聖杯の君 Ⅲ
「なんだ。お前知らなかったのか?」
塩漬け豚肉の塩味を和らげるためだろう。もう何本目になるかも分からない葡萄酒を開けた青年は、紅の液体で湿った唇の端に苦笑を刷く。その笑顔は、彼が少年であった頃のものを彷彿とさせた。
「知らないから訊いてるんだ。勿体ぶってないでさっさと教えろ」
新たな酒瓶を強引に奪っても、従兄のへらへらとしていて余裕に溢れた表情に変わりはない。
「まあまあ、そんなに焦るなよ。答えは今から教えてやるからさ」
だのに、やや乱れた髪をくしゃりとかき上げ、フィネを見据えた従兄の眼差しは真摯であった。気味が悪くなるぐらいに。
「っても、お前はもうとっくに答えを知ってるはずなんだけどな……。なあ、フィネ。お前の親父さんと叔母さんが結婚すると決めた時、ジジババどもが最初は渋ってたのは、」
「――ああ、そうだな。確かにお前の言う通りだ」
食べ物の滓が付着しているのか、と頬を擦りたくなるまでの値踏みの視線の意味を悟った瞬間。フィネは手を叩いて己の不覚を認めずにはいられなかった。
いとこに類する血縁同士の者は婚姻関係を結べない。しかし家系図が残る王侯や名家の子女、もしくは小さな村ならばともかく、都市に暮らす一般階級となると誰と誰が縁戚であるのかなど曖昧である。だからこそ結婚を決意した恋人たちは、その旨を役所や教会の前など、人目に多く触れる場所に掲示するのだ。さすれば、事情通の誰かが実生活では何ら役に立たない知識を紐解き、禁じられた結合を未然に防いでくれるかもしれないから。
王制から共和制へと移り変わっても、この国の婚姻の法自体は旧時代と一切変わらない。ゆえに当然のことながら、ルオーゼにおいて配偶者を得るには、相手と自分の間の血縁関係の有無や程度を証明しなくてはならないのだ。だからこそ、紙上で永遠の愛を誓いあう夫婦は、互いの血筋を明かした証書の提出を義務付けられているのだろう。――今にして振り返れば、幼児でも考え付く自明の理であった。どうして市長の家に乗り込んだあの時に思い至らなかったのかと、我ながら呆れてしまう。
「だったらどうして俺とセレーヌは結婚できたんだ……?」
「そりゃあまあ、お前んとこにも俺のとこにも、あの子の父親か母親になりそうなやつなんて一人もいねえからじゃねえの? 俺たちの親戚はみんな死刑執行人かその妻で、修道院との関わりなんてこれっぽっちもねえからな」
もしも書類に不備ありとされ、セレーヌとの婚姻が反故にされてしまっては敵わないから、ルトに戻ったらできるだけ迅速に手を打たねばならないだろう。しかしそれには、ただ一つだけ問題があった。
「なあ、レイス」
「あ? どうした?」
「俺、結婚を知らせる手紙に“王制廃止後の、大規模な政治事件を全部教えてくれ”って書いてただろ? 覚えてたか?」
本人の証言。及び共に過ごした数か月をもってしても、無実の罪を着せられ牢に放り込まれた少女の身の上は、絡み合った毛糸の束そのものだった。
ルト郊外の修道院で母親と生活していたという事情以外は、セレーヌの過去の一切は依然として靄に包まれたまま。まして、その母親も聖院から姿を消した――娘同様ありもしない罪を追求され、処刑場を濡らす露となってしまったのかもしれないとくれば。
フィネは、セレーヌの母らしき年齢の女を処刑した覚えはない。ならばきっと、哀れな母親の息の根を絶ったのはフィネの父であるはずだ。自分の父親が妻の母親を屠ったと仮定するだけでも気が滅入る。それでも母との再会を渇望する少女にはいつか、彼女が心身ともに成長してから、真実を教えて望みを叶えてやるべきだろう。
だからこそフィネは首都の従兄に助力を願ったのだ。セレーヌの母親の
「ったりめえだろうよ。俺はまだボケちゃいねえんだから」
「悪い、悪い」
「でもよ、昔の日記漁ってまで調べたけどよ、んな事件一つも起きちゃいなかったぜ」
返事は虚しいものだったが、もとよりそう上手くことが運ぶと期待してもいなかったので、落胆もしなかった。
「あの子の母親の姓だって言う“ディルニ”はトラスティリア系の姓だろ? お前のセレーヌちゃんはほんと謎だらけだな」
フィネよりも明るい青の双眸は、遠くに向けて細められている。
「あの砂糖菓子で飾り立てた人形みたいな顔、絶対にどこかで見たことあるんだけどな……」
「お前の思い違いじゃないか? セレーヌは可愛いけど、典型的なルオーゼ人の顔してるだろ? それに、セレーヌは母親以外に身寄りがなくて、首都に来たのはこれが初めてらしいし」
「いやでも、あの顔は絶対にここのどこかで……。とっさには思いだせねえけど……」
俺もとうとう焼きが回ってきたらしい、と前言とは相反する文句を冗談めかして呟いた青年は、わざとらしく晴れやかに顔を崩した。
「じゃああれだ! きっとあの子は、どっかのお貴族様の御落胤だったり、」
もうこういうことにしとけよ、とのいささか投げやりな提言は受け入れられなかった。
ルオーゼにおいてどころか大陸中部の国々においては、子供は父親に属するものとされている。そのため万が一両親が離婚しても、子はほぼ必ず父親に引き取られ、特別な事情がなければ母の姓を名乗りはしない。
子供が父ではなく母の姓を受け継ぐ事例は、概ね二つに分けられる。一つは父親が母親の家に婿として入った場合。そしてもう一つは正式な夫婦関係を結んでいない男女の間に子供が生まれ、しかもその子が父親に認知されなかった場合である。
俗に私生児と称される彼らは、死刑執行人並ではなくとも、相応の嘲りの対象となる存在であった。「実は貴人の落とし子である」という小説やお伽噺にありがちな身の上に憧れる者もいはするが、セレーヌはそういった類の少女ではないだろう。むしろ、自分どころか母親まで侮辱されたと激怒するはずだ。
「……お前がそう考えるのは勝手だが、確証はないんだから、あの子にそんなことは訊ねるなよ」
青年は控えめに、だがしっかりと従兄をたしなめる。レイスに悪気はないことは理解しているが、やや口が軽すぎるきらいがある従兄がうっかり口を滑らせてしまうかもしれない。
「分かってるって。お前は相変わらず心配性だな。そんなに頭を使ってばっかだと、そのうち禿げちまうぞ」
「ベルナリヨンの家系には薄毛はいない。だから大丈夫だ」
「まーたムキになっちゃって。そういうとこが怪しいんだよな」
「黙れ」
「はいはい。ま、お前の髪の議論は二十年後まで待とう。その頃には結果が出始めてるだろうからな」
最後の葡萄酒がフィネに差し出されたのは、これでも飲んで機嫌を直せという意味だろう。別に大して気を損ねてはいないのだが、ありがたく受け取っておく。
中の液体を抜かれた硝子壜は軽く、そんな所も人体と似ていた。解剖用に切り開かれ、全ての臓器を抜かれた亡骸もまた軽い。
揺蕩う黒ずんだ真紅は、臓腑を抜いた亡骸と同じく猫の仔のように軽い少女に纏わる最後の、そしてフィネにとっては最も大きな謎への疑念を呼び起こした。
「あの子さ、母親に会いたいから俺と結婚したらしいんだ。世界で一番愛してるんだと」
「へえ……? そりゃ夫としては随分と妬ける話だな」
「もうすぐ十四歳とはいえ、あの子はまだ子供。母親が恋しいのは理解できる。たった九つの頃に母親がどこかに行ってしまって、それから一度も会っていないのならなおさらだろう。でも、」
レイスは唐突に饒舌になったフィネに戸惑いを見せたものの、やがて静かに酒杯を持ち上げた。
「あの子、その割には母親のことを何も喋らないんだ。前の“院長さま”のことはそれなりに、大嫌いだという“マリエット”のことでさえ少しは俺に話してくれたのに」
母方の、それもルオーゼ人には稀な姓を受け継いだという点を考慮し、フィネはセレーヌの母がトラスティリア系ではないかと結論付けた。そのために、彼女の母親に関する情報や反応が引きだせれば、と外国人街にも連れて行ったのだが、セレーヌの反応は一般的な観光客そのもので。
「肝心の母親のことは“大好きだ”と微笑むだけで、名前さえも――」
青年は二つの疑問よりももっと根深く心に引っかかる謎を吐露し、目を伏せる。訝しげに目を見開いた従兄の視線の先には、少女の髪と似通った色合いの円盤が浮かんでいた。
◆
光を取り入れぬ古い様式に従って建てられた聖堂の内部は、真昼であってもどこか仄暗い。手入れの行き届かぬ半ば朽ち果てた建物特有の誇り臭さと、古ぼけた預言者の像が醸し出す不気味さは、幼子を怯えさせるには十分過ぎる代物であった。けれども少女は僅かながらに射す光を頼りに、冷たい闇の中に足を踏み入れたのだ。
少女が母親探しの短い旅に出されるのは、今回が初めてではなかった。非常に信心深い修道女である母は、常に唯一神の側に在ろうとする。
――イディーズは、おかあさんはきっとあそこにいるっていってたけど。でも、イディーズはときどきうそをつくから。
子供は不安に目の端を濡らしながらも、女の影を探し回る。零れ落ちそうに大きな瞳は子供が目印にする蝋燭の燈を見出し輝き、小さく愛らしい鼻は獣の脂が焦げる不愉快ながらも喜ばしい臭いにひくついた。
「おかあさん!」
大好きな母がいれば、薄暗い聖堂にさえも光は降り注ぐ。子供は迸る喜びのままに女の背に飛びついたが、か細い背は思いがけずあっけなく傾いだ。
「だ、だいじょうぶ? ごめんなさい。……いたかった、よね?」
子供は母の身体に受け止められたので平気だったが、折れそうに華奢な身体はその分まともに冷たい床に打ち付けられてしまっている。申し訳なさに唇を噛みしめながらも、闇の中に浮かび上がる項に、平板な胸に頬を擦りつける。かつて少女を養った乳はとうに枯れ果ててしまっていたが、母の素肌からは甘い乳の香りがした。もう思い出せないぐらい昔に嗅いだきりだった愛しい人の匂いに、滲む涙が抑えられない。
この匂いが、母のことが大好きだ。なぜなら母は自分を生み出した、自分だけの神であるから。天上に坐す神など、母に比すれば塵芥。良くて雑草程度のつまらぬ存在である。だのに母は頬を膨らませる少女を嗜め、いつも驕り高ぶらずに敬虔に唯一神とやらに祈っている。母は、瞳や声音のみならず、魂までもが澄み切って清冽なのだ。
少女の自慢の母。大好きな母。大切な母。この世でただ独りだけの母。少女は母を世界で一番愛しているが、この想いの全ては、どんな言葉で表せば伝えられるのだろう。どうすればあの目に自分のみを映してくれるのだろう。
「おかあさん?」
修道院の薔薇窓よりもよっぽど綺麗だと、暇があればいつも思い描いている双眸を覗き込む。途端、少女は背や後頭部を強かに打ち付ける衝撃と共に、間違いを悟った。また、騙されたのだ。
「やめて、やめて、やめて。……こないで、」
激痛に呻く子供を助け起こそうともせずに、譫言を呟きながら蹲る女が母親であるはずはない。これはあの女だ。またイディーズに騙されたのだ。
――おまえこそきえろ。
幾度となく囁かれた呪詛は脳内で飛び回り、何よりも鋭い剣となって幼い心を切り裂く。そして子供の意識は溢れ出た血潮に呑まれ、やがて悪夢は終わったのだった。
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