母なるもの Ⅱ
飴細工の花に負けず劣らず艶やかに焼き上げられた生地は、触れただけでもほろりと崩しる。蒸留酒で風味づけした巴旦杏のクリームと、甘酸っぱい林檎の相性は抜群。一口食めば口の中が、二口目はこの世そのものが神の楽園と化した。
三口、四口と
「ほんとにありがとうな! これ、ここから遠い店のやつなんだろ? 雨も降ってたし、持って帰ってくるの大変だったんじゃないか?」
飾りを兼ねているのだろう。こっくりとしていて甘やかな金茶色に振りかけられた、濃い緑――小さく刻まれた
「そんなことはないよ。これは帰りに通りかかった店で買ったんだ。他にも君が気に入りそうなのが色々あったし、今度行ってみるといい。家からあの店までは、君の足でも四半刻もかからないだろうから」
と思っていたねだが、セレーヌの頬の筋肉を緩ませる美味は、近所の菓子屋で作り出されたものらしい。ならばフィネが勧めるとおり、散歩がてら訪れてみるのもいいだろう。
「……色々あったけれど、君に喜んでもらえて良かったよ」
珈琲を啜り、じゃないと俺は風邪をひいてただろうからと苦笑した青年の顔は、これまでの中で一番彼の母親に似ていた。
眉や輪郭。そして目元は似ているけれど、眼の形や細さそのものはミリーのそれと全く違うのに。鋭いとはいかずともやや細い目をしたフィネに対して、ミリーはくっきりと大きな目をしている。すっきりと通った高い鼻や薄めの唇も、フィネは母とは似ていない。ならばそれらは父親譲りなのだろう。
「どうしたんだい?」
「え?」
「さっきから菓子じゃなくて、俺の顔ばっかり見てるからさ」
「……べ、別に、そんな。……ただ、お前はどことなくお義母さんに似てるな、と思っただけで、」
「そりゃ、親子だからね。似てない方がおかしいだろう?」
「そうか。……そうだよな」
フィネは母にも父にも似た。翻ってセレーヌは、母には全く似ていなかった。白金色の髪も緑の目も顔立ちも、セレーヌの容貌や特徴は母とはおよそかけ離れている。ならば、自分は誰に似たのだろう。いつか前院長に投げかけた問いの答えは、とうとう得られなかった。
『あなたが誰に似ていても、あなたはとても可愛い女の子なのよ』
二切れ目はまだ半分も残っているのに突き匙を置いてしまったのは、大樹の幹のような手を持つ女性の面影を想起したためではなかった。美しく華やかな菓子の後に出すには地味すぎて恥ずかしいが、セレーヌだってかけがえのない伴侶のための品を用意していたのである。だけどその前に、そろそろ夕食の支度を始めなければならないだろう。
「そ、その……。今日の夕飯はお前が好きな牛肉の煮込みなんだけれど……。や、や、やっぱり何でもない!」
お前のために焼いたつまみを出すからお代わりは、なんて言えるはずがなかった。少女の舌の根を縛めたその鎖、またの名を気恥ずかしさと言う。
これ以上居間にフィネと二人きりではいられない。弾丸さながらに飛び出した少女の胸を貫いたのは、密やかな独白であった。
「……あの日から少し塞ぎこんでたけど、すっかり元通りになって良かった」
その言葉が誰に向けられたのかぐらい、考えなくとも分かる。フィネは、セレーヌを元気づけるために菓子を買ってきてくれたのだ。つまりセレーヌは、フィネにも案じられるぐらい沈みこんでいたのである。
「セレーヌが静かだとなんだか物足りないからな」
息を殺しながら拾い上げた文句に納得がいかない点は多々ある。けれども、思い当たる節は在り過ぎるぐらいにあった。緩やかに降ろした目蓋の内に広がるのは、申し訳ないと言わんばかりの、悲しげな笑みであったから。
死刑執行人に対する根深い差別。その一端と初めて真っ向から対面させられた少女は、夫に抱えられて帰宅した後、一刻は寝台に横たわっていた。
「――悪かったな。俺はああいうのに慣れているけれど、君はそうじゃないだろう?」
小さな頭を撫でた青年は、もっと早く忠告しておくべきだったと呟く。フィネは幼い頃から、彼が何者か知った途端に掌を返す人々の非情さに向き合ってきたのだ。だから当然あの修道女の態度も予想の範囲内で、それ故身の上を明らかにすることをためらっていたのだろう。
「べ、べつに。……お前が謝ることじゃ、ない、だろ?」
考え足らずのセレーヌがフィネの思慮を台無しにしてしまったから、墓参りは果たせなかった。その責任が帰せられるのはもちろんフィネではない。けれどもあの修道女でもなくて、社会に深く根差した暗黒の何かなのだろう。
「それに、今日は上手くいかなかったけれど、いざという時は――ほんとは良くないことだけど裏門から忍び込めば墓地には行ける。だから気にするな」
「そうか。……ありがとう」
何故か感謝の一言を残して部屋から出た夫の背を見送り、湿った吐息を吐き出す。申し訳程度に蟀谷を抑えていた小さな手の震えはとっくに――修道院から離れてすぐに消え去っていた。震えどころか、耐えがたい頭痛や吐き気すらも。
いっそのこと、あの痺れがこの時もセレーヌの中に巣食っていたのなら、まだ納得しやすかった。あれはただの体調不良で、今回もたまたま不運が重なっただけなのだと。
けれども現にセレーヌの身体は元通りになっていて、頭蓋を暴かれ脳を直接鷲掴みにされているのではと錯覚してしまう苦痛は影すらも存在しない。ならば不調の原因は――
過去に舐めさせられたどんな苦杯よりも干しがたい衝撃は、マリエットに関する事柄を想起した際の痛みそのものだ。しかしその激しさは比べ物にならず、本能的な恐れすら喚起させる代物であった。
疲弊した肢体に忍び寄る眠気が薄い目蓋を撫で、潤む瞳を暗闇の中に封じ込める。少女は身体の欲求に素直に従い、おとなしく安楽を貪った。とろりと蕩ける意識はいくつにも分かたれた記憶の回廊の分岐点に辿りつき、そして僅か一刻前の朧げな情景に繋がる扉を開く。
――もしかすると、こちらの方が確実かもしれないと思っていたからね。
夢の中の自分と一体化したセレーヌの頭上から降ってくる低く落ち着いた声は、慣れ親しんだフィネの囁き。
セレーヌは、どうしてフィネは先程おかあさんではなく、マリエットの居場所を尋ねたのか追及せずにはいられなかった。しかし、質問をしたものの返答に耳を傾ける余力はとうに失われていて、少女は後ろめたさを覚えつつも目を閉じる。
――君が求めている人は……。いや、今はやめておこう。
故に泥濘に沈みこんだ少女は、ひっそりと抑えられた低音を聞き取ることはなかったのだ。
「丁度いい時間に起きたね、セレーヌちゃん。ついさっき夕飯を拵え終えたばっかりなんだよ」
四肢に絡みつく泥の海をかき分け深淵から抜け出してからは、セレーヌは平静を装い続けた。割り当てられた家事をこなし、ミリーやフィネと共に食卓を囲めば、いつかこの違和感も無くなってしまうだろう。楽しいことに――ちょっとした菓子作りに精を出せば、胸を蟠らせる感情も消えてなくなるはずだと信じたかったから。
陶器の皿に盛って差し出した塩味のパイは、とどのつまり鬱屈した情念の結晶でしかない。
「ど、どうだ?」
「ああ、うん。美味しいよ」
けれどフィネは気に入ってくれたらしく、軽い夕食の後の団欒のお伴として供された菓子は、味見をしてくれたミリーにも好評だった。
「そうか」
少女は歓喜に沸き立つ心を抑え、あえてそっけなく言葉を返す。
「たまたま暇だったから作っただけだけど、お前が、その、」
実際は、甘味よりも酒の肴になるような乾いたものを好むフィネの味覚に合わせて菓子を焼いたのだが、あくまで偶然なのだと主張しながら。
「そういうのが好きなら、また作ってやらないことも……」
隠しきれなかった心情は、滑らかな乳色の肌に浮かぶ血の色と熱となって表れる。
「そうかい? 楽しみだな」
青年は緩やかに目を細め、紅潮した頬に手を添えた。突然の接触に小さな心臓は破れんばかりに騒ぎ出しているのだと知ってか知らずか。鍛えられた皮膚に覆われた親指と人差し指がまろやかな曲線に沿って滑り落ち――
「これ、付いてたよ」
唇の端の欠片を取り去った。
「ななななななんでお前が取るんだ? 教えてくれれば自分でしたのに!」
「なんでも何も、俺がした方が手っ取り早いだろう?」
「――そういうことは予告してからにしろ! じゃないとびっくりして心臓が止まりそうになる!」
「いや。それはないだろ」
「いいや、ある! 万が一お前のせいで心臓が動かなくなったら、絶対に責任取ってもらうんだからな!」
少女は今度こそ旬の木苺よりも顔を赤くし、平然としたままの青年に抗議する。
「はいはい。分かった分かった」
しかしフィネは少女の怒りと恥じらいを受け止めつつも軽く受け流し、橙色を帯びた琥珀色の酒で喉を潤した。
「どうしたんだい、セレーヌちゃん? さっきから大騒ぎして。もしかしてうちの馬鹿息子が懲りずにまた何か……」
「俺は何もしてないよ、母さん」
やがて皿洗いを終えたミリーが再び食卓に着き、家族が揃った居間の姦しさはより一層深まる。
「いいや、した! お前はわたしの心を弄んだ!」
「そうなのかい、フィネ? ……もしも本当なら、今度こそどうなるか分かってるだろうね?」
「“弄んだ”だなんて、人聞きが悪いな。たったあれだけのことでここまで動揺する必要はないだろう?」
青年が母の誤解を解き妻の動揺を鎮めるに成功するまでには、四半刻余りの時間を要した。
「すまないね、セレーヌちゃん。あたしからもちゃんと言い聞かせておくから、取り敢えず許してやってね」
どこか面白がっているような趣があったとはいえ、義理の母の謝罪を蔑ろにするなどできるはずはない。少女は興奮と狼狽の赤にうっすらと染められたままの首をこくこくと振る。そして酷使したために少し乾いた喉を潤かそうと、義母お手製の果実水の器を傾けたその途端。
敏い耳が奇妙な音を捕らえたため、甘酸っぱい果実の風味で舌を楽しませるどころではなくなった。
「母さん」
「ああ、フィネ。あたしも聞こえたよ」
異変を察知したのはセレーヌだけではなかった。フィネやミリーも怪訝そうに、母と息子でそっくり同じ形の眉を寄せている。一家が様子を伺っている間にも、扉を叩く音は大きくなり、頻度も増していった。
世間一般の社会から爪はじきにされている、突然の来客など無いに等しいベルナリヨン家。街で知らぬ者などいない死刑執行人の家に夜遅く訪れる人物など、碌な者ではない。
「俺は部屋に置いてる剣を取ってくるから、母さんたちはじっとしておいてくれ」
「フィネ。……もしかして、今、外にいるのは、」
「うん。わざわざこの家を狙わなくてもいいだろうとは思うんだけど、たまにいるんだよな。実際に使われた拷問道具や死刑囚の遺品を盗み出して、悪趣味な蒐集家や妙な儀式に凝っている人に高値で売りつけようとする怖いもの知らず」
この家の財産を狙う押し込み強盗か、酒に酔ったならず者か。どちらにせよ警戒を要する輩だろう。
「少しぐらい変な物音がしても、ここから出てこないでくれよ」
一端は衣服の隠しからセレーヌにも見覚えがある小さな刃物を取りだした――というか、どうして彼はあんな物騒な物を持ち歩いているのだろうか――青年だが、これだけでは心もとないと判断したのだろう。死刑執行用の両手剣を用意して、神妙な面持ちで不気味な物音の正体を突き止めに行った。少女は彼の無事を祈って両手を組み、中年の女は気遣わしげに唇を引き結ぶ。
「もう大丈夫だよ。母さん、セレーヌ」
いつの間にやら固く閉ざしていた目蓋が、焦がれた響きによって持ち上げられた瞬間。
「夜分遅くにすみません。でも、息子が、あんなに注意していたのに、少し目を離した隙に夫の仕事道具に触れて腕を切ってしまって! ……まだこんなに小さいのに、血が止まらないんです」
未だ不安げに揺れる瞳は、血まみれになった腕を抑えて泣き叫ぶ幼児と、彼を抱えて途方に暮れる、決して裕福ではない身なりの女の姿を映した。
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