修道院 Ⅱ

 都市と田園地帯の境界に位置する女子修道院は聖女の名を冠している。ルオーゼ建国以前の禁教時代。自ら剣を持って同胞のために戦いながらも、迫害によってついに命を落とした勇ましく慈悲深き殉教者ファラヴィアの名を。

「やっと着いたな」

「そうだね。――懐かしいかい?」

「いや、全く」

 所々剥げかけてはいるものの、神の家に相応しく漆喰で白く塗られた建物は、赤茶けた煉瓦塀に囲まれている。大抵の人間の目には何の変哲もない塀と映る煉瓦の集合体。しかしそれはセレーヌにとって、この街が王国の都であった頃に四代王の命によって建てられた、現在も一部が残っている二重の大城壁にも勝る代物であった。

 少女は物珍しげに修道院の佇まいを観察する夫に悟られてはと、蟀谷をひっそりと抑えて呻く。墓地に向かおうとすると決まって訪れるあの頭痛は、自宅を出た瞬間から既に始まっていて、しかも刻一刻と酷くなっているのだ。

 修道院の門は、遍く迷い多き子羊を保護するために開かれている。墓地は入り口とは正反対の、修道女たちが起床を共にする本館の背後にあるが、決心して一歩足を踏み入れさえすれば、目的地にはほんの数分で辿り着けるだろう。そうすれば、セレーヌは一年ぶりに前院長に会える。というより、花束まで拵えてきたのだから、会わずに帰る訳にはいかないのだ。

 なのに何故セレーヌの脚は、脚どころか花束を握る手までもがみっともなく震えるのだろう。どうして門をくぐった途端、一歩も動けなくなったのだろう。どうして砂漠さながらに干上がった口内に、胃液の饐えた酸味が広がるのだろう。

 華奢な背には春だというのに冷たい汗が流れ、まろやかな頬は常の健康的な薔薇色の代わりに、病的な蒼白に染められた。

「どうした? 歩き疲れたのか?」

 気力が続く限り隠そうとしていたのだが、ばれてしまったのだろう。妻の異変を察知したらしき青年の切れ上がった双眸は、真っ直ぐに蒼ざめた小さな顔を見据えていた。

「べ、べ、べつ、に」

「下手な嘘はよせ。こんなに顔色が悪いのに、何もないはずがないだろう?」

 真摯な視線は稚い嘘を許さず、少女の虚勢を暴きたてる。熱を確かめるために額に置かれた手を仄かに冷たく感じたのは、セレーヌの体温が常よりも上がっているためかもしれない。細められた深い青の瞳には、紛れもない労わりが宿っていた。穏やかな配慮はほんの少しだけ頭の中で響き渡る破鐘の勢いを衰えさせたが、小さな胸の高鳴りはかえってますます激しくなった。どうしてフィネは、こんなに顔を近づけても平然としていられるのだろう。

 忙しなく働く心臓から全身へと送られる血の巡りは、一時は消え失せていた血色を回復させる。どころか、いささか紅くさせすぎた。

 額にかかる白金の毛髪を撫でる指は、気まぐれに伏せられた目蓋にまで移動する。けぶる睫毛の生え際をなぞり、垂れた目尻から頬をまでをも撫でられるこそばゆさには、今まで縁もゆかりもなかった感覚が混じっていた。ぬくもりと湿り気を帯びた呼気に撫でられる首筋や耳元は何故だかむずむずと疼く。頼もしい熱が急に離れた途端、名残惜しさを覚えてしまった。

「熱はないが、頬が紅すぎる。……一応挨拶をしてから墓地に参ろうと思っていたけれど、あの女性に頼んで少し院内で休ませてもらおう」

 硬い指先を視線で辿れば、成る程その先にはセレーヌがもう二度と袖を通さないと決めた修道服を纏った女の姿があった。フィネの呼び声や身振り手振りから何事かを察したのだろう。かつてセレーヌが母を探すために何度も通った聖堂のすぐ側の、小規模な菜園で佇む女性は、農作業に勤しんでいた手をはたと休める。

「何かお困りですか、お客様。私に手伝えることなら、何なりと……」

 フィネに抱えられたために高くなった視界に映る彼女の若々しい顔には見覚えがなかった。とすれば彼女は、セレーヌがこの修道院から追い出された後に入ってきたのだろう。若い修道女の日焼けした肌に刻まれた造作は平凡の一言に尽き、人目を引く美しさや華やかさとは程遠い。しかし唇の端に浮かぶ微笑は、素朴な焼き菓子のようで好ましかった。

「ええ。私どもはこの修道院に葬られているある方の墓前に花を備えに来たのですが、」

「まあ。それはどうもありがとうございます。きっと、そのお方もお喜びになるでしょう」

「ですが、途中で妻が体調を崩してしまって。できれば院内で休ませていただけるとありがたいのですが」

 控えめながらはっきりとフィネが要求を告げると、頭巾から覗く下がり気味の眉は、更に申し訳なさげに下げられる。

「ええと、私としてはもちろん、陽が射さない場所で奥さま……? の身体を休めていただきたいのですけれど、今の院長さまは、来客には厳しくって。特に、男の方が一緒となると……」

「そうですか。ですが、貴女方の御手は煩わせないので、四半刻だけでも」

「――そ、そうですよね。私もそれぐらいはいいと思うのですけれど、院長さまは恐らく、」

 名も知らぬ修道女の噛みしめられた唇には、苦渋と呵責が滲んでいた。対するイディーズの人柄を知らぬフィネは承服しかねると言いたげに眉を顰めていて、応対する修道女の狼狽はますます深まるばかり。

「もういい、フィネ」

 ゆえに少女は、修道女の言葉に込められた拒絶の意を汲み取り、やんわりと夫の次なる言葉を遮った。

「本当にいいのか? 君、こんなに辛そうなのに」

「……いいんだ。お墓参りは、日を改めてまた来ればいいから」

 このまま粘っていれば、若い修道女は良心の痛みに負け、セレーヌたちを本館に入れてくれるかもしれない。けれどもその後の彼女に待っているのは、己の命に背いたという些細な咎を殺人の罪ぐらいには膨らませて責め立てる、イディーズの説教なのだ。あの殺意を誘う執拗さと、説教を聴いているうちに湧き起こる怒りを抑えることの難しさは、経験してみないと分からない。しかもイディーズの気分次第では、真夏であっても冷え切った地下の懲罰房に入れられてしまうのかもしれないのだから、堪ったものではないだろう。

 数日籠らなけらばならないと考えただけで気が狂いそうになる暗黒の閉所。それを回避しようとする修道女の気持ちは、痛いほど理解できる。フィネが自分を思いやってくれたことは嬉しいが、そのせいで誰かが傷つくのは嫌だった。

「そうか。じゃあ、家に戻ろう」

 フィネがあっさり引き下がってくれたのは、彼も言い争いの不毛さに感づいていたからかもしれない。セレーヌを抱きかかえたまま、唇を引き結んで佇む女に背を向けた。

 少女は揺れ動く視界の高さに改めて戸惑い、反射的に下を向く。だらりと伸びたか細い片腕の先には、ぶらぶらと彷徨う花束があった。前院長のために摘み取られた花たちとて、本来の役目を全うしたかっただろうが、仕方ない。

 朝に摘み取ったばかりの花々は既に萎れてしまっていた。少なくとも、セレーヌの目にはそのように映った。だが、真夏のぎらつく太陽の下に放置されていたわけでもないのにだらりと俯く花とて、花瓶に挿せば活力を取り戻すだろう。しばらくはこの花を見るたびに今日の事を思い出して情けない気持ちになるかもしれないが、義母と一緒に育てた花だから、無碍にはできない。

 吐き気を堪えながらも、花束を決して取り落とさぬように握り締める。

「ま、待ってください!」

 だが唐突に細い指が馴染みのない皮膚の温かさに包まれたため、少女は驚愕のあまり花束を落としてしまった。しまった、と目を瞠っても白い飾紐リボンの端はじっとりと汗ばむ手の甲を撫でて落下する。祈りにも似た動きでもがく指は、何一つ捕まえられなかった。

 大地に叩き付けられた衝撃でばらばらに乱れ、土に塗れた花たちの姿は痛々しい。哀れなる植物からは、朝方までの華やかさはもはや欠片も見いだせなかった。

「も、申し訳ございません。私が奥様を驚かせてしまったから、お花が……」

 けれども年若い修道女は地に落ちた花を拾い、丁寧に土を払い、ぎこちなくも確かに唇の端をほころばせた。 

「せめてもの罪滅ぼしとして私にこのお花を、あなた方の恩人の墓前に捧げさせて頂けませんか?」 

 こちらの顔色を窺っているかのようにおずおずと形にされたのは、願ってもない提案であった。

「え? いいんですか?」

「はい。だから、どなたに捧げればいいのか教えてください」

「では、この修道院の前の院長である、」

 自分が直接墓前に参って感謝の気持ちを述べれないのは申し訳ないけれど、もうこれでよしとしてもらおう。

 少女は思いがけなく齎された救いの手に息を呑み、自分で直接墓前に赴けぬ不義理を心中で前院長に詫びながら、縺れかけた舌を動かす。

「すみません。花束のついでに、もう一つ頼みたいことがあるのですが、了承していただけますか?」

「もちろん、内容によりますが、私の力が及ぶことであれば」

 しかし慕わしい名は有無を言わさぬ問いかけに紛れたために、修道女の耳には届かなかった。

「四年前にこの修道院から去った、マリエットという名の修道女。もしも彼女の居場所をご存じなら、お教え願いたいのです」

「……分かりました。私はここに来たばかりで過去のことには詳しくないので、直接院長さまに尋ねてみますね」

「ご足労をかけることになって申し訳ございません」

 修道女は頭を下げる青年に、そんなにお気になさらないでくださいと、柔らく微笑んだ。

「では、詳細が明らかになったら手紙を出してお伝えしますので、お名前とお住まいを教えていただけませんか」 

「いえ、お手数をお掛けする訳には……」

「わたしはセレーヌ・ベルナリヨンで、こいつはフィネ。住んでるところは、」

 しかし何故か名乗りを逡巡したフィネの代わりにセレーヌが姓名を告げた途端。

「ベルナリヨン? もしかして、あの、死刑執行人の?」

 修道女の笑みは、硝子の仮面のごとくひび割れ、剥がれ落ちてしまった。

「あの、そうですが、何か不都合が?」

「――“何か不都合が?”じゃないわよ。汚らわしい!」

 激高する女は手にしていた花束を大地に叩きつけ、蛇と対峙した蛙のごとくじりじりと後ずさる。穏やかな知性と慈愛が宿っていた瞳から放たれる、恐怖と蔑視で支配された眼差しは幼い胸を貫き、鮮血を溢れさせた。

「……私を騙したくせに、よくそんな何事もなかったような顔で突っ立っていられるわね! ――あなたたちがそうだって知ってたら、直接触れ合ったりしなかったのに!」

「わたし、そんなつもりじゃ」

「あなたの気持ちなんてどうでもいいから、さっさとここから出て行ってよ!」

 今度こそ手の施しようがないほど痛めつけられ、芽吹き成長するまでの手間や苦労や思い出と共に踏みしめられた花からは、緑の匂いが立ち上っている。土の薫りと一体となったそれは優しいものであるはずなのに、なぜだか鼻腔をつんと刺激した。形よく通った繊細な鼻梁を駆け抜ける何かは大きな双眸までをも苛み、表面に熱い膜を張らせる。

 こんなところで泣くなんて、みっともない。子供じゃないんだから、こんなことで泣いて――負けてたまるものか。なんて虚勢は、いつまで保てるのだろうか。

 母以外の人間になんて嫌われても一向に構わないはずなのに、垂れ下がった眦からは堰切って溢れだした水滴が今にも滴り落ちんとしている。少女は渦巻く衝撃と悲しみを堪え誤魔化すべく、忙しなく目を瞬かせながら、とうに己の居場所ではなくなった聖院を後にした。

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