修道院 Ⅰ

 色とりどりの桜草に、純白の雛菊と鈴蘭。可憐な桃色と黄色の木春菊マーガレットの側には、空の青を映した勿忘草。

 種々の花が咲き乱れるベルナリヨン家の庭は、ミリーとセレーヌの日頃の手入れの甲斐あって麗らかに保たれている。春の盛りを迎えた花々は互いの美しさを競い合っているが、不思議とそれぞれの特性が反目してはいなかった。鮮やかだが優しい色合いばかりが集められた庭園の花は、皆仲良く日光浴をしている。彼らの顔から微笑みが絶えることはないだろう。

 少女は幽かな憐れみを押し殺しつつ、整えられているがどこかに野山の面影を残す庭の一画にしゃがみこむ。そして、とりわけ鮮やかな桃色の頭を戴く細く長い緑の首の中ほどを摘まんだ。指先に力を入れるとあっけなく折れてしまった茎からは、濃い緑の匂いが漂っている。ぶちり、とあえかな悲鳴を上げて仲間の元から連れ去られた一輪はそれだけでも十分に美しいが、故人への捧げものとするには足りない。

 少女は自ら育てた花々の中でもとりわけ目を引く大輪を選り抜き、空想の花束を現実にすべく奮闘した。掌の中の生命の薫りの源は次第にその量と重みを増し、日向の匂いと混じり合って春そのものになる。

「よし」

 花束の出来栄えに満足した少女は、なよやかな茎に用意していた白い飾帯を結び、淡い笑みを口元に刷いた。


 二泊三日の短い旅行を終えたセレーヌとフィネは、満面の笑みを浮かべたレイスに見送られながらパルヴィニーを発ち、ミリーが待つ我が家に帰還した。

「これをあたしに?」

 セレーヌが選んだ土産を受け取ったミリーは嬉しそうに破顔し、旅行中のあれやこれやを興味津々といった様子で追求する。セレーヌは母親の勢いにたじろぐフィネの分まで舌を動かし、記憶の糸を手繰り寄せて数日前の情景を眼裏に再現した。

「パルヴィニーはやっぱりすごかっただろう?」

 整備された石畳を闊歩する馬車の多さと人の群れ。数え切れぬ店舗がひしめき合う商店街の賑わい。そのどれもが大都市であるはずのルトにも勝る、これが首都なのかと少女を納得させるに足る代物だった。紡いだばかりの語りの糸の先に繋がっているのは、目から得た喜びや驚きだけではない。小さな鼻と口を楽しませた焼菓子の甘さと香ばしさは丸い頬をほころばせたし、異国の料理の風味はささやかな冒険心を刺激してやまなかった。

 見て、味わって、触れる。五感と結びついた感情はいずれも陽に透かした硝子細工さながらにきらきらと輝いていて、セレーヌは改めて首都に足を運んだが故の喜びを噛みしめた。観光に赴いた日に食べ過ぎて気分が悪くなったこと。加えて、はっきりと覚えてはいないが嫌な夢を見たためによく眠れなかったことを除いては、楽しい旅行だった。

 セレーヌにとって何より嬉しかったのは、フィネと出歩いていても彼を罵る無礼な輩がいないことだった。ルトにいてはどうしても周囲から孤立してしまう彼も、首都の雑踏に紛れてしまえば一般の青年と変わりない。例え一時の間とはいえ宿命の錘を外されたフィネの顔は普段よりも明るかった。

「ああ、フィネ。そういえば一昨日、役所からの言伝があったんだよ」

「本当かい、母さん?」

「まだ正式には決まってないけれど、お前は近いうちに、トゥーシュの叔父さんのとこに行かなきゃかもしれないらしい。あそこ、少し前に強盗団が一網打尽にされただろ? その手伝いだろうね」

 もっとも、青年の顔を照らす仄かな光はすぐに消し去られてしまったのだが。執行される刑は絞首か指の切断だろう。あるいは耳削ぎか鞭打ちかもしれないし、もっと悲惨な拷問を伴う形罰かもしれない。いずれにせよ流される血はフィネの心にまで飛び散り、彼は赤褐色の斑が付着した衣服と、重苦しい溜息を抱えて帰宅するはめになるのだ。

 幻の紅い雫は輝かしい思い出に滴る黒い染みとなり、小さな胸を絞めつける。前院長の墓参りには、やはり行きたい。けれどもフィネも色々あって忙しいから、無理を言うのは気が引ける。だけどやはり近いうちに……。

 その気になれば徒歩でも辿りつけるが、そのためには少女の足を半刻は酷使しなければならない郊外にある女子修道院。自宅から修道院までの距離は心理的な隔たりと直結していて、生まれ育ったはずの神の家は、セレーヌにとってはもはや首都よりも遠かった。

 すでに神の御許に旅立った故人が穏やかに微笑んでいた一年前ならば、あれこれ悩まずに一人で訪れもできたかもしれない。それこそ、自分に与えられた部屋から院長室に向かうぐらいの気軽さで。けれどもセレーヌにとっての今の修道院は、腹立たしい女が君臨する不愉快と苛立ちの巣窟でしかないのだ。墓地に行くのだから一応は院内の誰かの許可を得なければならないだろう。だが、イディーズにだけは絶対に会いたくなかった。

 あの女は聖典を片手に、嘘をついてはいけないと誇らしげに胸を張りながら、幼かったセレーヌを欺いて何度も窮地に追い込んだ。被害に遭ったのが自分だけだったならもしかしたら赦せたかもしれないが、イディーズはセレーヌだけでなく母までも傷つけていた。マリエットのように直接暴力を振るうのではなく、言葉で。 


 忘れもしない、七年前のある夏。まだ母がセレーヌの側にいてくれていた頃。

 セレーヌは他の修道女も集う聖堂で、母の傍らで三時課の祈りを捧げていた。居並ぶ黒衣を纏った女たちの中で最もセレーヌに目線が近い、言い換えれば小柄な女性は母だったので、セレーヌはいつも聖像よりも母の顔を熱心に注視していたものだった。

 当時セレーヌが見知っていた人物で、最も美しいのは母であった。儚げで静謐だがあどけない面差しは修道院の誰よりも整っていて、澄んだ淡い青の双眸は白く小さな顔の中でひときわ輝いている。慎ましやかな薄紅色の唇は滅多にほころばないが、清らかなせせらぎを連想させる細い声を紡ぎ出した。

 永遠に人の足跡に穢されぬ雪原のごとき肌に覆われた肢体はやはり細く、よくあの身体で子供が産めたものだと囁かれてもいる。事実、装いを変えれば十分に少女で通りそうな肢体は気候の変化に弱く、本人の意志とは裏腹に聖務日課を休まなければならない事態になることも度々だった。だから母はあの日も夏の盛りの熱さに根負けし、セレーヌの目の前でぱたりと床に倒れ込んでしまったのだろう。

「おかあさん!?」

「……大丈夫よ。少し、眩暈がしただけだから」

 涙目になって傾いだ身体を抱き起こそうとした娘の腕を振り払った手はじっとりと汗ばんでいて、平静を装う女が秘め隠す不調の程度を如実に表していた。

「で、でも、」

「ほんとうに、大丈夫だから」

 幼子は一度は払われた手をもう一度華奢な背に添える。すると元々蒼白に近かった顔は更に蒼くなっていった。母はきっと、娘を不安がらせまいとして無理をしていたのだろう。

 やっぱり、おかあさんは具合がわるかったんだ。

 少女は小刻みに震える腕にしがみつき、母の回復を願う。そうこうしているうちに、修道女たちの騒めきは大きくなり、幾つかの足が寄り添う親子に駆け寄ってきて、

「いい加減にしなさい、セレーヌ」

 セレーヌは母から引き離された。院長不在の際には修道院を取り締まる立場に置かれていたイディーズは、伏した女を冷淡に見下ろしている。その大きくも小さくもない目は、神聖な祈りの時間を乱されて迷惑だと、似合いもしない慈愛の笑みを張り付けた唇よりも雄弁に物語っていた。 

「あなたはこれ以上この場にいない方がいいわ。あなたみたいな子がいたら、あなたのお母さんの具合はもっと悪くなるに決まっているもの」

 ――おかあさんを守れるのはわたししかいない。おかあさんのやくに立てば、おかあさんはわたしのことを好きなってくれるかも……。

 幼女は訳の分からない文句などで言いくるめられはせず、憤然として居丈高に佇む女を睨む。

「またここで倒れてしまったのね」

 けれども女は幼い抵抗を歯牙にもかけず、苦しむ母にまで無神経な言葉を浴びせかけた。

「……ご心配なさらず。涼しい場所で半刻も休めば、すぐに」

 それでも母は毅然と顔を上げてイディーズと向かい合っていたが、

「嘘。――あなたが倒れたのは、聖堂に来たからでしょう?」

「え?」

 次の囁きを耳にした途端、一切の血の気を喪失してうなだれた。

「な、何を、おっしゃりたいの、ですか?」

「“何を”ですって? おかしなことを仰るのね。だって、あなた――」 

 イディーズはその先を彼女にしては珍しく密やかな声量で語ったので、母を追い詰めた暴言の仔細を把握できなかっが、聞くに堪えない侮辱を浴びせかけられたのだろうと察するのは容易かった。なぜなら続きを聞き取ったらしき母の身体が、小刻みに震え出したから。真夏だというのに、雪片が舞い散る冬空の下を、薄い修道服一枚で彷徨っているように。

 ――セレーヌの幼少期に暗い影を落とす様々な出来事の中でも、もっとも赦しがたかった出来事。それを仕出かした女に従わなければならなかった期間は拷問そのもであった。そもそもセレーヌとイディーズの気性はいがみ合うようにできているのだろう。セレーヌはイディーズの何気ない言動の端々にさえ苛立ち、イディーズはセレーヌの全てを粗と見做し矯正しようとする。そしてその過程で互いの嫌悪はますます募るのだ。

 マリエットの次に憎む女の牙城になど、一人では到底近づけない。しかし大恩ある、第二の母とも慕った女性に背を向け続けることもできやしない。

「なあ、フィネ。わたしな……」

 ルトに戻ってから数日悩んだ挙句、少女は決心に絡みつく葛藤の蔦を断ち切り、旅支度をしている夫に詰め寄った。

「急で悪いなとは思うが、わたし、院長さまのお墓参りに行きたいんだ。そ、それで、修道院にはお前に付いてきてほしくて……。処刑の手伝いから戻ってきてからでいいから、いつか……」

「ああ、いいよ」 

 斬首用の剣の刃こぼれの有無を確かめていた青年は、人血を啜ってきた剣を鞘に収め、俯く少女の面に静かな視線を注ぐ。

「俺もいつか君の育った修道院には足を運ぶ必要があると思っていたからちょうどいいし、それぐらいのことは迷惑でも何でもないからね」

 思いがけずあっさりと返された了承の意に、桃色の薔薇の花弁の唇は安堵の溜息を漏らす。

「じゃ、行ってくるよ。昼前には帰ってくるから」

 そして数日後。少女は仕事に向かう夫の背を見送り、無事に帰宅した彼を出迎え、拵えた花束を片手に、未だ人生の大部分に属する時を過ごした場所を目指したのだ。

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