母なるもの Ⅰ

 きちんと整理整頓されてはいるものの、そこここに油染みが染みついた台所。その片隅に設けられた石窯の扉の隙間からは、芳しい匂いが漏れ出ていた。もう焼き上がりなのだ。

 少女は誰に示すでもなくこくりと頷き、厚手の手袋を嵌めて黒ずんだ鉄の取っ手を引く。重い扉が開かれた途端、閉じ込められていた熱気は我先にと外界に飛び出し、白金の髪がへばりつく額には透明な珠が吹き出た。珠は上気した丸い頬に付着した白い粉の上を、か細い首筋から胸元を流れ落ちる。だが少女は不愉快な汗を拭おうともせず、これまた黒く重い鉄の板に行儀よく並んでいる物体の肌の色を窺った。

 小麦粉と角切りにした牛酪を擦り合わせ、冷水で纏めて捻れた紐状に整形した生地は、薄黄から食欲そそる狐色へと様変わりしている。振りかけた岩塩の粒は、幾重にも積み重なった層の表面で、研磨された金剛石か朝露のごとく輝いていた。

 これは、初めてにしては上出来ではないだろうか。

 はやる気持ちは抑えきれず、少女は手製の菓子の一つをそっと摘まむ。持ち上げた菓子は羽のように軽くて、口内に放り込み咀嚼すると、たちまちさくりと崩れていった。

 加熱された乳製品独特の風味と塩の辛みの相性は絶妙。甘い物好きのセレーヌは、これには砂糖を掛けた方が美味いだろうと思いはしたのだが、満足できる出来栄えであった。立ち昇る焼きたての香りは「私を食べて」と乳白色の指を誘っている。

「これ、少し焦げてるな」

 他と比較すると少しばかりこんがりとし過ぎた一つを柔らかな唇の隙間に押し込めば、次が欲しくなる。頑張って生地を練り合わせたのだから、眩いばかりの黄金色の一本の、一つや二つぐらいこっそり頂いてもいいだろうと。だが、誘惑に負けてばかりいるとどうなるかは分かり切っている。ゆえに少女は油分が沁みた指先を舐るにとどめ、夫の帰宅を待った。

 茸と牛乳の汁物ポタージュを平らげた後。仕事ではないが急を要する所用があるのだと、フィネはただちに家から飛び出した。いつ帰るのかも告げずに外套を持ちだした彼が歩んでいるだろう街の上には、どんよりとした鉛色が立ち込めている。フィネが家を出た正午はにこやかに微笑んでいた空は、何が気にくわないのか急激に臍を曲げ、今ではいつ泣き出してもおかしくはないほど不機嫌になっていた。

 ――こうなるって分かってたなら、今日は出かけるのはやめにしたらどうだと引き留めておけば良かった。

 少女は憂慮が入り混じった吐息を漏らす。長く密な睫毛に囲まれた緑の瞳が捉えるのは、とうとう滴りだした雫が伝う窓に他ならなかった。ルオーゼどころか大陸中部北方三カ国においては、雨と雨が齎す寒気を跳ね除ける防具といえば、革製の外套ぐらいのもの。遠い遠い東方の国々でならばいざ知らず、セレーヌも一つ与えられた傘は、日差しから北方の民特有の白い肌を守るためだけに用いられる。いわば傘は櫛や手鏡と同じ女の象徴であり、男が傘を持とうものなら周囲から嘲笑されてしまうのだ。もちろん、槍さながらの陽光降り注ぐ晴天でもあるまいに傘を広げれば、女であっても頭がおかしくなったのかと囁かれるのだが。

 もうすぐ春だし天気がいいからと、薄手の外套のみを羽織った青年はきっと今頃、身体の芯まで冷え切っているはずだ。ならば、凍えたフィネがいつ帰って来てもいいように、彼が好きな珈琲の準備をしておいた方がいいだろう。


「母さん! 服と何か拭く物持ってきてくれ」

 セレーヌの想像通り、全身をしとどに濡らしたらしき青年が帰宅してきたのは、丁度湯が沸いた頃であった。

 家の奥で片付けをしているミリーは、息子の帰宅に感づいてもいないだろう。義母の代わりに玄関に急いで数瞬後、少女が出くわしたのは、水分を含んで常よりも暗い――古び黒ずんだ血潮のごとき毛髪をむき出しの背にへばりつかせた夫の姿であった。

「ああ、なんだ。君が来てくれたのか」

 フィネは濡れ鼠のまま家に上がって、床を濡らしては悪いと考えたのだろうか。脱ぎ捨てた上衣や襯衣、長い脚の線を露わにする脚衣の裾を搾る青年は、ぴしりと硬直したセレーヌを見やり、冷え切っているだろう頬を微かに緩めた。そして、わなわなと震える指が握る手拭に手を伸ばしたのだが――

「おおおおおおお前は、いいいいいいいいったい、ななななななんて恰好してるんだ!?」

 眦が裂けんばかりに瞠られた双眸どころか、ゆで上がった海老そっくりの赤に変じた顔を小さな掌で覆った少女は、夫の顔面目がけてややくたびれた生成り色を投げつけた。

 あからさまに自分たち女とは違う性に属していると主張する、逞しい上腕の盛り上がりや腹部の畝をこれ以上直視していられない。フィネはむさくるしいとまでは行かずとも背が高く大柄なのだが、いつもの所々に血飛沫の名残が付着した襯衣の下に、こんなものを隠していたなんて。しかも、一糸纏わぬ上半身を何の躊躇いもなくセレーヌの目に晒すなど。

「――わたしが妊娠したらどうするつもりなんだ!? もしもそうなったら、責任取ってもらうんだからな!」

 既に故人になった前院長は、今よりももっと幼かったセレーヌが、「あかちゃんはどうしてできるの?」と尋ねたら教えてくれたのだ。男の裸を直視したら、子供ができることがあるのだと。

 前院長が普段は穏やかな顔を微妙に顰めて語ってくれた説明を信じるならば、男はどこかから精気を発して、その男の気が女の体内の奥深くにある何かと結合すると子供になるらしい。ゆえに、男はみだりに妻以外の女性を妊娠させないように、女は夫以外の男の気の侵入を防ぐために、衣服を纏うのだ。

 なお、精は密着すればするほど伝わりやすくなるため、服を着ていても男と濃厚な接触をすれば、たとえば同じ寝台で一晩一緒に眠るだけでも子供はできる。何でも、上掛けという覆いの下、発散されぬ気は徐々に濃度と可能性・・・を増してしまうらしい。

 だから万が一好いてもいない男の裸体を見せつけられたりしたら、大声で助けを求めなさい、とセレーヌは前院長に約束させられていのだが、この場合はどう対処すればよいのだろう。

 フィネはセレーヌの夫であるから、フィネが自分に裸を見せるのは、至極当然のことではある。だが、いつかはと考えているとはいえ、たった十三歳のセレーヌが母親になるのは早すぎるだろう。フィネには一刻も早く服を着てもらわなければ。

「……妊娠?」

 なのに、手拭いを肩にかけた青年は呆然と立ち尽くしたままで、服を取りに行こうとする気配はない。

「まあいつか君がそんなことになったら、夫としての責任はきちんと取るけれど……」

 これまで共に生活する中、そんな素振りは一切見せなかったが、もしかしてフィネは子供が欲しかったのだろうか。だったら、ここまで頑なに拒絶するのも悪いかもしれない。と、恐る恐るながら意を決して固く閉ざしていた少女の目に飛び込んできたのは、

「そもそも君、始まって、」

「――お前は、セレーヌちゃんの前で何て破廉恥な恰好してるんだいっ!?」

 セレーヌの絶叫を聞きつけたのか。それとも勘か。何事かを言いかけた息子に助走を付けて殴りかかる女の、鬼気迫る横顔であった。

「わ、悪かった! 俺が悪かったよ、母さん! だから、」

 巌のごとき拳を己が掌でどうにか受け止めた青年は、壁際まで追い詰められながらも猛牛と化した母を宥めるべく奮闘する。

「しかも、さっきの言い草! 年頃の女の子相手に、無神経にも程があるよ!」

 だが青年が振るう言葉の剣は、怒り狂う猛獣の闘志に跳ね除けられ、彼女の心どころか耳にすら届かなかったようだった。

「今日という今日こそ、お前の性根を叩き直さなきゃいけないみたいだね。――ちょっとそこに座りな、フィネ」

「……」

 お伽噺の竜のごとく荒れ狂う母を前にしては、フィネも寒さを感じる余裕などありはしないのだろう。

「お前がそうなったのは、母親であるあたしの教育が至らなかったせいでもあるから、そんなにあれこれ言うつもりはないよ。でも、お前の無神経さは目に余るからね。そうだろう? 自分でも分かってるだろう?」

「……はい」

 しっかりとした腰に手を当てた母親に膝を折った青年は、上半身裸のままらしくなく従順に頭を垂れた。

「だったらどうしてお前は何度も同じ過ちを繰り返すんだい?」

「……申し訳ございません」

「お前が本当に頭を下げるべきなのはあたしじゃなくて、セレーヌちゃんだろう? ――ああ、分かった。お前は中身のないその場しのぎの謝罪を繰り返すだけで、何一つ学習しようとしないから、何度も同じ間違いを犯すんだ」

 普段よりもフィネが小さく見えるのは目の錯覚なのだろうが、セレーヌにはそれ以上に気がかりなことが一つあった。

「……本当に申し訳ございません」

「だから、あたしには謝らなくていいんだよ。お前があたしに言うべきなのは、理由であって謝罪じゃないんだ。さあ、このあたしに教えてごらん。ついさっき、お前は何を考えてあんなことを言ったんだい?」

「……」

「え? 何なんだい? 何言ってるのかちっとも聞こえないけど、まさか“何も考えてなかった”なんて言うつもりはないだろうね?」

 このままでは、ミリーがフィネの子供を身籠ってしまうかもしれない。とすれば倫理的な問題のみならず、様々な障害が一家に襲い掛かってくることは明らかである。神に認められない関係の両親の間に生まれれば、子も苦労するに決まっている。だから、ただちにミリーの説教を終わらせるべきだ。

 義母の注意を引きつけるために利用できる物はないか、と忙しなく動いた目は、湿り気を帯びた外套に包まれた箱を発見する。飾紐を解き、蓋を外して中身を確かめた途端、細い喉から漏れたのは本物の感動であり、歓喜であった。

「すごい! これ、お前が買ってきてくれたのか!?」

 さっくりと焼き上げられ、卵黄と小麦粉でとろみをつけたクリームが詰められた生地の上で咲き誇るは、林檎の甘露煮で作られた琥珀色の大輪の薔薇。その造形の見事さや漂う甘酸っぱい香気は、頬どころか舌までも緩ませた。

「綺麗だなあ。美味しそうだなあ」

 愛くるしい面に大輪の花を咲かせた少女はひしと箱を抱きかかえ、潤んだ瞳で懇願する。さあお茶の時間にしよう。そしてこの美味しそうな菓子をわたしに食べさせてくれ、と。

「――も、もちろんだ! 君のために買ってきた菓子なんだから、好きなだけ食べてくれ!」

 青年は、この好機を逃してなるものかとばかりに立ち上がり、母の支配下から逃れる。重いからこれは俺が居間まで運ぶよ、ともっともらしい笑みを引き攣った口元に張り付けて。

「そういうことなら、今回は勘弁してやるけどね」

 息子の外出の目的を悟り苦笑を漏らした女の囁きは、うきうきと小躍りする少女の耳には届かない。

「でも、次をやらかしたら容赦しないからね。よおく覚えておくんだよ」

 けれども、これで難を逃れたと安堵の吐息を吐く青年をしばし立ち止まらせるには十分すぎる迫力を醸し出していた。

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