修道院 Ⅲ

 樫の木材の扉に施された、厳めしい怪物や聖典の一幕を題材として彫刻は、警告でもあった。扉を開けた先で行われる秘蹟が担う意味を、それとなく暗示するための。

 迷える子羊が唯一神からの赦しを希って告白した罪の一切は、いと高き天空に坐す唯一神の代理として彼ら彼女らに赦しを与えた者以外知ることはなく、また口外することも禁じられている。

「それで貴女は、それと知らずに死刑執行人と接触してしまったのね?」

「ええ。院長さま」

 中年の女は燭台の朧な炎に祈りを捧げるように俯く女の若い顔を見下し嘆息した。晩課の後は聖典から主の栄光に触れ、祈りを捧げてから就寝するのがイディーズの習慣である。だのに、幼子でもあるまいにぐずぐずと鼻を啜る娘は、半月ほど前に他の修道院から流れてきた新参者でありながら、院長たるイディーズの瞑想を妨げるという大罪を犯したのだ。

 この娘は元々、遠慮と他者の都合を弁えぬ一面があった。未熟さゆえの過ちは寛大に受け入れ、正しい方向に導いてやるのが院長の責務である。だが時折、彼女らの目に余る厚かましさと愚かさに辟易してしまうのは、致し方のないことだろう。だが、これも天上の大いなる者から特別に課された試練なのだと思えば、全ての父なる唯一神への畏敬の念が全身に広がった。蒼穹の向こうの楽園で憩う預言者や聖人たちは、己を彼らの環に加わるに相応しい存在とすべく、こうして特別に苦難を、更なる修行の機会を下さったのだ。

「預言者様は慈悲深い御方ですから、貴女の罪を赦し、貴女の魂を清めて下さるように唯一神に取りなしてくださるはずです。悔い改めさえすれば、必ず」

「……あ、ありがとうございます」

 内側から迸る理知と信仰の光は、抑えようとしても抑えられるものではない。現に告解に訪れた修道女は、イディーズが簡単な文句を垂れるだけで感極まって涙を流した。数百年前に生きた偉大な修道士の著作から採った一文の偉大さには頭が下がるが、一方で若い修道女の単純さには呆れ果てずにはいられない。もしやこの娘は、この程度で穢れが清められたのだと思っているのだろうか。だとしたら、大層おめでたい――いや、なんて幸福な頭をしているのだろう。

 あの汚らわしい人殺し達と直に接触したのに、ただ告解をするだけで済むはずがない。イディーズとて、意図せずに犯した罪はどうあっても償えぬとまでは主張しない。けれども聖なる神の家に悪魔を招き入れた彼女の罪の重さは計り知れないものなのだ。本来ならば三日三晩は食を断ち、不眠不休で祈りを捧げてようやく購いきれるかどうかも分からない重罪。それをイディーズまでをも巻き込んで自分の愚かさをしどろもどろに吐き出す程度で赦されよう、など。

「院長さまのお力を借りることができて幸運でした。いったんはあの出来事を私の胸の中だけに秘めておくべきかとも迷いましたが、」

 だったら、最初から悩みとやらは己の裡だけに秘めていれば良かったのだ。そうすれば、イディーズは徒に煩わずに済んだのに。

 やはりこの娘は、近々懲罰房に送って反省を促してやるべきかもしれない。さすれば手の施しようがない愚か者も、少しは己の未熟さを悟るだろう。

 修道院長は意図して慈悲深く嫋やかな聖女の彫像を真似し、未だ目の縁を赤らめている娘に微笑みかけた。

「唯一神と預言者さまの寛大さのおかげで私は救われました」

 地味で平凡な顔は、若さのみが取り柄である。その唯一の長所すら涙と苦悩で曇らせた面は、野猿さながらに賤しかった。

「これも院長として、貴女方を導く母としての務めの一つなのだから気にしないでね、テレーズさん」

「……はい、院長さま」 

 野暮ったい雀斑が散る日焼けした頬を伝う雫が、床に零れ落ちでもしたら一大事だ。聖なる祈りの場に不浄なる残滓は残してはならないから、彼女が退室した後に、他の修道女を呼びつけて掃除させよう。イディーズは遅れを取り戻すために聖典の読解に励まなければならないし、他の修道女はどうせ暇なのだから構わないはずだ。むしろ、本来ならば路傍に転がる紙屑同然の雑念に費やしていただろう時間に、尊い責務を割り当ててやったのだから、感謝されてしかるべきである。預言者を始めとする聖人たちも、これぞまさしく我らが認めた者として、己の大いなる配慮を称賛してくれるだろう。

「では、もう遅いから」

 これ以上悪魔と接触した娘と同じ空気を浴び、清浄なる我が身を損ねるのは自死に匹敵する禁忌である。女は待ちわびた解放の瞬間の喜びに任せ、重い腰を上げたのだが、

「ああ、そういえば、まだ院長さまにお伝えしなければならないことがあったのです」

 泡沫の幸福は何気ない一言によってあっけなく破られた。

「私に伝えなければいけないこと?」

 致し方なく再び木製の椅子に腰かけると、数年前に購入したばかりのそれはくぐもった悲鳴に似た軋みを発した。

「ええ。その、私が出会った死刑執行人が――彼には妻がいて、彼女の体調を崩したから院内で休ませてくれないかとも言っていたんですが、もちろん断りました。これは正しい行いですよね、院長さま――実は、」

 若い修道女は思いがけない騒音に目を丸くしたが、またもや要領を得ない説明を始める。まず最初に口にするべきなのは、イディーズへの謝罪と、多忙を極める院長に更なる時間を割かせても良いかどうかの許可を求める言葉だろうに。常識や良識には疎いのに妙な所は鋭いのだから、全く嫌な娘である。

 どうして自分は来る日も来る日も神への献身に励んでいるのに、こうも周囲の人間に恵まれないのだろう。イディーズの前の、一年前に死去した女子修道院長は由緒正しい貴族の夫人だったという過去を引きずった、甘さと怠惰が抜けきらぬ俗物であった。しかし、愚物なれど救済の道に導くのが正しき信徒の務めである。ゆえにイディーズは何度も彼女の目を覚まそうとしたが、そのことごとくは無下にされてしまった。

 前院長に育てられた、見てくれは愛らしいものの傲慢で無恥なセレーヌは、イディーズの栄光の道に転がる障害の中で最も大きな石ころであった。もはやこの修道院どころかこの世のどこにもいない少女は、事あるごとに毛を逆撫でされた猫のごとく威嚇し、見えない牙をむき出しにしてきたのである。

 あれは心底癇に障る子供だったが、外見通りの甘く澄んだ声を紡ぐ唇は、朝露を含んだ桃色の薔薇の蕾めいた可憐さを備えてはいた。

『ふざけるな。お前が言っていることの方が間違っているのに、どうしてわたしが謝らなきゃいけないんだ?』

 けれども愛くるしいはずの花弁は、聖歌や聖典の文句を諳んじていない時は、生意気な暴言を吐くばかり。神と聖人と天使に嘉されたイディーズを侮辱する罪は、地獄の業火であっても清められない。しかし幼い魂を見捨てるのは忍びないと、イディーズは哀れな少女のためを想って何度も忠告してあげたのだが、その結果は無残なものであった。セレーヌはイディーズの深慮を慮る知能も、イディーズの慈愛を受け止める器も備えていなかったのである。

 あの娘は今頃きっと、漆黒の焔で苛まれているのだろう。

 数か月前に修道院どころかこの世から完全に消え去ったはずの少女の末路を想い、女は迸る歓喜の名残を口の端に刻む。そして温かな慈母の貌を繕い、迷える娘の語りに耳を傾けた。

「昔……ええと、四年前にいなくなったのかしら? この修道院にいた、マリエットという名の修道女の行方を知っているなら、教えてほしいと言っていて」

 久方ぶりに耳にする響きは、少女めいていると評すれば聞こえはいいが、貧相極まりない体つきの女の像を眼裏に結ばせた。

 彼女は確かに、四年前の冬まではイディーズやその他の修道女と共に暮らしていた。だが彼女は、もう既に――それはセレーヌだって分かっているはずだ。むしろ、この世の誰よりもセレーヌが理解していなければならないだろう。だってあの二人は……。

 か弱き人の子の上に立つ者として、これしきの事で動揺してはならない。古今の高名な修道士や神学者の著作の知識で磨いた頭脳が導き出した答えはただ一つだった。そういえば、死刑執行人には気に入った女囚を妻とする権利があると耳にした覚えがある。

「ねえ、テレーズさん」

「はい?」

「その死刑執行人の妻は、白金色の髪に明るい緑の瞳の、十三歳ぐらいの少女だったかしら?」

 院長は真相の糸口を握ったことを確信しながらも、一応の答え合わせのために若い修道女との煩わしい会話を続ける。

「え、ええ。……私は、あの子は十一歳ぐらいだと思ってましたけど、言われてみれば十三歳に見えなくもないよう、な……?」

 震える吐息と共に押し出された返答は、予想にぴったりと当てはまった。

「目尻は? もちろん垂れていたわよね?」

「は、はい! でも、院長さま、あの人たちに会っていないのに、どうしてそこまで?」

 やはり、か弱き婦人だけの祈りの園に乱入した人殺しの妻はセレーヌだ。あの娘の髪色はありふれたものではないし、顔の造作の特徴まで同じなのだから、間違いないだろう。甘ったれた精神が現れているのか、元来だらしなく垂れ下がったセレーヌの目元は、長く密な睫毛のために、より一層垂れて見えるのだ。

 中年の女は久しく目にしていなかった騒乱の種の姿を思い浮かべ、今度こそはっきりと、隠し立てせずに憂鬱を漏らす。腹立たしい思い出の中の子供の容姿は、彼女が悪態を吐くたびに幼くなった。そろそろ女らしい丸みを帯びて然るべき年頃になったのに貧相な体付きのままの少女から、造花の花束を持て余す幼子へと。


 女子修道院から一人の修道女が旅立ったある冬の日。 

「……は?」

 老女と、老女の服の袖を握り締める小さな子供は、これまた小さな柩の前に佇んでいた。当時まだ院長ではなかったイディーズは、大きな目を潤ませている割に涙一つ零さない幼児を不気味に思い、柩の中で眠る女性に大いに同情したものだった。

「いんちょうさま。どうしておしえてくれないの?」

 子供は消え入りそうな声で、馬鹿馬鹿しい質問を何度も繰り返す。前院長は呑み込みが悪い少女にやんわりと、だが確実に真実を伝えていた。

「マリエットは、神様の処へ行ってしまったの」

「……連れていかれたの?」

 だが愚かな子供は、慰めの言葉の意味をあらぬ方向に曲解した。「連れていかれた」も何も、彼女は目の前にいるだろうに。イディーズは気性が烈しい割に愚鈍な娘の行く末を想像し、これでは先が思いやられると憫笑せずにはいられなかった。

「そうよ。だから、お別れの歌を歌いましょうね」

 前院長か母親がいなければ何もできなかった子供は、聖歌すらも独りでは満足に口ずさめぬらしい。老女の手助けを借りて紡ぎ出された音は連なりを成しておらず、どころか所々途切れた滑稽なもので……。

 これでは神への冒涜だとイディーズは大いに憤慨したものだった。修道院で生まれ育っていながら、日課の一つでもある聖歌の詠唱すらできない可哀そうな子供。だが前院長は、その身に流れる血のゆえにか傲慢極まりない少女をそっと抱き寄せたのである。

 前院長がいつまでもセレーヌの増長を見逃し続けたから、彼女の死後、イディーズは多大な面倒を被るはめになった。セレーヌの知恵は十四の誕生日を目前に控えてもなお水溜り並みの底の浅さだったのだから、マリエットの死を理解できていなくても不自然ではない。ましてあの子供は当時九歳だったのだから、十分にあり得る。

 縺れ絡まり合った過去の糸を解きほぐすために要する労力は、推し量るだけでも蟀谷を疼かせる。凝り固まったそこがずきずきと痛むのは幻ではあるまい。

 だがイディーズは真相を突き止めなければならないのだ。セレーヌの生死を。彼女が未練がましく生にしがみ付いた理由を。それがあの娘の監視役に課された役目であるし、あの家はもう存在しないとはいえ対価を受け取った以上、責務は果たさねばならないのだから。

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