聖杯の君 Ⅴ

 元々は王家の狩猟場であった宮殿付近の森の奥には、鬱蒼と茂る樹木に囲まれた離宮がある。王や随員たちの狩りの疲れを癒すために建てられた、一年前までは互いの獲物と腕前を称賛する男達の囁きに満ちていた城館は、現在はひっそりと静まり返っていた。いっそ不気味な程、まるで、この森そのものが息絶えてしまったかのように。この館の最盛期、侍従たちと幾度となく足を運んだ男であるが、現在の邸の有様に、侘しさやまして虚無など覚えはしなかった。なにせ、むしろこちらの方が心地良いぐらいなのだから。もっとも、男が意に反してこの館の一室に閉じ込められているという状況を考慮しなければ、であるが。

 成人した男にしては繊細な、労苦を知らぬ指が、与えられた部屋の一室の嵌め殺しの窓を慰みに撫でる。手の込んだ細工が施された金色の枠が囲む硝子は、気泡一つ入らぬ一級品。職人の熟練の技の結晶越しに仰ぐ空はどこまでも青かった。数か月前まで垂れ込めていた陰鬱な灰色の雲は、すっかり麗らかな陽光に駆逐されたのだ。

 新たに萌え出た若芽をそよがす風は、冬の間の鋼鉄の剣の如き冷たさを脱ぎ捨て、少女の肌さながらの柔らかなぬくもりを纏っているに違いない。血の通わぬ水晶硝子でさえ温もらせる陽光を身に浴び、春風の心地良さを存分に味わうことができたら。

 ――お前がここから出られるのは、お前の命運が尽きる日。処刑台に向かう時のみだ。

 不当に強いられた不遇は嘆息となって整った唇から漏れ出る。窓辺に立つ男の憤懣は室内の空気を揺るがしたが、溜りに溜った淀みを追い払うには及ばなかった。

 けぶる睫毛に縁どられた明るい緑の双眸。陽光を透かして輝く若葉とそっくり同じ瞳は、半年の幽閉生活の疲弊と退屈のために翳っている。乳白色の貌に刻まれた甘やかで繊細な造作には焦燥と苛立ちが滲んでいた。


「お前たちは兄上のみならず、多くの未来ある者たちを犬死させた。……いや、それだけならば軍人の定めを全うしたのだと、どうにか受け入れられもしよう。しかし、」

 脳裏で彼を捕囚にした男との最後の会話が――憎悪が込められた罵りが蘇る。

 投げかけられた怨嗟は真実ではあったが、全てを物語ってはいない。貴族とは、軍人とは、王に膝を折り命を捧げるもの。ならば失敗に終わった派兵で命を落とした程度で、どうして騒ぎ立てるのか。由緒正しき血統を誇る帯剣貴族筆頭の公爵が、かような単純明快な事実を理解できなかったとは。官職を買って成り上がった、新興の法服貴族ならばまだしも、愚かしいの一言に尽きる。まして六百年間以上も忠誠を捧げ続けた主に歯向かった無礼には垂れるべき言葉もない。

 この国はもはや王など必要としていないと下々の民は叫んだ。一部の貴族階級もそれに同調した。自ら王権を制限する立憲君主制へ政体を移行させた北の隣国の女王は、同盟を結んでいながら男達を見捨てた。どころか、すぐさま現政権を――生き残った貴族や中流階級の資産家や有識者からなる議会を承認し、援助するという声明を出したのだ。異国の動乱に目を向ける余裕のない、様々に問題を抱える諸外国も北の隣国に倣った。ゆえに男は、王家の墓所の一画にひっそりと葬られている屍の仲間入りをする日を待つばかり。

「お前はまだこんなことをやっていたのか」

 謀反を起こした軍部の使いに扉を破られ、ただ一つと断言しても過言ではない至上の愉悦を取り上げられた瞬間。直接男と対面した青年の嘆息は重々しく、端整な面は憤りで彩られていた。

「僕たちはもうお前たちには従えない。今日はそれを伝えに来た」

 守るべき主君に剣を向けたのだ。彼がまだ髪を伸ばしていた頃、戯れに引き寄せ眺めた冴えた青の双眸に宿っていたのは確かな憎悪。そして男は、一切の愉悦から遮断され、過行く時を死を待ちながら消費する立場に追いやられたのだ。

 男を囲む、白亜と黄金とその他様々な色彩で飾られた壁。贅を尽した調度品。それらは全て豪奢な鳥籠にして巨大な柩の一部に他ならない。

「お前の命日を決めるまでに、それ程の日数は必要とすまい。だから神の――すまない。お前は間違いなく地獄行きだったな――地獄に堕ちるその時が来るまで、せいぜいおとなしくしていろ」

 自由を奪われるまでは、迸る欲求を満たすために何度も訪れた館を抱く森。腐敗した落葉から成る滋養豊かな大地には、幾人もの少女たちが眠っていた。彼女らはいずれも男の下で泣き喚き、半狂乱になって赦しを乞い、最期は苦悶に顔を歪めながらこと切れていった。そのいずれもが、例えようもなく愛くるしかったから、こうして手元に留め置いているのである。

 名を知らぬどころか、ただ一人を除いては顔かたちすら朧げになりつつある少女たち。そのぬくもりを喪った肢体があれば、この捕囚生活も存外愉しめたのやもしれない。男の世話をする老いた使用人や、定期的に訪れる司祭以外には人気のない離宮の現状は、享楽に耽るにうってつけの場である。だからこそ、満たされぬ欲求は肥え、肥ってゆくばかりであった。

 面倒な説教を垂れる聴罪司祭ではなく、娘の一体や二体ぐらい、気晴らしに寄こせば良いものを。

 心中で独り言ちた文句は、叶えられぬと予期しているが故に一層虚しく響いて。無粋者ばかりの議会の者たちでは、どれ程心を砕いたとて、この崇高な嗜好の欠片も理解できはしないのだ。

 男にとっては一般の男達が嬉々として愛撫する、無様に膨れ上がった胸部や臀部など、唾棄すべき物でしかなかった。宮廷にたむろしていた着飾った雌豚の胸元から覗く谷間は、特に。二つの醜怪な脂肪の塊を切除し豚小屋に投げ入れんとする衝動に、男の理性が焼き切れなかったのが不思議なぐらいだった。

 少女の慎ましい胸部や下腹部が描くまろい弧ほど崇高な曲線は神にすら引けまい。しかし、成熟しきった女の乳房ときたら、まるで悪魔が目隠しして描いた失敗作。いや、初潮を迎え、下肢の付け根に濃い翳りを帯びた女は皆、失敗作どころか蛆が群がる腐肉に過ぎない。なぜ神は、最初の女を棺に入った少女の姿で創造しなかったのだろう。さすればこの世は天使すら蒼ざめ羨む妖精たちが飛び交う楽園となっただろうに。

 芸術的感性は乏しいどころか枯渇していたらしき創造主の失態ゆえに、男は幾度となく不遇を強いられた。未来の国母の地位を目指し男に群がる、女たちのあしらいとご機嫌取りには骨が折れたものだ。あれらは生きながらおぞましく――脳すら腐敗しているわりに、自らに益を齎すように事を運ぶ際だけは、どんな学者よりも機敏に頭を働かせる生き物であったから。 

 宮廷で囀っていたけばけばしい羽で身を飾った雀たち。彼女らの歳月と暴食でたるみ、染みと皺で汚された皮膚は、どんなに脂粉を塗り重ねても少女の清らかな白皙には戻らない。物言わぬ少女の肌は陶器さながらに艶やかで。しかし真白の花弁のごとく繊細である。何より、この美がどんなに手を尽しても十日を越えては留め置けぬ、儚く散る花であるからこそ、その馥郁たる香気は至上に近づくのだ。

 組み敷いた娘の細い首に手を掛け圧力を加える悦びを、彼女らがこと切れる寸前の例えようのない快楽を、肌理細やかな白を引き立たせる斑の美を知らぬ者たちは哀れむべき存在だろう。薄い目蓋をこじ開け、混濁した瞳に己が舌で潤いを与えると、濡れた眼球はあどけなくも艶麗な艶を放つのだ。その無垢なる媚態に比すれば、成熟した女の嬌態など、とびきり滑稽で醜悪な寸劇に過ぎない。

 死に逝く娘たちの泡沫の美と許しと解放を願う哀訴は、氷と化した皮膚に咲く花同様に、一つとして同じものはない。腐敗が進み変色した肌や、紫の大理石模様に覆われた繊細な脚の奥に潜む、まだ成熟しきらぬまま散った花の色合いもそうだ。

 生前は濃淡は様々であれど紅だった薔薇の頬や二つの唇は、時の経過と共に薄紫や玄妙な蒼といった、奇跡の色合いに染まる。死後数日を経て、腹部を中心に身体中に広がる赤茶と緑を背景に――つまり、その細い脚を広げさせて眺めると、まさしく薔薇のようだった。

 朽ち果てた百合や麝香、その他の様々な香気の混合によって成り立つ体臭は、故人によってその配合が異なるがいずれも世にまたとなく芳しい。硬直が始まらぬうちにと焦燥に駆られながら、摘み取った直後の花芯を貫くのも良いものだが、花の香りに誘われた蜂のごとく、開き切った花弁の内に潜り込むのは格別だ。再び柔らかさを取り戻すまではと己を律し、指で押せば消える模様の美しさを楽しみながら待ち焦がれたからこそ、悦楽は何倍にも増幅される。しかるべき時が来た後に触れたもう二度と動かぬ唇の、冷え切った柔らかさは……。

 口中に蘇った強引にもぎ取られた、腐汁滴る青い果実の風味を、唇の端を吊り上げ胆嚢する。けれども愉悦は長続きはせず、紛い物の快楽は舌先に乗せた途端に溶けゆく氷菓よりも儚く消えていった。

 どれほど渇望しても手に入らぬ悦楽が齎す虚無は死に繋がり、その甘美さを知悉しているが故に耐えがたい。樹々を白く化粧する雪のごとく降り積もる情欲は、春の陽光に溶かされはしないのだから。

 鬱蒼とした樹々に囲まれているゆえに目にすることは叶わぬ、地平線付近の薄青を想起し、気だるげに透明な殻で隔てられた外界を見やる。一国を統べる血筋に生まれた男には、望んで手中に収められぬ代物など存在しないはずだった。だが今では青空一つ満足に拝めず、外出することすらできない。

 変わりゆくこの国で我が身の現状を憂うのは、現政権によって苦杯を舐めさせられつつある聖界の者のみ。何としてでも彼らを利用し、自分をこの離宮から解放する手立てを整えさせられないだろうか。さすれば自分は、小さくか細い身体をもう一度掻き抱くことができるだろうか。植物の蔓めいた首に巻き付けた手に力を込めながら、鮮血に塗れた蕾を穿つ至福を味わえるだろうか。

 許しもしていないのに辛気臭い面を晒し、唯一神の偉大さとやらをくどくどと連ねる輩は好かないが、手段を選ぶ余地はもはや無い。既に閉じ込められてから、計算が正しければ半年の月日が経過している以上、明日にでも処刑の日取りが通達されても不思議ではないのだ。 

 迫害の予兆に恐れおののく彼られに付け込めば、己の有利に運ぶだろうか。聴罪司祭が訪れる際には必ず付き添う軍人の監視を掻い潜り、企みを成功させるには、相応の準備が必要だろう。

 あるいは、昨今急激に増加した平民出身の軍人の勢いを危惧し、彼らに職を奪われるやもと恐れおののく貴族軍人の危惧心を刺激してもいいかもしれない。私が玉座を得た暁には要職に就けてやろうとでも嘯けば、彼らは容易く陥落するだろう。どちらにせよ、長く抑圧されていた羊たちが主のない環境に慣れる前に、自分たちの手で支配者を選ぼうと画策し出す前に、現状を打破せねばならないのだ。

 ――アルヴァスの血統を引く私が、このような場に閉じ込められたまま、人生を終えるなど。

 不遇をかこっていた男は、確かな決意を宿して眼下の大地を眺めた。どんな手を使ってもこの鳥籠から脱出し、不当に奪われたものを取り返すのだと。

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