母なるもの Ⅲ
古の夜と魔術の女神の象徴である鳥兜は、使用法と用量に細心の注意を払いさえすれば良薬となる。人体を苛み、少しでも苦しみの刻限を長引かせるための知識もまた同様。用い方によっては人命を救い、耐えがたい苦痛を和らげることもできるのだ。
死刑執行人が代を重ねるごとに蓄えてきた知識の深さは、時に本職の医者すら圧倒する。ために高額の医療費を要求する医者には縋れぬ下流の人々は、住む街の死刑執行人を頼ることがあるのだ。セレーヌがいつか見た尖った刀――
「これなら命に別状はありませんよ。派手に出血してはいますが、主要な血管は傷つけられていないので、そのうち血も止まるでしょう」
「本当ですか!?」
今まさにフィネは迂闊に触れれば指先が切れそうな刀やその他の道具を横に置き、泣きじゃくる幼児の腕に薬を塗っている。鍛冶屋の妻だと名乗った女性は、顔面を蒼白にしながらも、涙を浮かべる子供の無事な片手を握って離さなかった。普段ならば会話どころか、同じ空気を吸うことすら忌避する死刑執行人の側にいるのに。それがどうしたかとでも言いたげに。
「俺が調合した傷薬と、一応血止めと化膿止めの薬を渡しておきます。患部をできるだけ清潔に保ち毎日薬を塗っていれば、そのうち傷も塞がるでしょう」
「ああ、坊や。……良かった」
不安と安堵がせめぎ合う瞳は、涙で頬をべたつかせた我が子のみを映していた。どんな些細な不調も見逃すまい、と。
既婚の夫人らしく纏めていただろう髪を振り乱した女性の身なりは、こう断言しては申し訳ないとは思うがみすぼらしい。けれども赤褐色の斑とつぎはぎが目立つ衣服に袖を通す彼女のやつれた横顔は神々しく――聖人伝に名を連ねる聖女すら及ばなかった。
母子の姿に受けた衝撃を堪えるために、少女は己が小さな胸にそっと右手を置く。柔な手の下の、肌理細やかな皮膚と肋骨に守られた、小さな心臓。全身に血潮を巡らせるために休むことなく動き続ける臓器は、何十本もの針がねじ込まれたかのように悲鳴を上げていた。
握り締めた左の掌には桜貝の爪が食い込む。滲んだ血はフィネに言いつけられて物置から探り出してきた包帯を赤く染めた。真白を浸食する紅蓮はセレーヌの内側にまで忍び込み、稚い心を古い血の暗紅に変貌させ、血の色は徐々に深みを増しついに漆黒となった。
少女は慌てて、自身の理解の範疇から逸脱した、今まで実存を疑ってすらいたものから目を逸らす。これ以上この光景を直視していたら、妬ましさのあまり呼吸が止まってしまいそうだった。
どうしてあの子供は、あんなにも安らかに母の腕に身を委ねているのだろう。セレーヌは、読みたくもない聖典を何貢も読まなければ、母に話しかけることすら赦されなかったのに。それに、どうしてあの母親は、不手際をやらかした子供を叱責も打擲もしないのだろう。
セレーヌが思い描く「おかあさん」とはあまりにも対照的な母親の姿は、幼き日にいつもこうあってほしいと望んだ理想でもあった。あまりの衝撃を受け止めかね、脆い心には深い深い亀裂が奔る。ひび割れから滴り落ちる幻の血潮は、過去の己の流血と痛みに変じ、破れた鐘の音が響き渡る頭に更なる苦痛を齎した。
「まあ、セレーヌ。その傷はどうしたの?」
「……棘でひっかいちゃったの、院長さま」
「そう。あなたはずいぶんお転婆ねえ。 ……身体に活力が満ちているのは喜ばしいことだけれど、今度からはちゃんと怪我に気を付けて遊ばないと駄目よ」
手芸用の鋏で裂かれた幼児の皮膚を労わり、土に塗れた膝小僧を洗い流して薬を塗布してくれるのは、必ず前院長であった。人を疑うことを知らぬ善良な彼女は、いつもセレーヌが付いた小さな嘘をすんなりと受け入れてくれたのである。
「あなたが怪我ばっかりしていると、あなたのお母さんも心配するわ」
母はセレーヌがどんな傷を拵えようと――それこそ、娘がマリエットによって害されても関心がなかったようで、度々細い四肢に刻まれる傷に言及されることはついぞなかった。彼女の視線はいつもセレーヌの頭上を通り過ぎ、祭壇に祭られた大いなる存在に注がれていて……。清冽な瞳が娘を映すのは、聖典を読み聞かせてもらうか礼拝の際のみ。それ以外に、あの澄み切った眼差しが自分を捉えるのは、皆無に等しかった。
「ねえ、おかあさん。いつおうちに帰れるの? ぼく、つかれたからもう眠りたい」
それに比べようやく泣き止んだ幼子は、何もしていないどころか迷惑をかけたのに、母の腕に抱かれている。どころか彼の母は息子のために、街中で忌み嫌われている死刑執行人の家に足を運びさえしたのだ。今日の行動が他人に知られたら、良好な関係を築いてきただろう隣人たちから、口を利いてもらえなくなるかもしれない。それだけならまだしも、死刑執行人やその一家に放たれる蔑視の矢の新たなる的になってしまうかもしれないのに。
我が子を救うためならば、明日の我が身の行く末すら顧みず、喜んで全てを投げ打つ。目の当たりにしている女性の振る舞いこそが母の愛の顕れだとしたら、セレーヌが縋っていたものは……。
これ以上は、この場にいたくない。もう何も考えたくないし、考えられそうになかった。
少女は膝から崩れ落ちそうになる身体を叱咤激励し、重くなった手足を動かす。そして互いの身を寄せ合う母子に包帯を手渡すと、一目散に居間から出て、自分の部屋に駆け込んだ。日中に干していた布団は太陽の温かな匂いを立ち上らせ、千々に引き裂かれた胸中ごとセレーヌを受け止めてくれる。けれども真にセレーヌが欲する肌とは、似ても似つかなかった。彼女はこんなにも優しくセレーヌを迎えてくれはしなかった。
固く閉じたはずの目蓋の隙間から流れ落ち唇を濡らす液体は塩辛く、懐かしい。涙は目蓋以上に強固に閉ざされた箱の鍵を錆つかせ、頑なに封印していた記憶の断片を蘇らせた。
「あなたの名前は高名な――この聖女様から採られたのよ」
強張った面でどうにか笑みらしきものを形作る母の指が指し示すのは、聖人伝のある一幕。ある時は男よりも雄々しく剣を振るって信仰のために戦い、けれども奮闘虚しく残酷な王の追手に捕らえられ、拷問の末に殉教した聖女。その短くも苛烈な生涯は、幼い子供にとっては恐怖を呼び覚ます代物でしかなかった。
清らかな声で紡がれる物語は凄惨の形容詞が似つかわしく、神々しく装われてはいてもやはり残酷な聖女被昇天の挿絵には、目を覆いたくなる。セレーヌは己と同名の聖女よりも、修道院と同じ名を持つ聖女の方が好きだった。追手に捕らえられ殉教してしまう最期は両者に共通しているが、聖女ファラヴィアの生涯はもっと優しい。当時の世の中から疎外されていた者たちに惜しみない愛を注ぎ、迷える民の教化に勤めた彼女こそが、夢に見るまでに渇望した母であったから。
「ちゃんと聴かないと聖女様の偉大さが理解できないわ。だから耳からその手を、」
「でも、おかあさん。このおはなし、こわいよ。だからわたし……」
退屈な読み聞かせに飽いた子供は、母の慰みを求めて腕を伸ばす。しかし幼い手が触れたのは、マリエットの衣服だった。
「触らないで――お前は悪魔なのに、どうしてここにいるの!?」
修道女は子供に袖を握られた途端、ぶつぶつと誰かに助けを求めながら、意味が分からない戯言を吐き出す。そして幼児はやがて襲い来る痛みに耐えるため、ひしと目を閉じ身体を丸めたのだった。
◆
「あ、あの。今日のことは、どうか、内密に。……勿論、お礼はいたしますから、」
ぐったりとうなだれる幼児を抱えた女が去り際に紡いだのは、予想と違わぬ言葉だった。父が存命していた頃は父が投げかけられていた、お決まりの別れの挨拶。少年だった頃のフィネは、嬉々として処刑見物に来る一方で自分たちを悪魔と罵るのに、危機に追い込まれた際には都合よく死刑執行人を利用する輩を内心で嘲っていたものだった。
『親父が倒れた? こっちはあんたたちに病人盗られて迷惑してんのに、わざわざ人殺しの家まで出向いて人殺しの診察するなんて、冗談じゃねえ』
『わざわざ王都にまで修行にいってた貴方なら、私どもより余程うまく御父君を治せるでしょう? これが私の返事ですので、一刻も早く我が家の敷地から出て行ってくださいね』
特に父を喪った直後は憎悪すらしていたものだったが、現在は違う。普段は見下してすらいた者に頼らざるを得なかったのはフィネも同じだ。どんなに精通したところで、死刑執行人が修めた医業は所詮副業。
死刑囚の女に求婚して妻とする権利以外に、免税やその他の特権を与えられた自分たちと一般市民は根本的に異なるのだ。群れを繋ぐ太い紐帯の輪から締め出された羊に待ち受けるのは、底知れぬ困窮。あるいは死に他ならない。
ありえるかもしれない暗澹とした未来を回避せんとする、名も知らぬ若い母親の行動は紛れもなく正しいのだ。律儀にも頭を垂れた彼女は、疑うべくもなく善良な人物なのだろう。もしもフィネが死刑執行人ではなくごく普通の医師であったら、街ですれ違えば笑顔と共に感謝の念を述べていたぐらいには。
「私どもには貴女方と違ってたわいない世間話をする隣人など存在しませんので、ご心配なく」
辛辣な物言いを自覚しながらも口元に微笑を絶やさなかったのは、これ以上この女を怯えさせるのはと良心が咎めたからでは全くない。
「それと、お礼とやらも結構ですよ。我が家では先祖代々、あなたのような方からは代金を取っていませんから」
父が死して以来、フィネは柵の中の白い羊たちの一切に関心を失った。だからこそ、形ばかりとはいえ笑みを作れもする。もし仮に、夜中に急に傷口が開いて女の腕の中の子が失血死したとしても、今と全く同じ顔であまりにも幼い死者を悼めるだろう。
ならばなぜ幼児を助けたのかと問われれば、生活のためでしかなかった。自分ではなく、母や妻とした少女が少しでも堂々と街を歩けるようにするために。いつか生まれるかもしれない子のために。それこそがきっと、フィネのみならず、フィネの縁者たち――父や、レイスとフィネの師たる伯父や祖父、更にその先代や先々代に、死体の腹を割いてまで医療の知識を追究させた理由なのだろう。
「そろそろ本当に帰宅された方がいいのでは? これ以上暗くなると、途中で物盗りに遭うかもしれませんから」
「そ、そう、ですね……。では、」
押さえきれぬ安堵の溜息を漏らした女は、それでも最後に礼を述べて去っていった。
青年は薬草と僅かな血の匂いが漂う居間で、慌ただしく部屋から消えた少女を想って目を伏せる。フィネが怪我をした子供の手当てをしている最中のセレーヌの様子は、あからさまにおかしかった。あの鍛冶屋の親子は一切変わった行動はしていなかったのに。
息子を気遣う母親の行動を観察する、元々零れ落ちんばかりに大きな目は、更に大きく見開かれていた。まるで、この世のものあならざる怪異と対峙しているかのように。
母親が、深手を負った我が子を労わる。ただそれだけの当たり前の行為のどこが、白桃の頬を死体同然に蒼ざめさせたのだろう。手当の最中にちらと見やった小さな白い顔は悲痛に歪められていて。フィネは痛みを訴える子供などよりも、打ちひしがれた様子の少女を痛ましく感じたものだった。
修道院から追い出されたばかりの、世間知らずで無垢なセレーヌは、いつも率直に感情を面に載せる。おとなしそうな見た目の割に気が強い彼女は、その分素直で真っ直ぐなのだ。そんな
青年は脳裏に過った仮定を一旦は頭を振って払いのけ、少女が籠る部屋の扉を叩く。
「セレーヌ?」
しかし室内からは入室の許可どころか、物音一つしなかった。二度三度と名を呼んでも、やはり応えはない。
「……もう寝ているのか?」
安眠を妨るのは悪い、と青年は踵を返して妻の部屋の前から立ち去った。扉で隔てられた室内にいる彼女が悪夢に苛まれているのだと考えもせずに。
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