でも、そう叫んだって無駄だ。だってあの時も、あの方たちはすぐ近くにいたのに、結局……。
だったら、どうすれば楽に――この手から逃れられるの?
誰か誰かだれか。主よ、どうかわたしをお救い下さい。
もう何年も前に洗い流したはずなのに、まだ
ひしと身を丸めて祈りを捧げていると、ふとあの熱と気配はもうどこにもなかった。悪魔は、祈りの甲斐あって退散したのだろう。ほんとうに唯一神の力は偉大だ。これからも慈悲深いわたしたちの創造主にのみ心を向けていれば、あの呪わしい存在は完全にわたしの前から消えてくれるはず。その時が待ち遠しくて仕方がないけれど、そう焦ってもいけない。
わたしは、一度神を裏切った身だ。その罪が赦されるには、今まで以上の献身と時間が必要だろう。そして、これ以上礼拝を続ける前に、わたしにはやるべきことがある。
すっかり短くなっていた蝋燭に灯った炎を吹き消すと周囲の闇は一層濃くなったが、聖堂と外部を繋ぐ扉からの光が、わたしの進むべき道を示してくれていた。沐浴室の冷え切った水を全身に浴びれば、いまだわたしの身体に沁みついたままの穢れがほんの少しは落ちるかもしれない。そうすればわたしは、ほんの少しだけだけど神や預言者さまの御前に立つに相応しい身になれる。
非力なわたしにとっては重い扉を閉めると、閉所になった内部から子供の悲鳴のようなものが聞こえてきたような気がした。そういえば、薄闇から仄かな光に移り変わる一本道の途中で、細く柔らかで白っぽい――上質な絹糸の塊に似た物を踏みつけてしまったのだが、あれはいったい何だったのだろう。
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