聖杯の君 Ⅳ

 想像力が許す限りの豪奢で飾り立てられ、パルヴィニーが戴く王冠と讃えられていた宮殿。現在は首相府となったそこには、かつてはあちらこちらに控えていた廷臣たちの影すらもなかった。

 宝冠を飾る貴石さながらに着飾った官吏の代わりに大理石の床を闊歩するは、仕立てが良い衣服に身を包んだ紳士や淑女。あるいは彼ら要人を守る衛兵たち。王制廃止に伴う改革によって軍人への道は平民にも広く開かれ、鮮やかな青の軍服は夢見る少年ならば誰でも一度は手にしてみたいと望む目標となっていた。

 首相府付属の練兵場を囲む、独身の兵だけが起居を許可された憲兵。その第二中隊に所属する者たちが住まう兵舎は、とどのつまりむくつけき男達の巣窟である。

 鼾と猥談と品のない笑い声の三重奏に、磨き抜かれた軍靴が奏でる律動的な足音が加わる。純銀の髪に縁どられた面は臈長けていながら清冽で。白皙の美貌は高原で佇む白百合のように優美でありながら、鎧を纏って武装した一団を率いる天使の長のごとく凛々しくもあった。

 いかに麗しくとも、そこここに食べ残しが散らばった獣の巣で咲くには場違いな容貌の主は、神の遣いなどではなかった。この塒で身を寄せ合う若者と同じ軍服の襟で光るのは、大尉の位を表す階級章に他ならない。

 自己流に崩す着こなしが粋だとされる流行と相反する格好は、憲兵を束ねる青年の性格を率直に表していた。ならば彼の目下の心境を表すのは、怒気を露わにしていても形良い眉であろう。

 目的地に到着した青年は勢いよく扉を開け、

「お前たち!」

 たむろする部下たちを一喝した。

「あ、隊長。会議終わったんですね」

「休暇明けに早速ご苦労様でーす」

 しかし午前の訓練を終えたばかりの隊員たちは、上司の立腹をものともせず休息を貪り続けた。

「紅茶要りますか? 買ってきた焼き菓子もありますよ」

「前に隊長の母君が差し入れてくれた薔薇の花の砂糖漬けも余ってますし」

 武骨な手が持つには瀟洒かつ繊細にすぎる意匠の缶に入っているのは、確かにジリアンの母が好む甘味ではあったが、仄かな甘味程度では燃え盛る炎の勢いは収まらない。

「いらないんですか? これ、紅茶と一緒に口に入れると美味しいのに」

「隊長の母君も、これを食べると肌が綺麗になるっておっしゃってたのに。まあ、染みも黒子もない茹で卵肌の隊長には不要なのかもしれませんけどね」

「隊長の母君、それにしてもお綺麗でしたよねー。俺の母さんと同い年だなんてとても信じられません。流石、隊長のお母君です」

 居並ぶ青年たちの身の上は、良くて下級官吏の三男坊といった程度。彼らが公爵家の跡取り息子であるジリアンと対等に会話するなど、一年前ならばありえない光景であった。未だ王制時代の階級制度の旧弊を払拭しきれない軍部内では眉を顰められてもおかしくはない無礼でもある。

「お前たち、また勉強をさぼっただろう? 試験の結果、特に外国語が酷すぎる、と会議の議題にまで挙がったぞ」

 しかしジリアンの怒りの矛先は、部下の態度ではなく、二日前に行われた一般兵の学力試験――特に外国語の試験の結果に向かっていた。 

 ジリアンが生を受ける前から続く南方の革命の余波は国境を接するルオーゼにも及び、難民増加に伴う治安の悪化は、軍部が果たすべき急務として頻繁に論議されていた。上層部からの指令を受けてジリアンをも含む憲兵の長たちが乗り出したのは、難民たちとの意思疎通の円滑化に他ならない。けれども峻厳なる山々の向こうの南方は民族の坩堝とも称される、多言語と五つの文字がひしめき合う混沌の地である。一山超えれば使用する言語が異っても何らの不思議はない彼の地の共通語といえば――

「あんなの初歩の初歩なんだぞ。なのにお前たちは……」

 ナスラキヤ東部はエラムレの方言。通称「東ナスラキヤ語」に他ならない。結果的に世界初の革命によって倒されはしたものの、ナスラキヤを数百年ぶりに異民族の頸木くびきから解き放った帝国の公用語であったエラムレ語は、各南方民族が母語の他に習得している確率が最も高い。だからこそエラムレ語はジリアンが放り込まれた士官学校では必修の科目ですらあったのだが、自国語の読み書きすら怪しい者が多い一般市民にとっては遠い存在であったのだ。

「違いますよー。俺たちが手を抜いたんじゃなくて、試験問題が手強くなってたんです」

「そうですよ。悪いのは問題を作った底意地悪い試験官です。あのひっかけは許せませんね」

 へらへらと頬を緩ませ、紅茶や菓子を差し出す隊員たちの姿には緊張感の欠片もなかった。青年は致し方なしに慈悲と思いやりの心を封殺し、部下に非情な現実を突き付ける。

「試験の結果は昇進にも関わるのはお前たちも知っているだろう? いつまでも下士官のままでいたくないのなら、もっと真剣に、」 

「隊長は怒るとますます美人になりますねー。性別と腕力を知らなきゃ惚れちゃいそうです」

 けれども隊員たちは王制が廃止されてもなお強固に聳える壁の高さと現実の冷たさを華麗に受け流し、話の流れをあらぬ方向に捻じ曲げた。

「誰が美人だって?」

 ジリアンの母エルメリは、元々は南方から亡命してきたしがない貴族の娘である。つまりはルオーゼの血を一滴も持たぬ異民族でありながら、王都一の美女、パルヴィニーに咲く白百合の君よと讃えられていた母の容貌を、ジリアンはほとんどそのまま受け継いでいた。違うのは父親譲りの瞳の色だけだと囁かれ、髪を伸ばしていた少年時代は「姫」という不本意な仇名が付けられたほど。

「男の僕にそんな気味が悪いことを言うな! だいたい、お前たちはいつもいつもふざけてばかりで、努力が足りない! ついでに反省と緊張もな!」

「そりゃ、子供一人分に匹敵する重りを仕込んだ制服を着ても平然としてる隊長にとっては、そうかもしれませんけど、」

 もっとも男だらけの士官学校に舞い降りた氷雪の精霊姫は、林檎を易々と握り潰す猛獣であったため、仇名は直ちに「銀熊」と改められたのであるが。

「何か言ったか?」

「わ、分かりました! 隊長のおっしゃる通り、今度からは真面目に勉強しますから、取り敢えず拳を納めてください!」 

 使用人に頼んで特別な改造を施した軍服の重みが加わるがゆえに、ジリアンの黄金の右手から繰り出される一撃は大の男の意識すら容易く刈り取る。

「そ、その怪力は、街のならず者だけに振るいましょう!」

「だから関節技はやめてください!」

 鍛錬の他のジリアンの趣味「格闘技の研究」に日ごろから付き合わされ、その威力を嫌というほど知悉している隊員たちは、各々手を尽くして上司を宥めた。

「――分かった。お前たちがそう言うなら、過ぎたことをこれ以上追及しても意味がないから止めておこう。ただし、」

「“ただし”?」

 部下たちの言質を取った青年は、楚々としていながら蠱惑的な唇の両端を吊り上げた。

「次は必ず満点を取れ。僕が教えてやるから」

「えっ?」

「ちなみにできなかったら、心身と頭を鍛えるために毎日腹筋背筋に腕立て伏せを二百回やるんだぞ」

 恐ろしい命令を下された隊員たちの顔色は蒼白をも通り越して土気色となる。

「何言ってるんですか、隊長? 頭おかしくなったんですか?」 

「おかしいのは僕の頭じゃない。やる前から諦めているお前たちの方だ」

「俺たちみたいな底辺の馬鹿に満点なんて、無理に決まってるじゃないですか。いけて五割がいいところですよ!」 

「大丈夫だ。お前たちはやればできる、と僕は信じている」

 崖っぷちに追い詰められた隊員たちは上司の決意を翻すべく、とっておきの呪文を唱えた。 

「隊長だって、レティーユさんといちゃいちゃする時間が沢山欲しいでしょう? ですから今すぐ考え直して……」

「そうですよ。貴重なお時間を俺たちなんかに付き合って無駄にするのはもったいないですよ!」

 ジリアンの愛しい妻にして義理の妹。現在は独立を求めて皇帝軍と熾烈な争いを続ける選帝侯国出身の彼女の、炎を映した波打つ髪の鮮烈な幻影は鋼の決意を蕩かした。

 今朝接吻を交わした、ふっくらとしていて扇情的な珊瑚の唇。

『いってらっしゃい、お兄さま』

 抱きしめた豊満な肢体の柔らかさとぬくもりは、どれ程賞味しても飽きることがない。むしろ、触れれば触れるほどに欲しくなる。

『できるだけ早く帰っていらして。ね?』

 ――そして、今晩も一緒に愉しみましょう? 私、そろそろ……。

 すらりと締まった下腹部に手を置き、滑らかな頬に羞恥の紅を叩いて自分を見つめる妻を寝室に連れ込んで、彼女の魅惑的な曲線を余すことなく賛美したかった。昨晩の、折角のお出かけだったのに私を一人にするなんて、とむくれる彼女は大層可愛らして……。

 憲兵の第二中隊でただ独りの既婚者は、彫刻めいた貌を悦びの余韻で緩ませる。

「隊長って、案外何を考えてるのかが丸わかりだよな」

 絶対に助平なこと考えてる顔してる、と呟いたのは先日恋人に手酷く振られたという部下であった。

「隊長、昨日もレティーユさんと仲良く・・・してたんですね」

「隊長、おっぱい好きですもんね!」

 戸惑いなく上司であるジリアンにあらぬ濡れ衣を駆けた部下とその友人であるもう一人は、気を抜くといつもふざけ出すからいけない。

「いーなー、俺にも美人で巨乳の義理の妹がいたらなー。俺も巨乳の妹に“お兄さま”って呼ばれたいなー」

「ばっかお前。美人で胸が大きい義理の妹なんて、モテない男の妄想の中以外にはそうそういねえんだぞ。それに実在したとしても、巨乳美女と結婚できるなんて幸運を掴めるのは、ごく一部の選ばれたやつだけだ」

 愛と悦楽の矢を打たれ、甘い陶酔に浸り切っていても、鋭敏な耳はあらぬ誹謗を細かに拾い上げる。

「――ちょっと待て。それじゃ僕が、胸が大きいからレティーユと結婚したみたいに聞こえるだろう!?」

「えっ? そうじゃなかったんですか!?」

「違う! 僕はレティーユだから結婚したんだ! 子供の頃から結婚するって決めてたんだ! レティーユの胸が大きいのはたまたまなんだ!」

 レティーユはジリアンの父の亡き友人と西の帝国の女の間に生まれた娘である。亡き友人との約束を叶え、内乱の戦火から亡き友人の一粒種を救わんとした父は、レティーユを己の娘として迎え入れたのである。

 突然できた妹はとても内気で、新たな環境に慣れるのにも時間がかかった。だからこそ彼女が初めて笑ってくれた時は舞い上がらんばかりに嬉しくて、ジリアンは生涯をかけて彼女を守ろうと幼心に誓ったのである――と青年は声高に潔白を主張したが、説得力は皆無に等しかった。

「そんな誤魔化しよしてくださいよ。毎晩レティーユさんの巨乳にやらしいことしてるくせに。いや、巨乳でやらしいことをしてるのかも……?」

「別にいいだろ。夫婦なんだから」

「でも、昨日のあのにやけきった顔は凄かったですよ。何て言うかこう……色気が駄々漏れで。隊長が美女の皮着た熊だって知ってる俺たちですら怪しい気分になり、」

 とうとう振り下ろされた鉄槌は、朗らかに破顔していた隊員の口から絶叫を迸らせる。

「皆、逃げろー! 隊長が本気で怒ったぞー! 捕まると新しい関節技の実験台にされて、全身の骨砕かれるぞー!」

「よし、このまま練兵場まで行って、訓練がてら追いかけっこしようぜ!」

「望むところだ! 全員捕まえて、腹筋とナスラキヤ語の単語の書き取りさせてやる!」

 蜘蛛の子のごとく飛び散る青年たちと、彼らを追う風となった青年。整備された大地で駆ける彼らの口元には、常に楽しげな笑みがあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る