挿話 過去 Ⅲ

 黄と紫の枠に閉じ込められた猛々しい怪物たち。柔らかな布地の上で遠い遠い昔の名残を今に伝える彼らが守護する場所は、速足で駆け抜けた区画とは趣を異にする、けれどもどことなく懐かしい別世界だった。この場所には黒髪を有する者が多いから、頭巾を取っても目立たないだろうと思ってしまったほど。みだりに身体の一部を露わにするようなはしたない真似は、神に貞潔を捧げた修道女には似つかわしくない行為だから、絶対にしないけれど。

 行き交う顔の中に自分に似たものがないか、と辺りを窺う。すると、ものほしそうな青林檎色の視線とぶつかった。

「オーリア?」

 背が低いわたしより頭一つと半分は背が高いオーリアは、高い背丈ゆえにわたしよりも多くのものをその澄んだ瞳に映すことができる。爪先だけで全ての体重を支える恰好できらきらとした眼差しの先を辿ると、やがて聖堂近くのある店にぶつかった。わたしが今いるこの街の民の故郷である西の隣国。彼の地の上流階級が、苛烈な太陽が支配する夏の熱気から少しでも逃れるべく、こぞって愛好するという氷菓を商う菓子店に。

「ねえ。……あれ、食べたくない?」

 頭上の日に焼けた顔には、可愛らしい淡褐色の斑点だけでなく、未知の美味なる菓子への隠しきれない好奇心が浮かんでいた。自分の感情を偽ることも、押し殺す術も知らないオーリアの考えていることは分かりやすい。滅んで久しい帝国の皇帝が、万年雪を戴く山脈から運ばせた氷雪に乳と蜜と果実を混ぜて食した折に生まれたという菓子は、甘味と縁遠い舌を喜ばせるに違いなかった。

「確かに今日は結構日が照っているし、ここにくるまでに少し汗をかいたもの。……冷たくてさっぱりしたもので喉を潤したら、とっても気持ちいでしょうね」

「そうなの! わたしもそう思ってたの! だから、」

 懐から袋を取り出し銅貨の数を数える友人の中では「店に行って氷菓を買って食べる」ことは既に決定しているらしい。悪い気はしない決定だった。

「二個は無理だけど、多分一個は買えるから。……だから一緒に、ね?」

 オーリアはわたしが返事をするより先にわたしの手を掴んで、聖堂の影の仄暗い青に染まった白い壁の建物に向かって駆け出す。何気なく握られた手は温かく湿っていて、いずれこの熱が氷菓に冷まされてしまうのだと思うと、ほんの少し残念だった。


「あんたら、大聖堂の修道院の修道女なんだろ? 元気でいいねぇ」

 白いものが混じった黒い髪をした菓子屋の主人の、鮮やかな赤の氷菓を器に盛る手つきは見事で、身惚れずにはいられなかった。……掟を破ってまでこの街に出向いたことを考慮すれば、武骨なのに軽やかに銀色のへらを操る指などではなくて、彼の顔立ちに注目すべきなのかもしれない。どこかにわたしと同じ特徴を備えてはいないか、と。でもわたしはもう本来の目的を手放していたし、約十四年前にわたしを生み落とした女性への興味も次第に失われていっていた。

 案外わたしは、ただオーリアと街に行ってみたかっただけなのかもしれない。自分でも素直に認められない好奇心を他の別のものに擦り付け、混同していただけなのかも。きっと「見習い」の称号を灰色の頭巾と共に脱ぎ捨てる前に、俗世とはどのようなものか、他でもないわたしたち二人で確かめてみたかったのだ。かつて俗世で暮らしていたお姉さま方の口からではなくて、自分の五感を通して知りたかったのだ。だけどその願いは修道院の禁欲の誓いに抵触するものだから、自分自身すらなかなか受け入れられなかっただけで。

「ちゃんと半分こにしてね」

「分かってるわよ」

 店内に設けられた席に座り、指示通りに木苺の氷菓を二つに分ける。こういう細かなことは大雑把なオーリアには向いていないから、わたしは光栄だがいささか面倒な役目を仰せつかったのだ。

 器に盛られた細やかで滑らかな氷が口内で蕩けてゆくと同時に、わたしの胸の中の蟠りも消えてゆく。――同じ捨て子であるオーリアにすら秘密にしてきた長年の悩みは、こんなに簡単に拭い去れるものだったのだ。

 

 天空に坐す太陽の高さを目測で計る。燃え盛る天体の位置から察すると、正午の祈りの時は四半刻後に迫っているようだった。

 昼食前の礼拝の場に居合わせないとこの外出がばれて、大目玉を食らってしまう。そう慌てふためいたオーリアは唇の端に付いた赤い汁を手の甲で拭い、

「じゃあね、おじさん。美味しかったよ」

 礼を告げて白い扉の取っ手に手を掛けた。

「ああ、また来てくれよ――そうだ。ちょっと待ってくれ、お嬢さんたち」

「なあに?」

 けれども店主は、今にも駆けだそうとしているわたしたちを神妙な口調で呼び止める。

「急いでお家に帰るのは結構だけどな、近道だからって人気が少ない薄暗い路地を通るのは避けた方がいいぜ。最近、物騒な事件が起きてるから」 

 ――両親や遊び仲間がふと目を離した僅かな隙に、影も形も残さず姿を消した少女たち。懸命な捜索も虚しく、彼女たちは涙ながらに娘の無事を祈る両親の許へはついぞ戻らない。どころか、遺体すら見つかっていないのだと店主は語った。

 数年前から次第に数を増やし、近頃では王都に居を置く者では――それこそ、世間から隔離された修道士や修道女を除いては知らない人がいないという失踪事件の惨たらしさは、瑞々しい果実の味をたちまち霧散させてしまう。

「小さい方のお嬢ちゃんとか、だいたいそんな齢だろ? だから気を付けた方がいいぜ」

 同じものを食べて育ったのに、わたしとオーリアの体つきはこれまた似ても似つかなかった。オーリアの健康的な身体には年相応の成長の跡が刻まれているのに、わたしの身体はいつまでも貧相なまま。それだけならばまだしも、わたしの顔立ちは修道女に似つかわしい威厳とは程遠いものだった。

 長年の経験のおかげで、自分が実際の年齢よりも下の子供だと見なされるのは慣れている。

「おじさん、心配性なんだね。でも、わたしたちはもうすぐ十四歳なんだし、まだお昼時なんだから大丈夫だよ」 

 だからわたしたちは店主の忠告にありがたく耳を傾けはしたが、正午の鐘が鳴らされる刻が迫っているという焦りに背を押され、修道院に続く一番の近道に――真昼なのに日が当たらない寂しい道に足を踏み入れたのだった。

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